無能の鬼姫〜神子の予言と運命の決闘〜

神城さんの婚約者として迎える、初めての登校日。
昨日までと同じはずの校舎は、まるで異世界に迷い込んだかのような違和感に満ちていた。
神城さんは相変わらず過保護なほどに優しく、親友の冬美も変わらぬ態度で接してくれる。けれど、私の周囲を取り巻く空気そのものが、一夜にして変貌を遂げていたのだった。
「玲花様! 神城様の婚約者になられたというのは、本当だったのですね!」
「流石は玲花様です! 私は最初から、あなた様こそが選ばれる方だと信じておりましたわ」
「これからも、ぜひ仲良くしてくださいね?」
耳元でさえずる彼女たちの声に、背筋が寒くなる。入学当初、陰で私の悪口を並べていた面影はどこにもない。そこにあるのは、計算高い媚びを含んだ、貼り付けたような笑顔だけだった。
変化は、生徒たちに留まらない。
「玲花様、解らない箇所はございませんか? 遠慮なく仰ってくださいね」
「あ……だ、大丈夫です……」
担任の先生までもが、まるで別人のように慇懃な態度を見せる。昨日までは質問に行くたび、隠そうともしない面倒くさそうな顔で突き放していたはずなのに。今の先生は、聖職者の鏡であるかのように、真面目に、そして震えるほど丁寧に私を教え導こうとしている。
廊下を歩けば、面識のない同級生から深々とお辞儀をされ、あれほど耳障りだった陰口は、風に消されたようにパタリと止んでいた。
一日。たった一日で、世界は私を「無能」としてではなく、「神城の婚約者」として崇め始めた。
(……ああ、そうか)
思い知らされるのは、彼が持つ力の巨大さ。
彼が隣にいるというだけで、これほどまでに世界は跪く。
望んでいたわけではない変化の渦の中で、私はただ、神城さんという存在が持つあまりにも重すぎる影響力を、肌で感じずにはいられなかった。
「……皆様、ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取っておきますね」
引き攣りそうになる頬を必死に抑え、表面上の微笑みを浮かべて彼女たちの追従を受け流す。急変した周囲の態度は、今の私にはあまりに不気味で、背筋に冷たいものが走る。
逃げるように向かったのは、唯一の安らぎである冬美の席だった。
「ねえ、玲花ちゃん。昨日の新聞、もう読んだ?」
「えっ? 新聞? ううん、見てないけど……それがどうしたの?」
私の返事を聞いた瞬間、冬美は目を丸くして絶句した。
「嘘でしょ!? 見てなかったの!?」
彼女は慌てて鞄から新聞を取り出し、机の上に広げて見せた。
視界に飛び込んできたのは、一面を派手に飾る私たちの姿。神城さんと私が並んだ写真とともに、衝撃的な見出しが躍っていた。
「な、なに……これ……!?」
言葉を失った。まさか自分たちの婚約が、これほどまでに大きな社会の関心事になっていたなんて。眩暈がしそうなほどの大見出し。 けれど、冬美の顔は別の理由で怒りに震えていた。
「見てよ、この記事の見出し! いくらなんでも酷すぎるよ!」
彼女が指差した先には、扇情的な文字が並んでいた。
――『鬼龍院家の無能が、神城家の次期当主の婚約者に!?』
「……でも、事実だもの。仕方ないと思うわ」
自嘲気味に呟いた私に、冬美は顔を真っ赤にして詰め寄った。
「だとしても許せない! 玲花ちゃんをこんな風に書くなんて、友達として絶対に許さないんだから!」
新聞紙と睨み合いをする冬美の、どこか微笑ましいほどに真っ直ぐな怒り。この殺伐とした教室の中で、彼女の変わらぬ友情だけが私の心を温めてくれる。
すると突然、冬美が何かに気づいたように「あっ!」と声を上げた。
「そうだわ! 神城様にこの新聞のこと、報告しちゃえばいいのよ!」
「……報告して、どうするの?」
「決まってるじゃない。こんな失礼な記事を書く会社、神城様に頼んで潰してもらっちゃおう!」
冬美の瞳は、冗談ではなく本気でキラキラと輝いている。彼女なりの正義感なのだろうけれど、その提案はあまりに過激で恐ろしい。
「落ち着いて、冬美。さすがにそれは……」
鼻息の荒い彼女をなんとか宥め、私は自分の席へと戻った。
窓の外を眺めながら、ふと思考を巡らせる。
(……さすがに、神城さんだってそこまではしないわよね?)
あの底知れない慈愛を思い浮かべながらも、ふとした瞬間に彼が見せる、他者への徹底的な無関心を思い出す。
どうか、この報道をした新聞社が明日も存続していますように。
私は心の端で、柄にもなくそんな祈りを捧げていた。

チャイムが鳴り響き、待ちに待った昼休み。私は冬美に誘われ、校内にあるカフェへと足を運んだ。
この学校のカフェは、食堂とはまた趣が異なり、静かに学問に励む生徒たちのための社交場という側面が強い。提供されるメニューはどれも絶品だが、その分、学生が毎日通うには少々値が張る場所でもある。
「ふぅ……。やっぱりここのラテは落ち着くね」
「私はこの苦味がなきゃ午後を乗り切れないわ」
私は温かなカフェラテを、冬美はキリッと冷えたアイスコーヒーを手に、窓際の席に腰を下ろした。
話題は尽きない。午前中の授業の感想から、家での他愛ない出来事、最近見つけた小さなしあわせまで。               冬美の複雑な家庭環境については、私にはどうすることもできないけれど、せめて力になれればと、彼女が苦手としている古文を教えてあげることにした。
「玲花ちゃん、本当に教え方が上手だよね。なんでこんなにスラスラ解けちゃうの?」
「そんなことないよ。たぶん、本を読むのが好きだから文脈を追うのに慣れているだけよ」
私は謙遜ではなく、本心からそう思っていた。
古文を難解だと敬遠する人は多いけれど、本質は今の言葉と変わらない。                            物語の流れを掴み、文の構造を見極め、古語というピースを当てはめていけば、パズルのように答えは見えてくる。
冬美の「あ、わかった!」という明るい声に、私の心も自然と解けていく。                                   そんな穏やかな、いつも通りの親友との時間が流れていた。
――けれど、その平穏は唐突に破られる。
「……玲花様。これを、お受け取りください」
不意に影が落ち、一人の女子生徒が私たちのテーブルの傍らに立ち尽くしていた。
差し出されたのは、丁寧に封をされた一通の手紙。
彼女の指先は微かに震え、その瞳には昨日まではなかった、畏怖と期待が混ざり合った複雑な色が宿っていた。
「ありがとうございます」
受け取った手紙を指先に載せ、去っていく彼女の背中を見つめる。どこかで見覚えがあると思えば、妹である薫のクラスメイトだ。   いつも薫の取り巻きとして傍らに控えていた少女。
(薫からの、手紙……?)
嫌な予感がして、そっと封を切った。妹から手紙を渡されるなんて、これまでの人生で一度もなかったことだ。
『お姉ちゃんへ
今日、もし放課後に来れるなら中庭に来て。
もし無理なら明日でもいい。話したいことがあるの。
(もし今日来られないなら、この子に返事を預けて)』
便箋に躍る文字をなぞるだけで、心臓が嫌な音を立て始める。
また、何か責められるのだろうか。                                                 それとも、神城さんの婚約者の座を奪えなかった腹いせに、何か冷たい言葉を浴びせられるのだろうか。
「冬美、どうしよう……私……」
震える声で相談すると、冬美は私の手元の便箋を覗き込み、すぐに事態を察してくれた。
「玲花ちゃん、もし怖いなら、私が代わりに返事を渡しに行こうか?」
「えっ、でも……そんなの悪いよ」
「いいの、いいの! どうせ今日の放課後は暇だし、運動不足解消にちょうどいいわよ」
冬美のからっとした明るさに、肺に溜まっていた重たい空気がふっと抜けていく。
「ありがとう、冬美。本当に助かるわ……」
今はまだ、薫と対峙する勇気が出ない。                                              明日には顔を合わせなければならないかもしれないけれど、今は少しでもこの平穏を先延ばしにしたかった。
ひとまずの(一時的な)解決に胸をなでおろし、私たちは再び古文の参考書へと視線を落とした。
「よし、じゃあ続きをやろう」
切り替えて教え始めると、冬美の理解の早さには驚かされるばかりだ。                                     私の拙い説明でも、彼女はスポンジが水を吸うように知識を吸収していく。
試しにいくつか応用問題を出してみれば、彼女の答案には迷いのない丸が並び、見事な満点を叩き出した。
(冬美、こんなに筋がいいのに……。もしかして、先生の教え方が合ってないだけなんじゃ……)
そんなことを考えながら、私たちの昼休みは「神城家の婚約者」としての騒がしさを忘れ、ただの女子高生としての勉強会で幕を閉じた。


放課後を告げるチャイムが鳴り、私は帰宅の途につくための準備を始めた。
昨日から始まった、神城家での新しい生活。
あそこには、鬼龍院家での日常だった「冷遇」も「果てしない家事」も存在しない。当初、私はせめてもの恩返しにと家事を手伝いたいと申し出たのだが、それは即座に却下されてしまった。
神城さんとそのご両親に優しく諭されただけでなく、使用人の方々に至っては、「玲花様にそのような真似をさせては、我々が神城様にどのような処罰をいただくか分かりません!」と悲壮な顔で懇願されてしまったのだ。
(これからは、あんなに忙しかった放課後を、自分のために使えるなんて……)
まだ慣れない自由を不思議に思いつつも、今日は特に予定もないため、早めに邸へ戻ることに決めた。
鞄を手に取り、教室の扉を開けようとしたその時――。
廊下の向こうから、波が引くような静寂と、それに続く割れんばかりの喧騒が押し寄せてきた。
「きゃあ! 神城様……!?」「どうして神城様がCクラスの前に!?」
騒然とする人だかりの先に視線を向けると、そこにはあまりにも場違いなほど高貴なオーラを纏った彼が立っていた。
私は驚きに目を見開き、群がる生徒たちの隙間を縫うようにして、彼の元へと駆け寄った。
「神城さん! どうしてこちらに……?」
私の問いかけに、彼はふわりと目を細める。
「玲花を迎えに来たんだ」
そう言って、とろけるような甘い微笑みを向ける彼は、夕映えの中で残酷なまでに美しかった。
その破壊的なまでの美貌に当てられたのか、周囲の女生徒たちからは悲鳴にも似た溜息が漏れ、数名はその場に膝をついて崩れ落ちてしまったほどだ。
私は赤くなる頬を押さえながら、あらためて「神城家の花嫁」になったという事実の重みと、彼の過保護なまでの愛に圧倒されていた。
「かっ、神城さん……。そういうのは、誰もいない時にしてください……っ」
顔が火照るのを隠すように俯く。                                                        心の中で(じゃないと私の心臓が持たないわ)と叫ぶが、神城さんは納得がいかないというように眉を寄せた。
「何故だ? 婚約したのだから、隠す必要などないだろう」
「で、でも……恥ずかしいです」
「それに、これは周りへの牽制でもある。玲花は俺のものだということを、改めて知らしめるためにね」
涼しい顔で、気恥ずかしい台詞をさらりと口にする。そんな彼の堂々とした振る舞いに、私のほうが耐えきれなくなってしまった。
「……それじゃあ、帰るとするか」
導かれるままに学園を後にし、待機していた神城家の専用車へと乗り込む。
登下校のためだけに用意されたその車は、素人の私が見てもわかるほどの最高級車だ。                       こんな贅沢なものを私の送迎だけに使うなんて勿体ない気がしてならないが、心配性の彼は首を縦に振らなかった。
『玲花が誘拐されたらどうする?』
真剣な顔でそう言われ、結局車での登校が常態化している。                                           私のような「無能」と蔑まれてきた人間を誘拐して、一体誰が得をするというのだろう……。
そんなことを考えながらシートに身を預けていると、ふと窓の外の景色に違和感を覚えた。                           車は神城邸とは、明らかに真逆の方向へ進んでいる。
「あの、神城さん……道、間違えていませんか?」
「いいや、これで合っているよ」
神城さんは余裕の笑みを浮かべて答える。
道は確かに違うけれど、彼と一緒にいられる時間が増えるのなら、これはこれで嬉しいかもしれない。
心地よい揺れに身を任せ、学園での出来事を報告したり、他愛ない会話を楽しんだり。そうしてしばらく車を走らせた頃、ようやく目的地と思われる場所で、静かにタイヤが止まった。
車のドアが開かれ、目の前に現れたのは、誰もが一度はその名を聞いたことのある超一流ホテルだった。
「す、凄い……」
「中へ入るぞ」
圧倒される私を促し、神城さんは迷いのない足取りでエントランスを抜けていく。案内されたのは、息を呑むほど豪華な、それでいて落ち着いた静寂に包まれた展望個室だった。
「あの、神城さん……これは、一体?」
「ああ。玲花と婚約できた記念に、二人で食事がしたくてな。昨日、テレビを見てここの料理を食べてみたいと言っていただろう?」
驚きで言葉を失った。確かに、昨日の番組で紹介されていた料理を見て「美味しそうね」と零した記憶はある。                  けれど、まさかそれを覚えていて、翌日にはこうして連れてきてくれるなんて。
「神城さんは、私に甘すぎます……」
「それくらいで丁度いい。玲花は少し、贅沢を言わなすぎる。これからは我慢なんてせず、俺に何でも言うんだ。いいな?」
「……もし、私がわがままなお嬢様になってしまったらどうするんですか?」
「ふっ、それくらい言ってくれた方が嬉しいな。俺にとっては、むしろご褒美だ」
(やっぱり、この人は私に甘すぎる……)
蕩けるような彼の独占欲に気恥ずかしさを覚えつつも、予約を済ませてくれた彼の厚意を無下にはできず、私はその席に付いた。
運ばれてくる一皿一皿は、芸術品のように美しく、これまで一度も味わったことのない芳醇な香りに満ちていた。
(こんなに美味しいもの、初めて……)
学園の贅沢な食事ともまた違う、胸の奥に灯火が灯るような不思議な温かさを感じる。
ふと思い返せば、誰かとこうして外食をすること自体、私の人生では初めての経験だった。幼い頃から、無能な私に食費を割くのは無駄だと言われ続け、外食どころか日々の食事さえ満足に与えられないことも多かった。
憧れ続けた夢が今、目の前で叶っている。                                                     その事実に胸がいっぱいになり、料理はより一層、深く鮮やかな味となって私を満たしていく。
(でも、なんだか……少し、しょっぱいような……?)
口に運んだソースの味が、微かに滲んだ気がした。
ふと顔を上げると、向かいに座る神城さんが、見たこともないような困惑と動揺の混じった表情で私を凝視している。
「……神城さん? どうかなさいましたか?」
不思議に思って問いかけるが、彼は言葉を失ったように、ただ私の顔を見つめていた。
「玲花、どうして……泣いているんだ?」
その掠れた声に、私は自分が泣いているのだとようやく気づいた。
視界が滲んでいたのは、湯気のせいでも、照明のせいでもなかったのだ。
「あれ……? す、すみません。すぐに、すぐに止めますから……っ」
慌てて指先で目元を拭う。せっかく神城さんが用意してくれた記念すべき夜なのに、私の涙で台無しにしてしまうなんて。申し訳なさと情けなさで、胸が締め付けられる。
けれど、必死に涙を拭おうとする私の指を、大きな手が優しく包み込んだ。
頬に触れる、温かな体温。神城さんが、愛おしむように指先で私の涙を掬い取っていく。
「玲花……無理に堪えなくていい。泣いてもいいんだぞ」
その静かで、深い慈愛に満ちた一言が、私の心の堤防をあっけなく決壊させた。
「す、すみません……私、誰かと外食に行くのが、初めてで……っ。あまりに、嬉しくて……」
しゃくり上げながら、震える声で想いを吐露する。
「無能」だと蔑まれ、食事の席からさえ疎外されてきた過去。                                           そんな私が、今、世界で一番優しい人の隣で、一番美味しい料理を食べている。
「そうか……。喜んでもらえて、本当に良かった。これから、もっともっと色んなところへ連れて行ってやる。君の初めてを、全部俺に預けてくれないか」
「……っ、はい……! ありがとうございます……」
しばらくの間、私は子供のように泣きじゃくった。神城さんは何も言わず、ただ優しく寄り添い続けてくれた。
やがて涙が引き、少し落ち着きを取り戻してから、私たちは食事を再開した。
温かな光に包まれた個室。向かい合って交わす言葉。
誰かと一緒に食べるご飯が、これほどまでに心を温め、優しい味がするものだということを、私は生まれて初めて知ったのだった。

[sid 神城]
今日から、玲花は俺の婚約者として初めての登校を迎える。
未だに夢を見ているような気分だ。昨日、彼女に一目惚れをして婚約を申し込んだあの日から、俺の世界は一変した。
玲花と暮らせる喜び。玲花が隣にいる幸福。俺の心はもう、とっくに彼女の色に染め上げられている。                      もはや玲花がいなければ、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうなほど、俺の心身は彼女を求めていた。
今朝、二人で並んで登校しただけで、俺の心は浮ついていた。
玲花と共にあると、見慣れたはずの景色が驚くほど鮮やかに、美しく見える。世界とは、これほどまでに輝きに満ちていたのか。
だが、それを教えてくれた玲花は、世界のどんな景色よりも気高く、美しい。彼女は間違いなく、世界一の婚約者だ。
名残惜しさを押し殺して彼女と別れ、自分の教室へと足を踏み入れる。
その瞬間、四方八方から毒を含んだ羽虫のような羽音が、ひそひそと耳に届き始めた。
「ねぇ、聞いた? 神城様があの鬼龍院家の無能を婚約者にしたって……」
「信じられないわ。よりによって、どうしてあんな無能を?」
「そんな女を迎え入れるなんて、神城家も先が見えているわね」
どうやらこの教室にいる者たちは、俺と玲花の婚約が不服であるらしい。
だが、だから何だというのだ。
俺は、玲花以外の女を婚約者として迎える気など微塵もない。
愚か者共が。どいつもこいつも、これほどまでに節穴だとは。
玲花のように、凛として、それでいて今にも消えてしまいそうなほど繊細で美しい少女に一目惚れもできないとは、その眼球は腐り落ちているのか?
何より、玲花はこの場にいる誰よりも、透き通った綺麗な心を持っている。
そんな彼女の魂に、俺は心底惚れ抜いたのだ。
外野の醜いノイズなど、俺と彼女の絆を汚すことなどできはしない。
教室を満たす不快なノイズを、いっそすべて力でねじ伏せてしまおうか。
一瞬よぎった暗い衝動を、今朝の玲花の言葉が辛うじて繋ぎ止める。
「神城さん、あまり無理はしないでくださいね」
そう微笑んだ彼女との約束があるからこそ、俺はかろうじて理性を保っている。                           この場にいる愚か者共は、今すぐ玲花に跪いて感謝すべきだ。                                          彼女の慈悲がなければ、貴様らが明日を拝める保証などどこにもないのだから。
退屈な授業をやり過ごし、ようやく放課後のチャイムが鳴り響く。
俺は一刻も早く彼女の体温を感じたくて、逸る心を抑えながら玲花の教室へと向かった。
人だかりを割り、現れた玲花が俺の姿を認めて驚きに目を見開く。その小刻みに震える睫毛、戸惑いに揺れる瞳――そのあまりの愛らしさに、俺の心臓は容赦なく撃ち抜かれた。断言してもいい、この広い世界をどれほど探したところで、玲花ほど愛おしい生き物など存在しない。
周囲に「玲花は俺のものだ」と、その魂に刻み込むように見せつけてから、彼女を連れて車に乗り込む。                      道中、目的地が違うことに気づいた玲花に追及され、一瞬肝を冷やしたが、なんとか誤魔化し通すことができた。
到着したのは、昨日彼女が「食べてみたい」と密かに瞳を輝かせていた料理を出すホテルだ。
「神城さんは、私に甘すぎます」
困ったように笑う彼女は言うが、こんなものは甘やかしたうちに入らない。                           むしろ、俺の隣で幸せそうに食事をする彼女を独占できるのだから、これは俺自身への最高のご褒美と言っても過言ではないのだ。
運ばれてきた料理を口にし、玲花の表情がぱあっと華やぐ。
その幸福に満ちた横顔を見ているだけで、俺の冷え切っていた心の深淵が、春の陽だまりのような温かな感情で満たされていくのを感じていた。
幸せそうに料理を口にしていた玲花の瞳から、不意に大粒の涙が溢れ出した。
一瞬、思考が止まる。何故泣いているのか分からず、俺の胸は激しい動動揺に突き動かされた。                          せっかくの食事が口に合わなかったのか、それとも俺が何か無神経なことをしてしまったのか。
「……誰かと外食に行くのが、初めてで。あまりに嬉しくて……」
震える声で紡がれたその告白に、俺は言葉を失った。
普通の家庭なら、幼い頃から当たり前のように繰り返されるはずの光景。                                      だが、昨日会ったばかりのあの家族の顔が脳裏をよぎり、すべてを理解した。
霊力の有無という、測りようのない物差しだけで娘を切り捨て、虐げ、妹だけを甘やかしてきたあの両親。この至福の一時さえ与えず、彼女を孤独の中に閉じ込めていたのか。
こんなささやかな幸せに、声を上げて泣かなければならないほど、彼女の心は飢えていたのか。
(……あの連中は、一体どんな神経をしているんだ)
腸が煮えくり返るような怒りが、静かに、けれど確実に俺の深淵で燃え上がる。
だが、もういい。そんな過去は、俺がすべて上書きしてやる。
「玲花、泣いてもいいんだぞ」
そう声をかけながら、俺は心に固く誓った。
もう、お前を一人にはさせない。これからは俺がそばにいる。
玲花が欲しいものは、砂粒一つから星の輝きまで何だって与えよう。                                     行きたい場所には、地の果てまでだって連れて行く。枯れ果てていた心に、溢れるほどの愛を注ぎ続けよう。
何があっても、俺がこの手で守り抜いてみせる。
だから、どうか安心して笑ってほしい。
もう二度と、あんな寒々しい思いはさせないから。
泣き止んだ玲花が、少し照れくさそうに、けれど心からの温かさを宿して微笑む。
その笑顔が見られるなら、俺はそれだけで、もう十分に報われるのだ。