【流出映像】図書館の防犯カメラに、様子のおかしい学生が映っていた―市ヶ谷・外堀沿いの大学で起きていること―

【調査記録:2026年02月03日 20:49】
場所:X大学 図書館等棟地下2階
作業:四谷に関する調査

『新宿区史』より抜粋

第五節 四谷鮫河橋における「水域記憶」と負の空間特性

1. 都市下層社会の形成と地形的必然性

 四谷の南端、現在の若葉一丁目から三丁目付近に位置した「鮫河橋(さめがはし)」は、明治期において下谷万年町、芝新網町と並ぶ「東京三大貧民窟」の筆頭として記録されている。

 当時の行政記録によれば、この地は周囲を急峻な台地に囲まれた「底」にあたり、日照時間は極めて短く、排水不良による常時的な湿気に苛まれていた。社会学的には「低湿地ゆえの地価低迷」が貧困層の集積を招いたとされるが、民俗学的視点に立てば、この場所が「人の住まう領域(陽)」から隔絶された「異界の吹き溜まり(陰)」であったことは見逃せない。縄文海進期における入江の最深部、すなわち「現世の理が届かぬ海の底」であった記憶が、数千年を経てもなお、この空間の社会的地位を規定し続けたのではないかという仮説は、検討に値する。

2. 地名「鮫」にみる縄文の深層
 内陸部である四谷に、海棲生物である「鮫」の名が冠されている点は、古くから多くの郷土史家の疑念を呼んできた。
江戸砂子(えどすなご)*』等の記述によれば、「(いにしえ)、この谷に海が入り込み、真に鮫が泳いでいた」という、荒唐無稽とも取れる伝承が実在する。しかし、近年の地質調査によって明らかになった「縄文海進」の境界データは、この伝承が単なる虚構ではなく、太古の地形的記憶が地名という形で化石化したものであることを裏付けている。

*『江戸砂子』:江戸時代中期の1732年(享保17年)に刊行された江戸の地誌。著者は俳人菊岡沾涼。

 この地において「鮫」とは、単なる魚類を指すのではない。境界を越えてやってくる常世の使いであり、その地名が残されたということは、この谷がかつて異界との接続点であったことを意味している。

3. 鮫馬伝説と「白濁する視覚」
 鮫河橋には、橋から川に落ちた「鮫馬(さめうま)」の伝説が語り継がれている。
 伝承によれば、この馬は「目が白く濁り、狂ったように水面を見つめていた」という。民俗学において「鮫」という語は、しばしば眼球の異常、すなわち白内障等の症状を指す「鮫目」と結びつけられる。

 四谷怪談に登場する「お岩」が、毒によって右目の視覚を損ない、異様な形相へと変貌を遂げる様式美は、この「鮫河橋の呪い」の変奏である可能性が高い。土地に潜む海の記憶に触れた者は、まずその「目」を侵される。視覚が白く濁り、現世の風景が溶け去った後に見えてくるのは、今も地下深くでうねり続ける縄文の暗い海なのである。