鳥居をくぐると、空気が変わった。
湿っているのに、どこか澄んでいる。
境内は小さい。苔むした石段、古い手水舎、軋むような拝殿。
「ご用件でしょうか」
振り返ると、三十代前半ほどの男性が立っていた。
瘦せた体躯に白い法衣がだらしなく掛かっている。
「突然すみません。大学で婀娜多村の大量死について調べている河田美和と申します。」
彼は一瞬だけ私の名に反応したが、何も言わず会釈した。
「宮司の真壁です。話せることなら」
社務所に通される。中は意外なほど整然としていて、壁一面に専門書が並んでいた。民俗学、寄生虫学、公衆衛生、疫学。
思いもよらない光景に、私は思わず目を見開く。
「色々……専門的な本をお持ちなんですね。」
「東京の大学で環境微生物学を専攻していました。父の急逝で戻るまでは、研究室に。」
「……。」
「河田さんでしたよね。あなたのような若い方が、こんな村の過去を掘り返すなんて……珍しいですね。」
真壁の声は低く、抑揚がない。目が、どこか遠くを見ている。
「珍しい? それとも、迷惑ですか?」
私は意地悪く聞き返した。心臓が早鐘のように鳴っているのに、声は意外と落ち着いていた。
彼は小さく笑った。
「迷惑? いや、いや……むしろ、遅すぎたくらいですよ。父が生きていた頃、こんな話を聞いてくれる人はいなかった。村は、いつも沈黙を選んでいました。」
「……お父様は、あの大量死の年に?」
「ええ」
声が一瞬だけ低くなる。
「父は、最初は誤嚥性肺炎と診断されました。重度の胃腸炎に感染し、嘔吐物が気管に入ったことによる死亡だと。しかし同時期に似た症状で亡くなる高齢者が続きました。偶然にしては、多すぎました」
窓の外から、風が木々を揺らす音が聞こえる。まるで、誰かが息を潜めて囁いているようだ。
「高齢者の多い村でしたから。流行性の病魔に耐えられなかったのでは、と公には言われていますね。ですが、私は納得していませんでした」
彼は指先で机を軽く叩く。
「この村は沼地です。地下水位が浅い。寄生虫や細菌が繁殖しやすい環境でもある。特に、湿地特有の線虫や吸虫類が土壌から経口感染する可能性は否定できない」
「水ではなく、土地?」
「ええ。農作業や井戸周辺の泥との接触。高齢者は免疫が弱い。慢性的な感染が臓器に負担をかけた可能性がある」
私は息をのむ。
「検査は?」
「大規模なものは行われませんでした。この村の規模では、難しかったのです。私は私なりに文献を当たり、仮説を立てただけです」
「あの、例えばですが、水に毒物が入れられた可能性は?」
彼は静かに首を振る。
「証拠はありませんね。少なくとも、私が確認した範囲では」
「でも、2019年頃、水が臭いという苦情が出たと聞きました」
「ご存じでしたか。ええ、ある住宅街の一帯から、一時的に異臭の訴えがありました。しかし、その一帯だけの話です。村全体の人口が減ったことと、結びつけるのは難しい」
「大量死とは関係ない?」
「おそらく。」
私は少し肩の力を抜けるのを感じた。
その後、静かな、しかし重い沈黙が走る。
私は少し考える。意を決して、あの名前を出す。
「真壁さんは、鬼塚愛を知っていますか。」
「ええ、もちろん。」
社務所の隅で、影が揺れた気がした。埃っぽい匂いが鼻を突く。
「彼女は村で浮いてました。彼女の親も浮いていました。村のしきたりを馬鹿にしていた。祭りにも出ない、寄り合いにも顔を出さない。娘の愛さんは、いつも一人ぼっちで……常に、臭いがしたんです。村人たちは、その臭いを忌避していました。排泄物の臭い、土が淀む臭い、饐えた食べ物の臭い。」
真壁さんは突然、私の目を凝視する。
「この村は、何か悪いことが起きると、原因を【物語】にする性質があります。」
湿っているのに、どこか澄んでいる。
境内は小さい。苔むした石段、古い手水舎、軋むような拝殿。
「ご用件でしょうか」
振り返ると、三十代前半ほどの男性が立っていた。
瘦せた体躯に白い法衣がだらしなく掛かっている。
「突然すみません。大学で婀娜多村の大量死について調べている河田美和と申します。」
彼は一瞬だけ私の名に反応したが、何も言わず会釈した。
「宮司の真壁です。話せることなら」
社務所に通される。中は意外なほど整然としていて、壁一面に専門書が並んでいた。民俗学、寄生虫学、公衆衛生、疫学。
思いもよらない光景に、私は思わず目を見開く。
「色々……専門的な本をお持ちなんですね。」
「東京の大学で環境微生物学を専攻していました。父の急逝で戻るまでは、研究室に。」
「……。」
「河田さんでしたよね。あなたのような若い方が、こんな村の過去を掘り返すなんて……珍しいですね。」
真壁の声は低く、抑揚がない。目が、どこか遠くを見ている。
「珍しい? それとも、迷惑ですか?」
私は意地悪く聞き返した。心臓が早鐘のように鳴っているのに、声は意外と落ち着いていた。
彼は小さく笑った。
「迷惑? いや、いや……むしろ、遅すぎたくらいですよ。父が生きていた頃、こんな話を聞いてくれる人はいなかった。村は、いつも沈黙を選んでいました。」
「……お父様は、あの大量死の年に?」
「ええ」
声が一瞬だけ低くなる。
「父は、最初は誤嚥性肺炎と診断されました。重度の胃腸炎に感染し、嘔吐物が気管に入ったことによる死亡だと。しかし同時期に似た症状で亡くなる高齢者が続きました。偶然にしては、多すぎました」
窓の外から、風が木々を揺らす音が聞こえる。まるで、誰かが息を潜めて囁いているようだ。
「高齢者の多い村でしたから。流行性の病魔に耐えられなかったのでは、と公には言われていますね。ですが、私は納得していませんでした」
彼は指先で机を軽く叩く。
「この村は沼地です。地下水位が浅い。寄生虫や細菌が繁殖しやすい環境でもある。特に、湿地特有の線虫や吸虫類が土壌から経口感染する可能性は否定できない」
「水ではなく、土地?」
「ええ。農作業や井戸周辺の泥との接触。高齢者は免疫が弱い。慢性的な感染が臓器に負担をかけた可能性がある」
私は息をのむ。
「検査は?」
「大規模なものは行われませんでした。この村の規模では、難しかったのです。私は私なりに文献を当たり、仮説を立てただけです」
「あの、例えばですが、水に毒物が入れられた可能性は?」
彼は静かに首を振る。
「証拠はありませんね。少なくとも、私が確認した範囲では」
「でも、2019年頃、水が臭いという苦情が出たと聞きました」
「ご存じでしたか。ええ、ある住宅街の一帯から、一時的に異臭の訴えがありました。しかし、その一帯だけの話です。村全体の人口が減ったことと、結びつけるのは難しい」
「大量死とは関係ない?」
「おそらく。」
私は少し肩の力を抜けるのを感じた。
その後、静かな、しかし重い沈黙が走る。
私は少し考える。意を決して、あの名前を出す。
「真壁さんは、鬼塚愛を知っていますか。」
「ええ、もちろん。」
社務所の隅で、影が揺れた気がした。埃っぽい匂いが鼻を突く。
「彼女は村で浮いてました。彼女の親も浮いていました。村のしきたりを馬鹿にしていた。祭りにも出ない、寄り合いにも顔を出さない。娘の愛さんは、いつも一人ぼっちで……常に、臭いがしたんです。村人たちは、その臭いを忌避していました。排泄物の臭い、土が淀む臭い、饐えた食べ物の臭い。」
真壁さんは突然、私の目を凝視する。
「この村は、何か悪いことが起きると、原因を【物語】にする性質があります。」
