無能の鬼姫〜神子の予言と運命の決闘〜

神城さんの献身的な看病と、溢れるほどの愛のおかげで、私はすっかりと元気になっていた。翌朝、鏡の前に立つと頬の腫れはすっかり引き、心の曇りも彼が注いでくれた温かな言葉によって晴れ渡っていた。
久しぶりに登校した学園の空気は、以前よりも少しだけ優しく感じられる。
教室の扉を開けると、真っ先に駆け寄ってきたのは冬美だった。
「玲花ちゃん! 大丈夫!? 顔、腫れてない? 痛くない?」
「冬美、おはよう。……うん、もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
冬美は私の顔を隅々まで点検するように覗き込み、安堵したようにふにゃりと眉を下げた。
「よかったぁ……。神城様が教室に来た時は、そのまま連れ去って二度と帰ってこないんじゃないかと思ったよ」
「ふふ、大袈裟だよ。でも、冬美が神城さんに伝えてくれたんでしょ? 本当にありがとう。冬美がいてくれて、本当によかった」
心からの感謝を伝えると、冬美は照れくさそうに「親友なんだから当たり前でしょ!」と笑ってくれた。
その後は、神城さんの「味方だ」という言葉を胸に、いつものように授業の準備を進めます。ようやく、嵐が去って穏やかな日常が戻ってきたのだと、私は胸を撫で下ろした。
ところが。
一時間目が始まる直前、校内に低く重厚なチャイムが鳴り響く。
『全生徒に告ぐ。直ちに講堂へ集まるように。繰り返す、全生徒、至急講堂へ――』
スピーカーから流れる、どこか緊張を含んだアナウンス。
「えっ、全校集会? 今日の予定にはなかったよね?」
冬美が不思議そうに首を傾げる。
周りの生徒たちもざわざわと騒ぎ出し、教室の中は一気に落ち着かない空気へと変わっていく。
胸の奥で、小さな、けれど確かな予感が疼いた。
ようやく手に入れた穏やかな朝が、また別の、さらに大きな波に呑み込まれようとしているような……。
私は不安を打ち消すように、冬美の腕に手を添えて、騒がしくなった廊下へと一歩を踏み出した。


騒然とした空気の中、導かれるように講堂へと足を踏み入れた私たちは、その異様な光景に息を呑んだ。
ステージの上には、このあやかし界を統べる頂点――名だたる「三大一族」の当主たちが居並び、さらには名門家の重鎮たちがずらりと居座っている。普段、教科書やニュースの中でしか目にすることのない雲の上の存在たちが、一堂に会している。その圧倒的な威圧感に、全校生徒は水を打ったように静まり返った。
私の隣で、冬美が小さく震えながら私の腕を掴む。
「ねぇ、玲花ちゃん……これ、ただ事じゃないよ」
集会が宣言されると、ステージ中央に一歩踏み出したのは、薫の婚約者である鏡見楓が属する一族の長。                    彼は冷徹な笑みを浮かべ、全校生徒を震撼させる言葉を紡ぐ。
「静粛に。本日、我らがここに集ったのは、天より下されたある『予言』を皆に伝えるためである」
一瞬の静寂。それは嵐の前の静けさのように、重く講堂を支配しました。そして、彼は朗々と響く声で言葉を続けた。
「――この学園に、『神子』が降臨する」
その単語が放たれた瞬間、講堂の空気は爆発したかのように激しく揺れ動いた。
「神子」
それは千年に一度、あやかしの女性として生を受けるとされる、伝説の存在。
莫大な霊力をその身に宿し、数多の異能を縦横無尽に駆使する「生ける奇跡」。その女性を手にした一族はあやかし界の頂点に君臨することを約束され、伴侶となった者は神子から分け与えられる霊力によって、計り知れない力を手にすると言い伝えられている。
長の言葉が響き渡る中、私はある視線に気づいた。
ステージの端に控えていた薫が、勝ち誇ったような、冷酷な笑みを浮かべてこちらを……正確には、私を射貫くようにじっと見つめていたのだった。
(神子……? そんなお伽話のような存在が、本当にこの学園に……?)
私の胸は、得体の知れない不安に突き動かされるように早鐘を打ち始める。
ステージ中央に立つ鏡見家の長は、冷徹な笑みを深めながら、全校生徒を震撼させる言葉を続けた。
「その予言は、あまりにも具体的であった。あやかし界の命運を握る『神子』は――今、この学園に在籍する『鬼龍院家の娘』のいずれかであると示されたのだ」
その瞬間、講堂内の視線が濁流となって押し寄せた。
ステージ脇で不敵に微笑む薫と、そして、神城さんの隣で呆然と立ち尽くす私。                            二人の「鬼龍院の娘」を品定めするような無数の眼差しが、容赦なく注がれた。
「えっ、鬼龍院さんの……?」
「じゃあ、あの『無能』と呼ばれているお姉様か、それとも才色兼備の薫様か……」
周囲から漏れ出す無遠慮なひそひそ話が、鋭い針となって私の肌を刺す。
隣で私を庇うように立つ神城さんの腕に、ぐっと力がこもるのが分かった。                           私を見つめる時の優しさは消え失せ、その表情はかつてないほど険しく、人を簡単に殺めてしまいそうな鋭さを帯びている。
一方、ステージ上の薫は、待ってましたと言わんばかりに一歩前へ躍り出た。
その瞳には、昨日までの屈辱をすべて塗りつぶし、世界を足蹴にするような狂気じみた歓喜が宿っていた。                       彼女は、神城さんに守られている私を冷酷に見下ろし、声に出さず、唇の動きだけでこう告げる。
(……私の勝ちだわ、お姉ちゃん)
「神子の力は、天の理が満ちる時にのみ真に目覚める。予言によれば、覚醒の刻は来週の満月の夜。それまでは、両名を厳重に保護し、その推移を見守ることとする」
千年に一度、莫大な霊力を持って生まれ変わるという伝説の存在。その「神子」が、今、自分たちのすぐそばにいる。                その衝撃の事実に、生徒たちの間には驚愕と興奮が濁流のように広がっていった。
神城さんがそっと私の肩を抱き寄せ、周囲の喧騒から守るように力を込めてくれるのを感じながら、私はステージの上で勝ち誇ったように微笑む薫の姿を、ただ見つめることしかできまなかった。
長の厳格な宣言と共に全校集会は解散となったが、学園内は一気に蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれていた。
廊下を歩けば、どこからともなく悪意を孕んだ囁きが聞こえてくる。
「神子はどっちだと思う?」「決まってるじゃない、才色兼備の薫様よ」「あのお姉様の方は『無能』だって有名だし、神子なわけないわよね」
周囲の視線は、もはや確信を持って薫を「次代の頂点」として崇め始めていた。
けれど、そんな喧騒の中でも、私の隣を歩く神城さんだけは、以前と何も変わらなかった。
「玲花、周りの雑音など気にするな。お前が神子であろうとなかろうと、俺にとっての価値は微塵も揺らがない。……俺が愛しているのは、伝説の力ではなく、お前という一人の女性だ」
放課後の夕暮れ時、彼は優しく私の手を握りしめ、真っ直ぐに愛を伝えてくれた。
「神城さん……ありがとうございます」
その言葉だけで、私はどれほど救われたか分からない。
しかし、その光景を、遠くから憎しみに満ちた瞳で見つめる影があった。
「……まだあんな無能に執着しているのね、神城様。いいわ、力ずくでも分からせてあげる」
薫は隣に立つ婚約者、鏡見に冷たく命じました。
「ねぇ、鏡見さん。神城様に『決闘』を申し込んで。そこで学園代表の座を懸けて彼を完膚なきまでに叩きのめせば、神城様も自分の間違いに気づくはずよ。」
(神子である私に相応しいのは、最強の男だけなのよ)
翌日。
昨日に引き続き、私たちは再び講堂へと集められました。重苦しい空気の中、ステージに上がったのは、鏡見家の次期当主である鏡見楓だった。
彼は全校生徒の前で、一際鋭い視線を神城さんへと向け、言い放った。
「神城! 貴様に学園代表を名乗る資格があるか、ここで白黒つけようじゃないか。俺はこの学園の代表として、そして未来の神子の伴侶として、貴様に『学園代表の座』を懸けた決闘を申し込む!」
講堂が再び、激しいどよめきに包まれる。
鏡見さんの背後では、薫が勝利を確信したような、傲慢な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
隣に立つ神城さんの身体から、静かな、しかし圧倒的な霊力のプレッシャーが立ち昇るのを感じた。
「……いいだろう。その挑戦、受けて立つ」
神城さんの低い声が響き渡り、神子の覚醒を前に、学園を揺るがす最大の激突が決まった瞬間だった。

全校集会が解散し、ざわめきが広がる講堂。私は周囲の視線も構わず、人混みを縫うようにして彼の背中を追った。
「神城さん!!」
裂帛の気合に近い私の叫びに、彼は足を止めて振り返る。
「玲花? どうしたんだ……そんなに慌てて」
神城さんは、凪いだ海のように穏やかだった。その平然とした様子が、かえって私の焦燥を煽る。
「決闘って、一体何なんですか?」
私の剣幕に、彼は少しだけ目を細めた。荒い息をつく私を宥めるように一歩近づき、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「そういえば、まだ玲花には言っていなかったな。……この学園には『学園代表』という地位がある。それは知っているな?」
「はい……」
入学式の時、厳かな空気の中で説明された、選ばれし者のみが冠する称号。
「その座に座れるのは、たった一人。今、俺と鏡見がその座を巡って鎬を削っている」
「でも、どうしてそれが『決闘』なんていう物騒な話になるんですか」
「条件が、揃ってしまったからだ」
条件。その響きに、嫌な予感が背筋を走る。
「学園代表の座を賭けた決闘。それに挑むための絶対条件は、両者に『婚約者』ができること。……そして今、俺にはお前がいる」
(――私のせいだ。私が彼の婚約者になったから、彼を戦いへ引きずり込んでしまったの?)
目の前が暗らむような衝撃に立ち尽くす私を余所に、神城さんは淡々と続けた。
「鏡見がこのタイミングで決闘を仕掛けてきたのは、おそらく神子の予言が降りたからだろうな」
「そんな……っ」
運命という名の巨大な歯車が、私を起点にして回り始めてしまった。絶望に震える私の肩を、神城さんの大きな手が包み込む。
「大丈夫だ、玲花。俺は強い。……安心しろ、必ず勝ってお前を迎えに行く」
力強い、約束の言葉。けれど、その体温を感じれば感じるほど、私の胸は不安で塗り潰されていく。
鏡見さんが何を仕掛けてくるか分からない。もしかしたら、神城さんが二度と立ち上がれないほどの大怪我を負うかもしれない。
(安心なんて、できるわけない……!)
最悪の光景が脳裏を掠めるたび、心臓が握り潰されるような恐怖が、冷たく私の全身を支配していった。
教室に戻ってからも、周囲の声は遠い濁流のように耳を素通りしていった。                              意識は霧のなかにあり、ただ神城さんの言葉が呪文のように頭を巡る。                                     そんな私の心を見透かしたかのように、再び薫からの呼び出しが届いた。
前回の記憶が蘇り、足がすくむ。けれど、逃げることは許されない気がして、私は重い足取りで例の場所へと向かった。                 放課後の静寂に包まれた廊下の先に、薫は以前と同じ不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「薫、なんの用なの……?」
絞り出した私の声に、薫は形の良い唇を吊り上げた。
「お姉ちゃんったら。本当はもう、自分でも気づいているんでしょ?」
「何が……」
「お姉ちゃんが、神城様にとって『邪魔な存在』だってことよ」
心臓を直接掴まれたような衝撃に、肩がびくりと震える。その反応を、薫は見逃さなかった。獲物を追い詰めた肉食獣のような、残酷で満ち足りた笑みを深める。
「やっぱり。自覚はあったんだ〜、自分が足手まといだってこと。ねえ、惨めな思いをする前に、早く神城様の側を離れたら?」
「……嫌、です……っ」
震える声で、それでもはっきりと拒絶した。薫の表情が一瞬で険しく歪む。しかし、彼女はすぐに毒を含んだ微笑を取り戻した。
「まあ、いいわ。どうせ、あんたが神城様に捨てられるのも時間の問題だもの」
吐き捨てるように言い残し、薫が私の横を通り過ぎようとする。その刹那、耳元で氷のように冷たい声が響いた。
「次に会う時は――私が『神子』の姿になった時よ」
言葉の裏にある確信めいた響きに、背筋に冷や汗が流れる。彼女の背中が遠ざかっても、私はその場から一歩も動けなかった。
(私にできることは……何もないの?)
神城さんの婚約者という立場が彼を戦いに引き摺り込み、薫は不気味な予言を突きつけてくる。刻一刻と迫る「決闘」という名の審判。
暗い渦のような不安と、得体の知れない恐怖が混じり合い、私の心は逃げ場のない闇に飲み込まれていった。

そしてとうとう、運命の満月の日が訪れました。
結局、私は何もできずにこの日を迎えてしまった。
神子が覚醒する伝説の夜。それと同時に、学園の覇権を懸けた神城さんと鏡見さんの決闘が始まろうとしている。
「神城さん……っ」
私の心は、不安で押し潰されそうだった。相手は神子候補の伴侶として勢いづく鏡見家。もし神城さんに何かあったら――。
震える私の手に、神城さんは温かな手を重ねた。
「心配ない。玲花の不安は、俺がすべて叩き伏せてやる。お前はただ、俺だけを見ていればいい」
その力強い言葉に、胸の奥の震えが少しずつ収まっていくのを感じた。
ついに決闘の火蓋が切って落とされた。
鏡見さんの放つ苛烈な霊力の奔流に対し、神城さんは静水のような佇まいで迎え撃つ。                              激突する二人の力。空気が震え、視界が白光に包まれるほどの死闘。
しかし、戦いの末に立っていたのは――神城さんだった。
圧倒的な実力差を見せつけ、鏡見さんを完膚なきまでに沈めた彼の姿に、講堂は割れんばかりの歓声に包まる。
「学園代表は、神城様だ!」
「やっぱり、あの方が最強なんだ!」
興奮に沸き立つ周囲の声を遠くに聞きながら、私は安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。
神城さんは無事だ。神城さんが、勝ったんだ。
「神城さん……!」
私は溢れそうになる涙を拭い、勝利の余韻に包まれる彼のもとへ、一刻も早く駆け寄ろうと一歩を踏み出したその時。
喧騒を切り裂くような鋭い風切り音が響いた。
戦いの余韻に浸る観客の死角から、あやかしの霊力を帯びた白刃が、無防備な神城さんの背後を狙って一直線に飛来した。
「神城さん、危ない!!」
叫びと同時に、私の体は思考を追い越して動いていた。
驚きに目を見開いて振り返ろうとする神城さんの背中を、持てる限りの力で突き飛ばす。
直後、鈍い衝撃が私の身体を貫いた。
「……あ、……」
視界がぐらりと揺れ、熱い衝撃が胸元から全身へと広がっていく。
崩れ落ちる私の体を、間一髪で神城さんの強い腕が受け止めてくれた。
「玲花……? 嘘だろ、玲花!!」
彼の絶叫が講堂に響き渡る。
床に広がる鮮烈な赤。                                                     神城さんの震える手が、私の傷口を必死に押さえようとしていますが、指の間からは温かな熱が溢れ出し続けていた。
「嫌だ……行かないでくれ、玲花! 目を開けてくれ!!」
いつも冷静で、誰よりも強かったはずの神城さんが、まるで子供のように声を上げて泣き崩れている。                    私を失うかもしれないという、底知れない恐怖に顔を歪ませ、大粒の涙を私の頬に落としてくれた。
「神城、さん……なかないで……」
霞んでいく視界の中で、彼の泣き顔が悲しくて、私は震える手で彼の頬に触れようとした。でも、指先にはもう力が入らない。
「……ごめんなさい……せっかく、勝ったのに……」
守れてよかった。大好きな人が無事で、本当によかった。
最後にそう伝えようとしたが、言葉は泡となって消えてしまう。
「玲花! 玲花――!!」
遠ざかっていく彼の呼ぶ声を背に、私の意識は深い闇の底へと沈んでいった。

「sid 神城]
腕の中に崩れ落ちた玲花の体は、驚くほど軽かった。
俺が必死に押さえている傷口から、温かい熱が、彼女の命そのものが溢れ出していく。
「玲花……嘘だろ? おい、目を開けてくれ! 玲花!!」
叫んでも、叫んでも、彼女の長い睫毛が震えることはない。
あんなに穏やかで幸せだった日が、どうしてこんな地獄に変わるんだ。                                       俺がもっと注意を払っていれば、俺がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに。
「嫌だ……行かないでくれ。玲花、頼む、俺を一人にしないでくれ!!」
視界が涙で歪み、喉の奥が焼けるように熱い。
なにが最強だ、学園代表だ。無駄にある莫大な霊力があってなお、愛する人を救うことすらできない。               無力感と喪失の恐怖に、俺は子供のように声を上げて泣き続けた。                                       彼女の血に染まった自分の手を、ただ絶望の中で見つめることしかできなかった。
「玲花――!!」
枯れ果てた声で彼女の名前を呼び、その冷たくなり始めた頬に自分の額を押し当てた、その時だった。
どこからともなく、淡く、透き通った青い光が舞い降りた。
それは一羽、また一羽と、幻想的な羽ばたきを見せる青い蝶のような光の群れ。それらが、横たわる玲花の体を優しく包み込むようにヒラヒラと舞い踊り始めた。
「……何だ、これは……?」
涙を拭う間もなく、玲花の体が眩いばかりの光に包まれた。
あまりの神々しさに、周囲の喧騒が嘘のように静まり返る。
光が最高潮に達し、視界が白一色に染まった直後――腕の中の彼女から、信じられないほどの莫大な霊力が溢れ出した。
光が収まり、俺が恐る恐る目を開けると、そこにはより美しくなった姿の玲花がいた。
艶やかだった茶髪は、月の雫を溶かし込んだような神秘的な銀髪へと変わり、その肌は白磁のように透き通っている。
そして、彼女がゆっくりと重い瞼を押し上げると――そこには、深い海を映したような、輝く青色の瞳があった。
「……神城、さん……?」
銀の髪を揺らし、呆然と俺を見上げるその声は、鈴の音のように清らかだった。



深い闇の底、意識が途絶えたはずの瞬間に感じたのは、心地よい風の愛撫でだった。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、そこは血の匂いが漂う凄惨な決闘場ではなかった。                             視界いっぱいに広がっていたのは、空を覆い尽くさんばかりに咲き誇る、満開の桜。                                淡い桃色の花びらが雪のように舞い散る、古びた、けれど神聖な空気を纏った神社の境内だった。
「えっ……? ここは、どこ……?」
困惑して周囲を見渡した、その時。
「ようやく、ここへ来たね」
後ろから響いたその声に、心臓が跳ねた。聞き覚えがある。                                           十歳の誕生日、独りぼっちで泣いていた私の耳元で囁いた、あの不思議な、温かな声。
「……あなたは……?」
「私はこの地の理を司る者……君たちの言葉で言えば『神』と呼ばれる存在だよ」
呆然と立ち尽くす私の視界に、その人の後ろに佇む、もう一人の姿が映り込んだ。
「お母さん……っ!?」
幼い頃に亡くした、私を唯一愛してくれた優しいお母さん。彼女は慈しむような笑みを浮かべ、私の頬に触れるように手を伸ばした。
「玲花、驚かせてごめんなさい。……あなたは『無能』なんかじゃないの。あなたは、千年に一度の奇跡……『神子』なのよ」
お母さんのその言葉で、思い出した。あの夢のことを。
まだ幼かった私に、お母さんは、祈るように囁いていた姿を。あの時はノイズがかかっており聞こえなかった。
『玲花、あなたには「神子の覚醒」がある』と。お母さんはそう言っていたらしい。
「神子……。私が……?」
「さあ、戻りなさい、玲花。あなたを愛し、泣き叫んでいるあの方の元へ」
お母さんの優しい手があやかしの神様と共に私の背中を押し、視界が眩い白光に包まれた。
次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは、涙で顔を濡らした神城さんの悲痛な表情だった。
「……神城、さん……?」
自分の声が、鈴の音のように清らかに響くのが分かった。
神城さんは驚きに目を見開いたまま固まり、私の頬を震える手で包み込む。                             ふと辺りを見渡すと、学園の生徒たちや名家のお偉いさんたち、そして鬼龍院家の者が、一様に息を呑み、跪いている。
「……神子が、覚醒した……!」
「嘘だろ……あの方こそが、真の神子……鬼龍院玲花様だ!」
口々に叫ばれるその名前。
銀色に輝く自分の髪と、澄み渡るような青い瞳――。
鏡のような神城さんの瞳に映る自分の姿を見て、私はようやく理解した。
「無能」と蔑まれ、居場所さえなかった私が、あやかし界を導く「神子」として今、この場所に再び命を授かったのだということを。

[sid 薫]
「神子」——その尊き称号は、私にこそ相応しいはずだった。
父も母も、鏡見家の誰もがそう疑わなかった。類まれな霊力を宿し、誰よりも美しく、気高く咲く私こそが、一族の希望そのものだと。私自身、その輝かしい運命を当然のように受け入れていた。
だというのに、どうして。
どうして、あんな無能で、泥に塗れたような出来損ないの姉が、神子として覚醒したの。
「何かの間違いよ」
そう叫び、嘲笑ってやりたかった。けれど、喉まで出かかった言葉は、目の前の圧倒的な現実を前に凍りついた。
陽光を撥ね退けるほどに神々しい髪の色。全てを見透かすような瞳。                              そして、何よりも彼女の細い体から溢れ出す、天を衝くほどの凄まじい霊力。それが、残酷なまでの真実を告げていた。
「彼女こそが、真の神子である」と。
数刻前まで、私は崇められ、姉は蔑まれていた。それがどうだろう。                                       今やこの場にいる者すべてが、跪き、祈るように彼女を仰ぎ見ている。
かつて姉を「無能」と罵り、虐げてきた両親の顔は、見るも無惨に蒼白く染まっていた。当然だ。                 千年に一度の奇跡、一族を繁栄の頂へと導くはずの「幻の存在」を、あろうことか自らの手で放逐したのだから。
その代償は、我が鬼龍院家にとって破滅にも等しい。
あやかし界の勢力図は、今この瞬間に塗り替えられた。                                             最強と謳われる神城家の次期当主、神城竜馬様の婚約者として選ばれたのは、覚醒した姉だった。
もとより絶対的な力を誇る神城家が、神子の加護まで手にするというのか。そうなれば、もう私たちに抗う術など残されていない。
背後に控える鬼龍院の者たちから漏れるのは、もはや言葉にもならない絶望と、二度と取り返せない過ちへの昏い後悔だけだった。