神城さんの婚約者として迎え入れられてから、私の世界は優しく穏やかな色彩に染まっていた。
特に最近の朝は、これまでの人生では考えられないほどゆったりとした時間が流れている。以前の私にとって、朝は家族の食事を準備するために息つく暇もなく働き続ける、過酷な労働の時間でしかなかった。けれど今は、私のような「無能」と蔑まれていた者にも慈しむように接してくれる神城家の使用人の方々のおかげで、重い家事から解放されている。
その分、朝は泥のように深く眠れるようになったど……実は最近、少しだけ困ったことが起きている。
窓の外から聞こえる可愛らしい小鳥のさえずりに、ゆっくりと意識を浮上させたある朝のこと。寝る前は一人だったはずの布団の隣に、温かな体温を感じた。ふと横を向くと、そこには神城さんの姿が。
「えっ!? か、神城さん……っ!?」
驚きのあまり、思わず大きな声を上げてしまった。
私の声に反応して、彼は閉じていた瞼をゆっくりと押し上げます。そして私を視界に捉えた瞬間、蕩けんばかりの甘い笑みを浮かべた。
そのあまりの美しさに胸を射抜かれながらも、私は必死に問いかける。
「あ、あの……どうして神城さんが、私の布団の中にいらっしゃるんですか?」
彼は眠たげに目を擦りながら、事もなげに答えます。
「ああ……。玲花があまりに可愛すぎてな。見惚れていたら、いつの間にか寝落ちしてしまったんだ」
朝一番に浴びせられるストレートすぎる言葉に、顔が火を吹くほど熱くなるのを感じる。
「……つ、次からは、ちゃんと仰ってくださいね」
「分かった。次からはそうしよう」
そんな約束を交わして、私たちは寝室を後にし、それぞれ学園へと向かう準備を始める。
神城さんには、恥ずかしくて口が裂けても言えないけど、本当は隣で一緒に目覚めてくれることが、泣きたいほどに嬉しい。
幼い頃、家族みんなで一つの布団にくるまって眠ることに憧れていた。 けれど、家族から疎まれていた私に、そんな温かな願いが叶う日は一度として訪れなかった。
失ったと思っていた幼い日の願いが、今、神城さんの隣で形を変えて叶えられている――。
(これからも、こんな日々を過ごしていきたい……)
溢れ出す幸福感に胸を震わせながら、私はこの穏やかな奇跡が永遠に続くことを、心から願わずにはいられなかった。
「よし、これで準備は大丈夫そう」
鏡に映る自分の姿を最終確認し、私はリビングへと足を向けた。
扉を開けると、そこには既に支度を終えた神城さんと、凛さんの姿があった。テーブルの上では、作りたての料理たちが真っ白な湯気を立ち昇らせ、食欲をそそる香りを漂わせている。
「凛さん、おはようございます」
「あら、玲花ちゃん! おはよう。ふふ、今日も本当に可愛いわね」
「あ、ありがとうございます……っ」
明るい声で迎えてくれた凛さんは、神城さんのお母様。凛としていて美しく、それでいて陽だまりのような温かさを持つ人。 家族から「無能」と疎まれてきた私を、神城さんと同じように惜しみない愛情で包み込んでくれる、本当のお母さんのような存在。
「母さん、俺の玲花を独り占めしようとしないでください」
不意に、神城さんが少し拗ねたような声を上げた。
「あら、やだ。もしかして嫉妬かしら? 可愛いところがあるわねぇ」
そんな二人の微笑ましいやり取りを眺めていると、冷え切っていた私の心まで解けていくような気がする。 促されるままに席につき、手を合わせた。
「いただきます」
神城さんと視線を合わせ、朝食を口に運ぶ。並べられた料理はすべて凛さんの手作り。 どれも素材の良さを活かした優しい味付けで、一口食べるごとに身体の芯から元気が湧いてくるような、私の大好きな味。
「凛さん、今日もとっても美味しいです!」
「ふふ、ありがとう。玲花ちゃんは本当に素直で良い子だわ」
いつものように返ってくる温かな言葉。
かつての孤独な朝が嘘のように、賑やかで優しい時間が過ぎていく。 心もお腹も幸福感で満たされた私たちは、穏やかな余韻を纏いながら、共に学園へと向かうのだった。
学園の門を潜ると、周囲の視線が一斉にこちらへと注がれる。
次の瞬間、打ち合わせでもしたかのように生徒たちが一斉に深いお辞儀を繰り出す。 それは最近の登校風景において、もはや恒例行事のようになっている光景。
神城さん曰く「俺とその婚約者に敬意を払うのは、この学園では一般常識だ」とのこと。これからもずっと続くことだから慣れるしかないと言われているけど、今まで誰からも省みられず、それどころか虐げられてきた私にとって、この至れり尽くせりな状況はどこか落ち着かない、不思議な感覚。
(少しずつ、慣れていかなきゃ……)
そう自分に言い聞かせ、背筋を伸ばして神城さんと共に教室へと向かう。
「じゃあ、玲花。今日も一日頑張るんだぞ」
「はい、神城さん。神城さんも……その、頑張ってくださいね」
「っ……! ああ、ありがとう」
私の拙いエールに、神城さんは一瞬言葉を詰まらせ、嬉しそうに目を細めました。
そんな他愛ないやり取りを交わして自分の席に着く。以前の私にとって、教室はいつ誰に何をされるかわからない「恐怖の場所」でしかなかったけれど今は、神城さんが「俺が味方だ」と力強く宣言してくれたおかげで、一歩も引かずにここに居られる。 彼にはどれほど感謝しても、恩を返しきれる気がしない。
感謝を胸に教科書を開き、予習を始めてしばらくした頃。不意に背後から柔らかな温もりと衝撃が伝わった。
「玲花ちゃん! おはよーっ!」
「冬美! おはよう」
首に腕を回して抱きついてきたのは、親友の冬美。
彼女は、私がこの学園で初めて得た大切な友達。そして、神城さん以外で唯一、心から信頼を寄せられるかけがえのない存在。
「玲花ちゃん? どうしたの、そんなにニマニマして。何かいいことあったでしょ~?」
「えっ!? ど、どうして……」
冬美の鋭い指摘に、私は思わず肩が跳ねた。
「いやぁ、だって。顔がもう『幸せです!』って満ち溢れていたからさ」
「そ、そうかな……? き、気のせいだと思うよっ」
火照る頬を隠すように両手で押さえますが、自分でも顔が緩んでいる自覚があるだけに、動揺を隠しきれない。
冬美には申し訳ないけれど、神城さんとの甘い朝の出来事なんて、口が裂けても言えない。そんな惚気、恥ずかしすぎて想像しただけで命の危機を感じてしまうもの。
親友に隠し事をする罪悪感に少しだけ胸を痛めつつも、私は必死に話題を逸らした。
「そっか。まぁ、玲花ちゃんが元気なら良いんだけどね」
冬美はそう言って屈託のない笑顔を見せてくれた。それからは先生が教室に姿を現すまで、私たちは止まることのないお喋りに花を咲かせた。神城さんと過ごす甘やかな時間とはまた違う、親友との穏やかで楽しいひととき。
かつての私が夢にまで見た「当たり前の幸せ」が、今の私の日常を優しく彩っていた。
しかし、平穏な時間は、唐突にその色を変えた。
昼休み、冬美と食堂へ向かおうと廊下を歩いていた時のことだった。
「あの、玲花様」
控えめな声に振り返ると、そこには昨日私に手紙を届けてくれた女の子が立っていた。
「あっ、昨日の……どうしたんですか?」
「薫様がお呼びです。玲花様を連れてくるようにと仰せつかりまして……」
その言葉に、冷たい水が背中を伝うような感覚を覚えた。 幸せの余韻に浸るあまり失念していたが、昨日受け取った薫からの手紙に、今日会うという約束が記されていた。
「分かった、すぐに行きますね。……ごめんね、冬美。ちょっと用事を済ませてくる」
「分かった。でも玲花ちゃん、何か嫌なことをされたらすぐに言ってね!」
冬美の心強い言葉に「ありがとう」と微笑みを返し、私は案内役の少女の後に続いた。
導かれた先は、学園が誇る広大な庭園。
色とりどりの花が咲き誇る絶景スポットとして名高い場所で、今の時期は何といっても桜が見事で風に舞う花びらは雪のように白く、その幻想的で神秘的な美しさは、この世のものとは思えないほどだった。
そんな、絵画のように美しい桜の樹の下に、薫は佇んでいた。
「薫様、お連れいたしました」
少女の声に、薫はやっとこちらの存在に気づいたように顔を上げる。
「そう、ご苦労様」
私に向けられた薫の表情は、一見すれば華やかな笑顔。 けれど、その奥にある瞳は凍てつくほどに鋭く、まるで獲物を射抜くような冷徹な光を宿している。
「あの、薫……私に話したいことって、何……?」
じわじわと這い上がってくる恐怖心が身体を蝕んでいくのを感じながらも、私は必死に声を絞り出した。
もしかしたら、今日こそは歩み寄れるかもしれない。ほんのわずかでも、仲良くなれる兆しがあるかもしれない……。
しかし、そんな淡い期待を抱いた自分を、私はすぐに激しく後悔することになった。
「あら、お姉ちゃん。いつから私にそんな気安く話しかけて良い身分になったのかしら?」
「……っ、え?」
薫は相変わらず、仮面のような優しげな笑みを貼り付けたまま、私の至近距離まで歩み寄ってきた。
刹那、乾いた「パシン」という音が静かな庭園に響き渡り、私の左頬を鋭い衝撃と熱い痛みが貫いた。
何が起きたのか理解するまで、数秒の時間を要した。私は、妹である薫に――叩かれたのだと。
「はぁ……全く。神城様の婚約者になったからって、随分と調子に乗ってくれているじゃない?」
「ちが……私は、そんなつもりじゃ……」
「黙りなさいよ!!」
鼓膜を突き刺すような怒声。
「無能の分際で、よりによってあの神城様に選ばれるなんて……!」
(どうしよう……。薫が、あんなに怒ってる。怖い。逃げなきゃ……)
そう本能が警鐘を鳴らしているのに、足が竦んで一歩も動けなかった。その間にも、薫の嫉妬と怒りは濁流のように膨れ上がっていく。
「あんたは私の引き立て役として、泥を這いずり回っていればいいのよ! なんで、私よりも目立っているのよ……!」
「ご、ごめんなさい……っ」
「何よその顔!? 私が悪者みたいじゃない! そうやって悲劇のヒロインを気取って、周りの同情を買うつもりなのね!!」
逆上した薫の耳には、もはや私の謝罪など届いていなかった。
何度も、何度も、振り下ろされる掌。私は抗う術も、逃げる術も持たず、ただ無残に地面に崩れ落ちるしかなかった。
舞い散る桜の花びらが、土に汚れた私の視界を掠めていく。
無様に伏した私の姿を見下ろし、薫の口角がようやく歪な形に釣り上がった。 それは、執拗に痛めつけた末に得た、歪んだ満足感に満ちた表情だった。
「まぁ、いいわ。どうせ、あんたみたいな無能、すぐに捨てられるに決まっているもの。神城様だって、いずれ本物の価値があるのが私の方だって気づいて、私を愛するようになるわ」
吐き捨てられるように残された言葉。去っていく薫の背中を、私は地面に伏したまま、ただぼんやりと見つめることしかできなかった。
頬の痛み以上に、彼女が残した呪いのような言葉が、冷たく耳の奥にこびりついて離れない。
「神城さんが、私を捨てる……」
そんなことをする人ではない。彼は誰よりも優しく、私を見つけてくれた人。頭ではそう理解しているのに、一度芽生えた不安が毒のようにじわじわと心を侵食していく。
今までだって、そうだった。
私に優しくしてくれた人たちも、最後にはみんな薫の方へ行ってしまった。 彼女の輝きの前に、影でしかない私の存在なんて、いつも簡単に忘れ去られてきた。
(なら、今回もそうなるんじゃないの……?)
もし、神城さんが薫の美しさや才能に気づいてしまったら。私を愛でる理由がなくなってしまったら。あの時、家族に捨てられた時と同じように、また私は暗闇の中に放り出されるのではないか――。
信じたい。彼を信じたい。
けれど、心の底に沈殿している過去の拒絶が、叫ぶように私の思考を掻き乱す。
「私は、どうしたらいいの……?」
桜の花びらが、涙で滲んだ視界に静かに降り積もっていく。
幸せな朝が嘘のように、私は一人、逃れられない絶望の渦に飲み込まれていくようだった。
教室に戻ると、冬美がすぐに駆け寄ってきた。
「ちょっと、玲花ちゃん!? その頬、どうしたの……!?」
冬美の悲鳴に近い声に、私は慌てて顔を伏せ、乱れた髪で赤く腫れた頬を隠した。
「なんでもないの、ちょっと転んじゃって……」
「転んでそんな風に腫れるわけないでしょ! まさか、さっきの呼び出しで何かされたの!?」
私は力なく首を振ることしかできまなかった。 薫から投げつけられた「捨てられる」という言葉が、重い石のように心を塞いで、声が出せなかった。
私の異変を察した冬美は、唇を強く噛み締めた。
「分かった……。今は無理に聞かない。でも、これだけは放っておけないから」
冬美はそう言い残すと、教室を飛び出していった。
一人残された私は、冷たい机に突っ伏して、止まらない震えを必死に抑えようと自分を抱きしめる。
数分後、静まり返っていた教室の空気が、一瞬で凍りついたような気配に変わった。
廊下から響く、速く、そして重い足音。
「玲花!!」
名前を呼ぶその声に、私は弾かれたように顔を上げた。
そこには、息を切らせ、見たこともないほどに眉を逆立てた神城さんが立っていた。 彼の背後では、心配そうにこちらを覗き込む冬美の姿が見えた。
「神城、さん……」
彼は大股で私の元へ歩み寄ると、震える私の肩を抱き寄せ、優しく、けれど壊れ物を扱うような手つきで私の頬に触れた。
「誰にやられた」
低く、地を這うような声。彼の瞳には、深い慈しみと、それを上回るほどの烈火のごとき怒りが宿っていた。
「い、いいんです。私が無能だから、薫に……」
「いいわけがあるか!」
神城さんは私の言葉を遮り、私の視線を真っ直ぐに見つめた。
「玲花、お前を傷つける奴は、例え血の繋がった家族であろうと俺が許さない。……帰るぞ。こんな場所に、一秒だってお前を置いておけない」
彼は私の荷物をひっつかむと、私の手を力強く握りしめた。 その手の温もりが、薫に呪われた私の心を少しずつ、けれど確かに溶かしていくのだった。
神城家の門を潜り、私たちは静まり返った屋敷へと戻った。
神城さんは私の手を一度も離すことなく、そのまま私を自室のソファへと座らせてくれた。
「ここで待っていろ」
短くそう告げると、彼はすぐさま救急箱を持って戻ってきた。
神城さんの手によって、冷やしたガーゼが腫れた頬にそっと当てられる。 その手つきは、まるですぐにでも壊れてしまう硝子細工を扱うかのように慎重で、慈しみに満ちていた。
「……話せるか? 庭園で、何があった」
彼の静かな問いかけに、私は震える唇を噛み締めながら、ポツリポツリと話し始めた。
薫に呼び出されたこと。
彼女に叩かれ、「無能」だと罵られたこと。
そして――。
「……神城さんも、いずれ私を捨てて、薫の方へ行くって。私みたいな無能より、薫の方が相応しいって言われて……っ」
堪えていた涙が、溢れ出して止まらなくなった。
「頭では、神城さんはそんな人じゃないって分かってるんです。でも、昔から、みんな最後には薫を選んできたから……私、怖くて……」
私の告白を聞き終えるまで、神城さんは黙って私の手を受け止めてくれてた。
やがて彼は、私の両手を包み込むように握り直すと、祈るような熱を込めて口を開いた。
「玲花、俺をよく見てくれ」
涙で霞む視線を上げると、そこには射抜くような、けれど途方もなく優しい彼の瞳があった。
「あんな言葉、一ミリだって信じる必要はない。いいか、俺にとっての価値は、血筋や能力なんていう薄っぺらなものじゃない。俺が愛しているのは、他の誰でもない、今ここにいる玲花、お前自身なんだ」
「神城さん……」
「お前を捨てる? そんなことは絶対にあり得ない。むしろ、俺の方がお前に捨てられないか不安なくらいだ。お前がいない未来なんて、俺には価値がないんだからな」
彼は私の額に、そっと自分の額を預けた。伝わってくる彼の体温と、真っ直ぐな愛の言葉。
それは、薫が植え付けた呪いの言葉を、一つずつ丁寧に塗り替えていくように。
「お前は無能なんかじゃない。俺の心をこれほどまでに動かせる、世界で唯一の女性だ。……分かってくれるまで、何度でも言う。俺は、お前を愛している」
「っ……はい……っ」
私は彼の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
でもそれは、悲しい涙ではなかった。
ようやく見つけた、本当の居場所。
神城さんの腕の中で、私は生まれて初めて、心の底から「ここにいていいんだ」という深い安らぎを感じていたのだった。
[sid 神城]
午後の授業が始まろうとしていた時、教室の入り口に血相を変えた一人の少女が飛び込んできた。
その少女に俺は見覚えがあった。前に玲花が友達として紹介したCクラスの雪乃冬美だった。
彼女は俺に駆け寄ると、周囲を憚るように声を潜め、しかし切実な声で告げた。
「神城様、……玲花ちゃんが、誰かに酷いことをされたみたいなんです。頬を腫らして、今にも消えてしまいそうな顔で震えているんです」
その瞬間、頭の中が真っ白になるほどの怒りが、身体の底からせり上がってくるのを感じた。
今朝、あんなに幸せそうに笑っていた玲花を。
俺の隣で、小さな奇跡を喜ぶように目を輝かせていた彼女を傷つけた奴がいる。
「……場所は」
「教室にいます。でも、玲花ちゃん……何も話してくれなくて」
彼女の言葉が終わる前に、俺は席を立っていた。
廊下を突き進む足音が、俺自身の苛立ちを反映して重く響く。
あんなに臆病で、それでも懸命に俺を信じようとしてくれている彼女が、なぜこれほどまでに苦しまなければならない。
教室の扉を乱暴に開けると、クラス中の視線が集まった。だが、そんなものはどうでもいい。
俺の視界に映ったのは、机に突っ伏し、肩を小さく震わせている玲花の姿だけだった。
「玲花!!」
名前を呼ぶと、彼女は怯えたように肩を跳ねさせ、ゆっくりと顔を上げた。
髪の間から覗くその頬は痛々しく赤紫に腫れ、瞳には涙が溜まっている。
その顔を見た瞬間、俺の中の何かが完全に切れた。
「神城、さん……」
掠れた声で俺を呼ぶ彼女。その震える肩に手を触れると、驚くほど冷たかった。
「誰にやられた」
「い、いいんです。私が無能だから、薫に……」
玲花は自分を責めるように、いつもの癖で視線を逸らした。
薫。あの、玲花を虐げてきた傲慢な妹か。
「無能」などという言葉で彼女の価値を決めつけ、あまつさえその尊厳を傷つけるなど、万死に値する。
「いいわけがあるか!」
俺は彼女を包み込むように抱き寄せた。
「玲花、お前を傷つける奴は、例え血の繋がった家族であろうと俺が許さない」
俺は彼女の細い手を握りしめた。
これ以上、この冷たい場所に彼女を置いておくわけにはいかない。
今すぐ家に連れ帰り、溢れんばかりの愛でその傷を癒してやらなければ。
そして、彼女を泣かせた代償がどれほど重いものか――あの愚かな家族には、身をもって教えてやる。
「帰るぞ。お前を守るのは、俺の役目だ」
俺は彼女を促し、静まり返る教室を後にした。握った手の震えが止まるまで、俺は決してこの手を離さないと、強く心に誓いながら。
早退の許可を取り、玲花を抱き寄せるようにして車に乗せた。
屋敷へ向かう道中、彼女は一言も発さず、膝の上で握りしめた拳を小刻みに震わせていた。その消え入りそうな背中を見ていると、守りきれなかった自分への不甲斐なさと、彼女を傷つけた者への煮えくり返るような怒りが綯い交ぜになる。
屋敷に到着し、自室のソファに彼女を座らせた。
救急箱を手に戻ると、玲花は震える唇を噛み締めながら、庭園での出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
「……神城さんも、いずれ私を捨てて、薫の方へ行くって。私みたいな無能より、薫の方が相応しいって言われて……っ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の奥底で冷徹な殺意が膨れ上がった。
あの女……身体的な暴力だけでなく、玲花の最も脆い場所に、そんな呪いを吹き込んだのか。
家族に疎まれ、誰からも選ばれなかった彼女が、どれほどの恐怖でその言葉を受け止めたか。 想像するだけで視界が真っ赤に染まりそうになる。
玲花、お前は気づいていないのか。お前のその真っ直ぐな心が、どれほど俺の救いになっているか。
「頭では、神城さんはそんな人じゃないって分かってるんです。でも、昔から、みんな最後には薫を選んできたから……私、怖くて……」
溢れ出した涙が、赤く腫れた頬を濡らしていく。
俺は彼女の細い両手を包み込み、逃がさないように熱を込めて握りしめた。
「玲花、俺をよく見てくれ」
無理やり視線を合わせる。俺の瞳に宿る真実が、彼女の不安を焼き尽くすように。
「あんな言葉、一ミリだって信じる必要はない。いいか、俺にとっての価値は、血筋や能力なんていう薄っぺらなものじゃない。俺が愛しているのは、他の誰でもない、今ここにいる玲花、お前自身なんだ」
俺は本心を、一語一語刻みつけるように伝えた。
「お前を捨てる? そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ない。むしろ、俺の方がお前に捨てられないか不安なくらいだ。お前がいない未来なんて、俺には一塵の価値もないんだからな」
彼女の額に自分の額を預ける。伝わってくる小刻みな震えが、俺の言葉を吸い込むように少しずつ収まっていくのを感じた。
「お前は無能なんかじゃない。俺の心をこれほどまでに動かせる、世界で唯一の女性だ。……分かってくれるまで、何度でも言う。俺は、お前を愛している」
「っ……はい……っ」
俺の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくる玲花。
その涙をすべて受け止め、背中に腕を回しながら、俺は心の奥底で冷酷な決意を固めていた。
(……よくも、俺の宝物をここまで傷つけてくれたな)
玲花の心を壊そうとしたあの女、そしてそれを助長してきた家族。
彼らが築いてきたすべてを、跡形もなく叩き潰してやる。
俺の愛する女性を泣かせた代償がどれほど高くつくか、地獄の底で後悔させてやる。
今はただ、腕の中の温もりを離さないよう、愛おしさを込めて彼女の髪を優しく撫で続けた。
その日の午後、神城さんは私を一歩も外に出そうとはしなかった。
「今日はもう、俺のそばにいろ。一秒も離れるな」
そう言って、彼は私を膝の上に抱き上げ、毛布で包み込むように抱きしめてくれた。
「神城さん、あの……私、もう大丈夫ですよ?」
「ダメだ。俺が大丈夫じゃない」
彼は私の首筋に顔を埋め、何度も、何度も、壊れ物を慈しむように甘い口づけを落とします。
「玲花、お前がどれほど愛おしいか、まだ分かっていないようだな。お前の声も、指先も、俺を呼ぶその瞳も……すべてが俺の宝物なんだ。誰にも、指一本触れさせたくない」
熱を帯びた声で語られる愛の言葉。
薫に言われた「無能」という呪いが、彼の体温と甘い囁きによって、少しずつ、けれど確実に溶けて消えていくのを感じた。
(ああ……私は、本当にここにいていいんだ……)
彼の腕の中で、私は生まれて初めて、深い安らぎの中で眠りについた。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光と、隣に感じる温もりで目が覚めた。
ふと横を向くと、そこには昨日よりもさらに優しい眼差しで私を見つめる神城さんの姿が。
「……おはよう、玲花。よく眠れたか?」
「神城さん……おはようございます」
私が微笑むと、彼は愛おしそうに私の頬を撫でた。昨日の腫れは、彼の献身的な手当てのおかげで、すっかり引いている。
「顔色が良くなったな。……可愛い。朝からそんな顔で見られたら、学園に行かせたくなくなる」
「えっ!? そ、そんな……っ」
「嘘じゃない。ずっとこうして、お前を閉じ込めておけたらいいのに」
彼は私の額にコツンと自分の額を合わせ、甘く笑う。
「愛してるよ、玲花。世界中の誰が何と言おうと、俺はお前を選び続ける」
「私も……私も、神城さんを愛しています」
幸せを噛みしめる私に、神城さんは「行ってくるよ」と優しくキスを贈り、部屋を出ていきました。
[sid 神城]
玲花が微睡みの中へ戻ったのを確認し、俺は屋敷を出た。向かうは鬼龍院の家。
向かった先は、玲花の元実家――あの「ゴミ溜め」だ。
リビングに踏み込むと、そこには優雅に茶を啜る両親と、勝ち誇ったような顔をした薫がいた。
「あら、神城様! いらっしゃいませ」
媚びるような笑みを浮かべる薫に、俺は冷徹な一瞥をくれる。
「……随分と楽しそうだな、薫。俺の婚約者の顔を、あんな風に腫らせておいて」
その場が凍りついた。
「えっ、そ、それは……お姉様が、無能のくせに神城様に相応しくない態度を……」
「黙れ」
地を這うような俺の声に、薫が震え上がる。
「本来なら、貴様らの会社もこの屋敷もすべて灰にするつもりだった」
俺が放つ殺気に、父親は床に膝をついた。
「だが……玲花が『一度だけなら、許してあげてほしい』と、その傷ついた頬で俺に慈悲を乞うた。だから、今回だけは命拾いしたと思え」
俺は凍てつくような視線で、一族を射抜いた。
「だが、次はない。次、玲花の指一本にでも触れてみろ。その時は、貴様ら鬼龍院の血筋ごと、この世から消してやる」
俺の背後で、鬼龍院の夫婦は力なく崩れ落ちた。彼らの瞳には、抗いようのない絶望と恐怖が刻まれていた。
そして俺は屋敷を去る前に震える薫の耳元で、誰にも聞こえない声で囁いた。
「お前が玲花に言った言葉、そのまま返してやろう。……無能なのは、他人の価値も分からず、ただ縋ることしかできないお前の方だ。二度と玲花を傷つけるな。」
その一言を言い残し、俺は一歩も振り返らずに屋敷を出た。
汚れ仕事は俺だけでいい。
愛する玲花の日常には、これから先、一欠片の絶望も、一滴の涙も必要ないのだから。
[sid 薫]
(……なによ、あんな無能の分際に守られるなんて、屈辱だわ!!)
神城様が去った後、私は激しい怒りで震えていた。お父様もお母様も、あんな無能の情けで助かったと怯えている。情けない。
私は、お姉ちゃんを見下し、泥水を啜らせていなければ気が済まないのだ。あいつが幸せになるなど、私のプライドが許さない。
「神城様だって、今は騙さされているだけ。目を覚まさせてあげなきゃ……」
暗い情念に身を焦がしていたその時だった。私のスマートフォンに、一通の通知が届く。
それは、学園の権力構造を揺るがすような、衝撃の内容が書かれていた。
(……これだわ。もしも私が覚醒したら神城様だって私を選ばざるを得なくなる)
絶望の淵に立たされた鬼龍院家に訪れた、たった一つの希望。
私の口角は、昏い喜びで歪んでいった。
特に最近の朝は、これまでの人生では考えられないほどゆったりとした時間が流れている。以前の私にとって、朝は家族の食事を準備するために息つく暇もなく働き続ける、過酷な労働の時間でしかなかった。けれど今は、私のような「無能」と蔑まれていた者にも慈しむように接してくれる神城家の使用人の方々のおかげで、重い家事から解放されている。
その分、朝は泥のように深く眠れるようになったど……実は最近、少しだけ困ったことが起きている。
窓の外から聞こえる可愛らしい小鳥のさえずりに、ゆっくりと意識を浮上させたある朝のこと。寝る前は一人だったはずの布団の隣に、温かな体温を感じた。ふと横を向くと、そこには神城さんの姿が。
「えっ!? か、神城さん……っ!?」
驚きのあまり、思わず大きな声を上げてしまった。
私の声に反応して、彼は閉じていた瞼をゆっくりと押し上げます。そして私を視界に捉えた瞬間、蕩けんばかりの甘い笑みを浮かべた。
そのあまりの美しさに胸を射抜かれながらも、私は必死に問いかける。
「あ、あの……どうして神城さんが、私の布団の中にいらっしゃるんですか?」
彼は眠たげに目を擦りながら、事もなげに答えます。
「ああ……。玲花があまりに可愛すぎてな。見惚れていたら、いつの間にか寝落ちしてしまったんだ」
朝一番に浴びせられるストレートすぎる言葉に、顔が火を吹くほど熱くなるのを感じる。
「……つ、次からは、ちゃんと仰ってくださいね」
「分かった。次からはそうしよう」
そんな約束を交わして、私たちは寝室を後にし、それぞれ学園へと向かう準備を始める。
神城さんには、恥ずかしくて口が裂けても言えないけど、本当は隣で一緒に目覚めてくれることが、泣きたいほどに嬉しい。
幼い頃、家族みんなで一つの布団にくるまって眠ることに憧れていた。 けれど、家族から疎まれていた私に、そんな温かな願いが叶う日は一度として訪れなかった。
失ったと思っていた幼い日の願いが、今、神城さんの隣で形を変えて叶えられている――。
(これからも、こんな日々を過ごしていきたい……)
溢れ出す幸福感に胸を震わせながら、私はこの穏やかな奇跡が永遠に続くことを、心から願わずにはいられなかった。
「よし、これで準備は大丈夫そう」
鏡に映る自分の姿を最終確認し、私はリビングへと足を向けた。
扉を開けると、そこには既に支度を終えた神城さんと、凛さんの姿があった。テーブルの上では、作りたての料理たちが真っ白な湯気を立ち昇らせ、食欲をそそる香りを漂わせている。
「凛さん、おはようございます」
「あら、玲花ちゃん! おはよう。ふふ、今日も本当に可愛いわね」
「あ、ありがとうございます……っ」
明るい声で迎えてくれた凛さんは、神城さんのお母様。凛としていて美しく、それでいて陽だまりのような温かさを持つ人。 家族から「無能」と疎まれてきた私を、神城さんと同じように惜しみない愛情で包み込んでくれる、本当のお母さんのような存在。
「母さん、俺の玲花を独り占めしようとしないでください」
不意に、神城さんが少し拗ねたような声を上げた。
「あら、やだ。もしかして嫉妬かしら? 可愛いところがあるわねぇ」
そんな二人の微笑ましいやり取りを眺めていると、冷え切っていた私の心まで解けていくような気がする。 促されるままに席につき、手を合わせた。
「いただきます」
神城さんと視線を合わせ、朝食を口に運ぶ。並べられた料理はすべて凛さんの手作り。 どれも素材の良さを活かした優しい味付けで、一口食べるごとに身体の芯から元気が湧いてくるような、私の大好きな味。
「凛さん、今日もとっても美味しいです!」
「ふふ、ありがとう。玲花ちゃんは本当に素直で良い子だわ」
いつものように返ってくる温かな言葉。
かつての孤独な朝が嘘のように、賑やかで優しい時間が過ぎていく。 心もお腹も幸福感で満たされた私たちは、穏やかな余韻を纏いながら、共に学園へと向かうのだった。
学園の門を潜ると、周囲の視線が一斉にこちらへと注がれる。
次の瞬間、打ち合わせでもしたかのように生徒たちが一斉に深いお辞儀を繰り出す。 それは最近の登校風景において、もはや恒例行事のようになっている光景。
神城さん曰く「俺とその婚約者に敬意を払うのは、この学園では一般常識だ」とのこと。これからもずっと続くことだから慣れるしかないと言われているけど、今まで誰からも省みられず、それどころか虐げられてきた私にとって、この至れり尽くせりな状況はどこか落ち着かない、不思議な感覚。
(少しずつ、慣れていかなきゃ……)
そう自分に言い聞かせ、背筋を伸ばして神城さんと共に教室へと向かう。
「じゃあ、玲花。今日も一日頑張るんだぞ」
「はい、神城さん。神城さんも……その、頑張ってくださいね」
「っ……! ああ、ありがとう」
私の拙いエールに、神城さんは一瞬言葉を詰まらせ、嬉しそうに目を細めました。
そんな他愛ないやり取りを交わして自分の席に着く。以前の私にとって、教室はいつ誰に何をされるかわからない「恐怖の場所」でしかなかったけれど今は、神城さんが「俺が味方だ」と力強く宣言してくれたおかげで、一歩も引かずにここに居られる。 彼にはどれほど感謝しても、恩を返しきれる気がしない。
感謝を胸に教科書を開き、予習を始めてしばらくした頃。不意に背後から柔らかな温もりと衝撃が伝わった。
「玲花ちゃん! おはよーっ!」
「冬美! おはよう」
首に腕を回して抱きついてきたのは、親友の冬美。
彼女は、私がこの学園で初めて得た大切な友達。そして、神城さん以外で唯一、心から信頼を寄せられるかけがえのない存在。
「玲花ちゃん? どうしたの、そんなにニマニマして。何かいいことあったでしょ~?」
「えっ!? ど、どうして……」
冬美の鋭い指摘に、私は思わず肩が跳ねた。
「いやぁ、だって。顔がもう『幸せです!』って満ち溢れていたからさ」
「そ、そうかな……? き、気のせいだと思うよっ」
火照る頬を隠すように両手で押さえますが、自分でも顔が緩んでいる自覚があるだけに、動揺を隠しきれない。
冬美には申し訳ないけれど、神城さんとの甘い朝の出来事なんて、口が裂けても言えない。そんな惚気、恥ずかしすぎて想像しただけで命の危機を感じてしまうもの。
親友に隠し事をする罪悪感に少しだけ胸を痛めつつも、私は必死に話題を逸らした。
「そっか。まぁ、玲花ちゃんが元気なら良いんだけどね」
冬美はそう言って屈託のない笑顔を見せてくれた。それからは先生が教室に姿を現すまで、私たちは止まることのないお喋りに花を咲かせた。神城さんと過ごす甘やかな時間とはまた違う、親友との穏やかで楽しいひととき。
かつての私が夢にまで見た「当たり前の幸せ」が、今の私の日常を優しく彩っていた。
しかし、平穏な時間は、唐突にその色を変えた。
昼休み、冬美と食堂へ向かおうと廊下を歩いていた時のことだった。
「あの、玲花様」
控えめな声に振り返ると、そこには昨日私に手紙を届けてくれた女の子が立っていた。
「あっ、昨日の……どうしたんですか?」
「薫様がお呼びです。玲花様を連れてくるようにと仰せつかりまして……」
その言葉に、冷たい水が背中を伝うような感覚を覚えた。 幸せの余韻に浸るあまり失念していたが、昨日受け取った薫からの手紙に、今日会うという約束が記されていた。
「分かった、すぐに行きますね。……ごめんね、冬美。ちょっと用事を済ませてくる」
「分かった。でも玲花ちゃん、何か嫌なことをされたらすぐに言ってね!」
冬美の心強い言葉に「ありがとう」と微笑みを返し、私は案内役の少女の後に続いた。
導かれた先は、学園が誇る広大な庭園。
色とりどりの花が咲き誇る絶景スポットとして名高い場所で、今の時期は何といっても桜が見事で風に舞う花びらは雪のように白く、その幻想的で神秘的な美しさは、この世のものとは思えないほどだった。
そんな、絵画のように美しい桜の樹の下に、薫は佇んでいた。
「薫様、お連れいたしました」
少女の声に、薫はやっとこちらの存在に気づいたように顔を上げる。
「そう、ご苦労様」
私に向けられた薫の表情は、一見すれば華やかな笑顔。 けれど、その奥にある瞳は凍てつくほどに鋭く、まるで獲物を射抜くような冷徹な光を宿している。
「あの、薫……私に話したいことって、何……?」
じわじわと這い上がってくる恐怖心が身体を蝕んでいくのを感じながらも、私は必死に声を絞り出した。
もしかしたら、今日こそは歩み寄れるかもしれない。ほんのわずかでも、仲良くなれる兆しがあるかもしれない……。
しかし、そんな淡い期待を抱いた自分を、私はすぐに激しく後悔することになった。
「あら、お姉ちゃん。いつから私にそんな気安く話しかけて良い身分になったのかしら?」
「……っ、え?」
薫は相変わらず、仮面のような優しげな笑みを貼り付けたまま、私の至近距離まで歩み寄ってきた。
刹那、乾いた「パシン」という音が静かな庭園に響き渡り、私の左頬を鋭い衝撃と熱い痛みが貫いた。
何が起きたのか理解するまで、数秒の時間を要した。私は、妹である薫に――叩かれたのだと。
「はぁ……全く。神城様の婚約者になったからって、随分と調子に乗ってくれているじゃない?」
「ちが……私は、そんなつもりじゃ……」
「黙りなさいよ!!」
鼓膜を突き刺すような怒声。
「無能の分際で、よりによってあの神城様に選ばれるなんて……!」
(どうしよう……。薫が、あんなに怒ってる。怖い。逃げなきゃ……)
そう本能が警鐘を鳴らしているのに、足が竦んで一歩も動けなかった。その間にも、薫の嫉妬と怒りは濁流のように膨れ上がっていく。
「あんたは私の引き立て役として、泥を這いずり回っていればいいのよ! なんで、私よりも目立っているのよ……!」
「ご、ごめんなさい……っ」
「何よその顔!? 私が悪者みたいじゃない! そうやって悲劇のヒロインを気取って、周りの同情を買うつもりなのね!!」
逆上した薫の耳には、もはや私の謝罪など届いていなかった。
何度も、何度も、振り下ろされる掌。私は抗う術も、逃げる術も持たず、ただ無残に地面に崩れ落ちるしかなかった。
舞い散る桜の花びらが、土に汚れた私の視界を掠めていく。
無様に伏した私の姿を見下ろし、薫の口角がようやく歪な形に釣り上がった。 それは、執拗に痛めつけた末に得た、歪んだ満足感に満ちた表情だった。
「まぁ、いいわ。どうせ、あんたみたいな無能、すぐに捨てられるに決まっているもの。神城様だって、いずれ本物の価値があるのが私の方だって気づいて、私を愛するようになるわ」
吐き捨てられるように残された言葉。去っていく薫の背中を、私は地面に伏したまま、ただぼんやりと見つめることしかできなかった。
頬の痛み以上に、彼女が残した呪いのような言葉が、冷たく耳の奥にこびりついて離れない。
「神城さんが、私を捨てる……」
そんなことをする人ではない。彼は誰よりも優しく、私を見つけてくれた人。頭ではそう理解しているのに、一度芽生えた不安が毒のようにじわじわと心を侵食していく。
今までだって、そうだった。
私に優しくしてくれた人たちも、最後にはみんな薫の方へ行ってしまった。 彼女の輝きの前に、影でしかない私の存在なんて、いつも簡単に忘れ去られてきた。
(なら、今回もそうなるんじゃないの……?)
もし、神城さんが薫の美しさや才能に気づいてしまったら。私を愛でる理由がなくなってしまったら。あの時、家族に捨てられた時と同じように、また私は暗闇の中に放り出されるのではないか――。
信じたい。彼を信じたい。
けれど、心の底に沈殿している過去の拒絶が、叫ぶように私の思考を掻き乱す。
「私は、どうしたらいいの……?」
桜の花びらが、涙で滲んだ視界に静かに降り積もっていく。
幸せな朝が嘘のように、私は一人、逃れられない絶望の渦に飲み込まれていくようだった。
教室に戻ると、冬美がすぐに駆け寄ってきた。
「ちょっと、玲花ちゃん!? その頬、どうしたの……!?」
冬美の悲鳴に近い声に、私は慌てて顔を伏せ、乱れた髪で赤く腫れた頬を隠した。
「なんでもないの、ちょっと転んじゃって……」
「転んでそんな風に腫れるわけないでしょ! まさか、さっきの呼び出しで何かされたの!?」
私は力なく首を振ることしかできまなかった。 薫から投げつけられた「捨てられる」という言葉が、重い石のように心を塞いで、声が出せなかった。
私の異変を察した冬美は、唇を強く噛み締めた。
「分かった……。今は無理に聞かない。でも、これだけは放っておけないから」
冬美はそう言い残すと、教室を飛び出していった。
一人残された私は、冷たい机に突っ伏して、止まらない震えを必死に抑えようと自分を抱きしめる。
数分後、静まり返っていた教室の空気が、一瞬で凍りついたような気配に変わった。
廊下から響く、速く、そして重い足音。
「玲花!!」
名前を呼ぶその声に、私は弾かれたように顔を上げた。
そこには、息を切らせ、見たこともないほどに眉を逆立てた神城さんが立っていた。 彼の背後では、心配そうにこちらを覗き込む冬美の姿が見えた。
「神城、さん……」
彼は大股で私の元へ歩み寄ると、震える私の肩を抱き寄せ、優しく、けれど壊れ物を扱うような手つきで私の頬に触れた。
「誰にやられた」
低く、地を這うような声。彼の瞳には、深い慈しみと、それを上回るほどの烈火のごとき怒りが宿っていた。
「い、いいんです。私が無能だから、薫に……」
「いいわけがあるか!」
神城さんは私の言葉を遮り、私の視線を真っ直ぐに見つめた。
「玲花、お前を傷つける奴は、例え血の繋がった家族であろうと俺が許さない。……帰るぞ。こんな場所に、一秒だってお前を置いておけない」
彼は私の荷物をひっつかむと、私の手を力強く握りしめた。 その手の温もりが、薫に呪われた私の心を少しずつ、けれど確かに溶かしていくのだった。
神城家の門を潜り、私たちは静まり返った屋敷へと戻った。
神城さんは私の手を一度も離すことなく、そのまま私を自室のソファへと座らせてくれた。
「ここで待っていろ」
短くそう告げると、彼はすぐさま救急箱を持って戻ってきた。
神城さんの手によって、冷やしたガーゼが腫れた頬にそっと当てられる。 その手つきは、まるですぐにでも壊れてしまう硝子細工を扱うかのように慎重で、慈しみに満ちていた。
「……話せるか? 庭園で、何があった」
彼の静かな問いかけに、私は震える唇を噛み締めながら、ポツリポツリと話し始めた。
薫に呼び出されたこと。
彼女に叩かれ、「無能」だと罵られたこと。
そして――。
「……神城さんも、いずれ私を捨てて、薫の方へ行くって。私みたいな無能より、薫の方が相応しいって言われて……っ」
堪えていた涙が、溢れ出して止まらなくなった。
「頭では、神城さんはそんな人じゃないって分かってるんです。でも、昔から、みんな最後には薫を選んできたから……私、怖くて……」
私の告白を聞き終えるまで、神城さんは黙って私の手を受け止めてくれてた。
やがて彼は、私の両手を包み込むように握り直すと、祈るような熱を込めて口を開いた。
「玲花、俺をよく見てくれ」
涙で霞む視線を上げると、そこには射抜くような、けれど途方もなく優しい彼の瞳があった。
「あんな言葉、一ミリだって信じる必要はない。いいか、俺にとっての価値は、血筋や能力なんていう薄っぺらなものじゃない。俺が愛しているのは、他の誰でもない、今ここにいる玲花、お前自身なんだ」
「神城さん……」
「お前を捨てる? そんなことは絶対にあり得ない。むしろ、俺の方がお前に捨てられないか不安なくらいだ。お前がいない未来なんて、俺には価値がないんだからな」
彼は私の額に、そっと自分の額を預けた。伝わってくる彼の体温と、真っ直ぐな愛の言葉。
それは、薫が植え付けた呪いの言葉を、一つずつ丁寧に塗り替えていくように。
「お前は無能なんかじゃない。俺の心をこれほどまでに動かせる、世界で唯一の女性だ。……分かってくれるまで、何度でも言う。俺は、お前を愛している」
「っ……はい……っ」
私は彼の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
でもそれは、悲しい涙ではなかった。
ようやく見つけた、本当の居場所。
神城さんの腕の中で、私は生まれて初めて、心の底から「ここにいていいんだ」という深い安らぎを感じていたのだった。
[sid 神城]
午後の授業が始まろうとしていた時、教室の入り口に血相を変えた一人の少女が飛び込んできた。
その少女に俺は見覚えがあった。前に玲花が友達として紹介したCクラスの雪乃冬美だった。
彼女は俺に駆け寄ると、周囲を憚るように声を潜め、しかし切実な声で告げた。
「神城様、……玲花ちゃんが、誰かに酷いことをされたみたいなんです。頬を腫らして、今にも消えてしまいそうな顔で震えているんです」
その瞬間、頭の中が真っ白になるほどの怒りが、身体の底からせり上がってくるのを感じた。
今朝、あんなに幸せそうに笑っていた玲花を。
俺の隣で、小さな奇跡を喜ぶように目を輝かせていた彼女を傷つけた奴がいる。
「……場所は」
「教室にいます。でも、玲花ちゃん……何も話してくれなくて」
彼女の言葉が終わる前に、俺は席を立っていた。
廊下を突き進む足音が、俺自身の苛立ちを反映して重く響く。
あんなに臆病で、それでも懸命に俺を信じようとしてくれている彼女が、なぜこれほどまでに苦しまなければならない。
教室の扉を乱暴に開けると、クラス中の視線が集まった。だが、そんなものはどうでもいい。
俺の視界に映ったのは、机に突っ伏し、肩を小さく震わせている玲花の姿だけだった。
「玲花!!」
名前を呼ぶと、彼女は怯えたように肩を跳ねさせ、ゆっくりと顔を上げた。
髪の間から覗くその頬は痛々しく赤紫に腫れ、瞳には涙が溜まっている。
その顔を見た瞬間、俺の中の何かが完全に切れた。
「神城、さん……」
掠れた声で俺を呼ぶ彼女。その震える肩に手を触れると、驚くほど冷たかった。
「誰にやられた」
「い、いいんです。私が無能だから、薫に……」
玲花は自分を責めるように、いつもの癖で視線を逸らした。
薫。あの、玲花を虐げてきた傲慢な妹か。
「無能」などという言葉で彼女の価値を決めつけ、あまつさえその尊厳を傷つけるなど、万死に値する。
「いいわけがあるか!」
俺は彼女を包み込むように抱き寄せた。
「玲花、お前を傷つける奴は、例え血の繋がった家族であろうと俺が許さない」
俺は彼女の細い手を握りしめた。
これ以上、この冷たい場所に彼女を置いておくわけにはいかない。
今すぐ家に連れ帰り、溢れんばかりの愛でその傷を癒してやらなければ。
そして、彼女を泣かせた代償がどれほど重いものか――あの愚かな家族には、身をもって教えてやる。
「帰るぞ。お前を守るのは、俺の役目だ」
俺は彼女を促し、静まり返る教室を後にした。握った手の震えが止まるまで、俺は決してこの手を離さないと、強く心に誓いながら。
早退の許可を取り、玲花を抱き寄せるようにして車に乗せた。
屋敷へ向かう道中、彼女は一言も発さず、膝の上で握りしめた拳を小刻みに震わせていた。その消え入りそうな背中を見ていると、守りきれなかった自分への不甲斐なさと、彼女を傷つけた者への煮えくり返るような怒りが綯い交ぜになる。
屋敷に到着し、自室のソファに彼女を座らせた。
救急箱を手に戻ると、玲花は震える唇を噛み締めながら、庭園での出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
「……神城さんも、いずれ私を捨てて、薫の方へ行くって。私みたいな無能より、薫の方が相応しいって言われて……っ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の奥底で冷徹な殺意が膨れ上がった。
あの女……身体的な暴力だけでなく、玲花の最も脆い場所に、そんな呪いを吹き込んだのか。
家族に疎まれ、誰からも選ばれなかった彼女が、どれほどの恐怖でその言葉を受け止めたか。 想像するだけで視界が真っ赤に染まりそうになる。
玲花、お前は気づいていないのか。お前のその真っ直ぐな心が、どれほど俺の救いになっているか。
「頭では、神城さんはそんな人じゃないって分かってるんです。でも、昔から、みんな最後には薫を選んできたから……私、怖くて……」
溢れ出した涙が、赤く腫れた頬を濡らしていく。
俺は彼女の細い両手を包み込み、逃がさないように熱を込めて握りしめた。
「玲花、俺をよく見てくれ」
無理やり視線を合わせる。俺の瞳に宿る真実が、彼女の不安を焼き尽くすように。
「あんな言葉、一ミリだって信じる必要はない。いいか、俺にとっての価値は、血筋や能力なんていう薄っぺらなものじゃない。俺が愛しているのは、他の誰でもない、今ここにいる玲花、お前自身なんだ」
俺は本心を、一語一語刻みつけるように伝えた。
「お前を捨てる? そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ない。むしろ、俺の方がお前に捨てられないか不安なくらいだ。お前がいない未来なんて、俺には一塵の価値もないんだからな」
彼女の額に自分の額を預ける。伝わってくる小刻みな震えが、俺の言葉を吸い込むように少しずつ収まっていくのを感じた。
「お前は無能なんかじゃない。俺の心をこれほどまでに動かせる、世界で唯一の女性だ。……分かってくれるまで、何度でも言う。俺は、お前を愛している」
「っ……はい……っ」
俺の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくる玲花。
その涙をすべて受け止め、背中に腕を回しながら、俺は心の奥底で冷酷な決意を固めていた。
(……よくも、俺の宝物をここまで傷つけてくれたな)
玲花の心を壊そうとしたあの女、そしてそれを助長してきた家族。
彼らが築いてきたすべてを、跡形もなく叩き潰してやる。
俺の愛する女性を泣かせた代償がどれほど高くつくか、地獄の底で後悔させてやる。
今はただ、腕の中の温もりを離さないよう、愛おしさを込めて彼女の髪を優しく撫で続けた。
その日の午後、神城さんは私を一歩も外に出そうとはしなかった。
「今日はもう、俺のそばにいろ。一秒も離れるな」
そう言って、彼は私を膝の上に抱き上げ、毛布で包み込むように抱きしめてくれた。
「神城さん、あの……私、もう大丈夫ですよ?」
「ダメだ。俺が大丈夫じゃない」
彼は私の首筋に顔を埋め、何度も、何度も、壊れ物を慈しむように甘い口づけを落とします。
「玲花、お前がどれほど愛おしいか、まだ分かっていないようだな。お前の声も、指先も、俺を呼ぶその瞳も……すべてが俺の宝物なんだ。誰にも、指一本触れさせたくない」
熱を帯びた声で語られる愛の言葉。
薫に言われた「無能」という呪いが、彼の体温と甘い囁きによって、少しずつ、けれど確実に溶けて消えていくのを感じた。
(ああ……私は、本当にここにいていいんだ……)
彼の腕の中で、私は生まれて初めて、深い安らぎの中で眠りについた。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光と、隣に感じる温もりで目が覚めた。
ふと横を向くと、そこには昨日よりもさらに優しい眼差しで私を見つめる神城さんの姿が。
「……おはよう、玲花。よく眠れたか?」
「神城さん……おはようございます」
私が微笑むと、彼は愛おしそうに私の頬を撫でた。昨日の腫れは、彼の献身的な手当てのおかげで、すっかり引いている。
「顔色が良くなったな。……可愛い。朝からそんな顔で見られたら、学園に行かせたくなくなる」
「えっ!? そ、そんな……っ」
「嘘じゃない。ずっとこうして、お前を閉じ込めておけたらいいのに」
彼は私の額にコツンと自分の額を合わせ、甘く笑う。
「愛してるよ、玲花。世界中の誰が何と言おうと、俺はお前を選び続ける」
「私も……私も、神城さんを愛しています」
幸せを噛みしめる私に、神城さんは「行ってくるよ」と優しくキスを贈り、部屋を出ていきました。
[sid 神城]
玲花が微睡みの中へ戻ったのを確認し、俺は屋敷を出た。向かうは鬼龍院の家。
向かった先は、玲花の元実家――あの「ゴミ溜め」だ。
リビングに踏み込むと、そこには優雅に茶を啜る両親と、勝ち誇ったような顔をした薫がいた。
「あら、神城様! いらっしゃいませ」
媚びるような笑みを浮かべる薫に、俺は冷徹な一瞥をくれる。
「……随分と楽しそうだな、薫。俺の婚約者の顔を、あんな風に腫らせておいて」
その場が凍りついた。
「えっ、そ、それは……お姉様が、無能のくせに神城様に相応しくない態度を……」
「黙れ」
地を這うような俺の声に、薫が震え上がる。
「本来なら、貴様らの会社もこの屋敷もすべて灰にするつもりだった」
俺が放つ殺気に、父親は床に膝をついた。
「だが……玲花が『一度だけなら、許してあげてほしい』と、その傷ついた頬で俺に慈悲を乞うた。だから、今回だけは命拾いしたと思え」
俺は凍てつくような視線で、一族を射抜いた。
「だが、次はない。次、玲花の指一本にでも触れてみろ。その時は、貴様ら鬼龍院の血筋ごと、この世から消してやる」
俺の背後で、鬼龍院の夫婦は力なく崩れ落ちた。彼らの瞳には、抗いようのない絶望と恐怖が刻まれていた。
そして俺は屋敷を去る前に震える薫の耳元で、誰にも聞こえない声で囁いた。
「お前が玲花に言った言葉、そのまま返してやろう。……無能なのは、他人の価値も分からず、ただ縋ることしかできないお前の方だ。二度と玲花を傷つけるな。」
その一言を言い残し、俺は一歩も振り返らずに屋敷を出た。
汚れ仕事は俺だけでいい。
愛する玲花の日常には、これから先、一欠片の絶望も、一滴の涙も必要ないのだから。
[sid 薫]
(……なによ、あんな無能の分際に守られるなんて、屈辱だわ!!)
神城様が去った後、私は激しい怒りで震えていた。お父様もお母様も、あんな無能の情けで助かったと怯えている。情けない。
私は、お姉ちゃんを見下し、泥水を啜らせていなければ気が済まないのだ。あいつが幸せになるなど、私のプライドが許さない。
「神城様だって、今は騙さされているだけ。目を覚まさせてあげなきゃ……」
暗い情念に身を焦がしていたその時だった。私のスマートフォンに、一通の通知が届く。
それは、学園の権力構造を揺るがすような、衝撃の内容が書かれていた。
(……これだわ。もしも私が覚醒したら神城様だって私を選ばざるを得なくなる)
絶望の淵に立たされた鬼龍院家に訪れた、たった一つの希望。
私の口角は、昏い喜びで歪んでいった。

