どすこいラブリーちゃん

ラブリーちゃんの住むアパートは、最寄駅から徒歩10分程度の立地だった。
駅を出た瞬間、その雰囲気に気圧された。

目的のアパートへ向かう路地は、昼間だというのに湿った腐臭が漂っていた。
足元のマンホールからは下水の匂いと、安っぽい洗剤の香りが混ざり合って立ち上る。
壁に貼られた風俗店のポスターは、雨に濡れて端から剥がれ、女性の笑顔が無残に歪んでいる。

私は無意識に、自分のバッグが周囲の壁や電信柱に触れないよう、体の手前にで持ち直した。

婀娜多村を「見捨てられた土地」だと思っていたけれど、ここはそれ以上に救いがないかもしれない。
この街の澱みには、消費し尽くされた人間の残りカスのような、湿った絶望しかない。

ラブリーちゃん……鬼塚愛は、この街の一部として生きていたのだ。

あの、教室の隅で排泄物の匂いをさせていた少女が、成長してこの街に流れ着いた。
その事実を想像するだけで、胃の腑がせり上がるような不快感に襲われる。

彼女は今、どんな顔をして私を待っているのだろう。
私を呪い、私になりすますことで、彼女は何を「清め」ようとしたのか。

何か大きなものが視界を横切ったと思ったら、ドブネズミだった。
卒倒しそうになる。

昼間だというのに、ネオンが点きっぱなしの建物がある。

ピンク色の看板。
ハートマーク。
やけに丸みを帯びたフォント。

【即ご案内できます】
【地域最安値】
【ご休憩 2,980円~】

視界の端に入るたび、私は反射的に目を逸らした。

無料案内所と書かれたプレハブ小屋の前に、スーツ姿の男が立っている。昼間から、通行人を値踏みするような目つきで。
少し歩けば、ラブホテルの壁面いっぱいに女性のシルエットが描かれている。
過剰なまでの曲線。無機質なビルのはずなのに、やけに生々しい。

「……なんなの、ここ」

思わず独り言が漏れる。

歩道には吸い殻が散乱している。コンビニの前には昼間から缶チューハイを開けている男。
目が合うと、にやりと笑われた気がして、私は足早に通り過ぎた。

通りの両側は、ほとんどが風俗店だった。
扉は閉まっているのに、やたらと派手なポスターが外壁を埋め尽くしている。
露出の多い衣装を着た女性が、誇張された笑顔でこちらを見ている。

「ラブリーちゃん、ほんとにこんなところに……住んでるの?」

喉の奥がざらつく。
道は狭く、建物同士が無理やり押し込められたように並んでいる。めちゃくちゃだ。電線が空を縫い、陽光を切り刻む。
昼なのに、どこか薄暗い。

私は無意識にバッグを抱きしめていた。

歩いている人間も、どこか疲れて見える。
派手な服装の若い女の子。スウェット姿の男。年齢の読めない女性が、無表情でビラを配っている。

その全員が、私を見ていない。
あるいは、見ていても興味がない。

角を曲がったところで、怒鳴り声がした。

「だから違うって言ってんだろ!」

乾いた音。何かがぶつかる鈍い衝撃。
思わず足を止める。
路地の奥、壁際に若い女の子が押しつけられていた。
短いスカート。ヒール。

腕を掴まれている。

相手は中年の男だった。スーツの上着を肩に引っかけ、顔を赤くしている。

「金払ってんだぞ、こっちは」

女の子は無言だった。怒鳴り返しもしない。
ただ、目だけが虚ろに宙を見ている。

近くの自販機の横でタバコを吸っていた男が、その様子にちらりと視線を向けたが、すぐにスマホへ戻った。

誰も動かない。
通り過ぎる人も、歩幅を少しだけ速めるだけ。

私も、その一人だった。

目が合った気がした。
女の子と、一瞬。

助けを求めていたのかどうかも、分からない。
分かろうともしなかった。

私は視線を逸らし、何事もなかったように歩き出す。
背後で、また乾いた音がした。

それでも、悲鳴は上がらない。

まるで最初から、そこに存在しない出来事みたいに。
数歩進んだところで、無料案内所の前の男と目があった。
彼は薄く笑っていた。

私はずっと、まじめに勉強して、大学に行って、まともな場所で生きていると思っていた。
少なくとも、こういう世界とは無縁だと。
それなのに、ラブリーちゃんのせいで、私は今こんな場所を歩かされている。

あの教室で、粗相をし続ける彼女。みんなから笑われていた彼女。

過剰に装飾された下品な通りのさらに奥。メインストリートから一本入ると、急に静かになる。
ネオンが減り、代わりに古びたアパートが並ぶ。
外壁はひび割れベランダの柵は錆びている。洗濯物がだらしなく干され、室外機が無造作に積まれている。
足元のコンクリートは黒ずみ、どこか湿っている。

私は住所を確認する。

ラブリーちゃんの住まいは、ここだった。

「これ、接道、どうなってんの…」

隙間のような小道から物件に入っていく。
階段は外付けで、金属製。
踏み出すと、ぎし、と音がした。

「……なんで」

言葉が勝手にこぼれる。
なんでこんなところに。なんでここまで落ちたの。

私は手すりを握る。

冷たい。錆びた感触が、掌に残る。
下を見れば、さっきのネオンがまだ視界の端で瞬いている。
ピンク色。安っぽい光。

私は思った。

ここは、村とは違う。
けれど、同じ匂いがする。

誰かを消費し、誰かを見下し、誰かを踏み台にして成り立っている場所。
違うのは、隠しているか、隠していないかだけだ。

203号室。