私の圧に怯えた様子の広尾さんをみて、ふと冷静になった。
そういえば、私はなぜ、水にこだわっているのだろう。
大量死の原因が水であるという確たる証拠はないはずだ。
私を恨む何者かが書いたあのブログの記事に、繰り返し繰り返し出てきただけ。
【山から流れてくる水は重金属の含有量が高く、長く飲み続ければ歯は茶色く変色し、関節の痛みを訴える者が続出したそうです】
【婀娜多村の水は腐っている】
【注意!!こちら【毒の泉】村の人々を殺した井戸跡!!】
私も、この手で婀娜多村を独自に調べた。この村が立地に恵まれておらず、土壌も豊かではないことは確か。
でも、特段水のことは触れた記事があったか?
私は広尾さんに謝罪し、その場を後にした。
次に、司書の男性に案内されて児童館に向かった。
中には大量の本が並んだ棚がいくつも並んでいた。
私の成りすまし…ラブリーちゃんはこの棚を蹴り飛ばしたのか…と頭の片隅で考えた。
「ここの児童館、本がいっぱいあるんですね。」
「そうです。まあ、絵本とか児童書が多めですけど、図書館の役割もしていますから」
「あの、少し調べものをしても良いですか。」
「ええ、かまいませんよ」
私は迷わず、ひときわ目立つ、古めかしく分厚い本を手に取る。
本を開くと、紙は黄ばんで、角は丸く擦り切れていた。
活字はややかすれ、ところどころ旧字体が混じっている。
~~~~~
【婀娜多村の歴史】
婀娜多村は、古くは坂下の湿地帯に形成された寒村にして、周囲を低山に囲まれ、
日照時間も短く、農耕に適した土地とは言い難い環境にあった。
村の中心部は常にぬかるみを抱え、春先には霧が立ちこめ、夏は湿気が籠り、冬は冷気が溜まる。
土壌は粘質にして酸性が強く、稲作の収量は近隣村落の半分以下に留まったという記録が残る。
江戸期の文書にも「貧村」「痩地」との記載が散見され、若者の流出が絶えず、人口の増減は激しかった。
産業と呼べるものは乏しく、山菜採取、炭焼き、簡素な畑作が主であった。
明治期以降も大規模な開発は進まず、交通網の整備も遅れた。
坂下という地形上、外部との往来は困難であり、独自の慣習が色濃く残存した。
~~~~~
なんだか、読んでいるだけで鬱屈とするような文章だ。思わず眉をひそめる。
ページをめくる。
~~~~~
村内には古来より井戸が多く掘られていた。
その数は記録に残るものだけで三十。現在確認できるものは十余。枯れ井戸も含めればそれ以上に及ぶと推測される。
湿地帯であるがゆえ地下水位は浅く、掘削は比較的容易であった。
~~~~~
水質についての詳細は、ない。
ただ、井戸が多い、という記述のみ。
~~~~~
一部の井戸は旱魃の折にも枯れず、「山の恵み」と称されたが、
再開発以降は上水道の整備に伴い次第に使用されなくなった。
~~~~~
その後、時間をかけて全体に目を通したが、
重金属の話も、歯の変色も、関節痛も、一切出てこなかった。
私は本を閉じた。
この本は、土地の貧しさについてだけ執拗なほど書いている。
作物が育たない。人が定着しない。
寒い。湿っぽい。交通が不便。
私は児童館の窓の外を見た。
ブログの文章が、脳裏で反復する。
【婀娜多村の水は腐っている】
あれは、事実の誇張か。事実無根の嘘なのか。
もし水が本当に問題だったなら、この村の歴史を語る上でまったく触れないはずがない。
いや、逆に触れたくないから、触れていない可能性は?
私が頭を抱えていると、司書が声をかけてきた。
「何か、気になることでもありましたか?」
司書の声は穏やかだった。だが、どこか様子をうかがうような響きがある。
私は本を閉じたまま答える。
「この本、水についての記述がほとんどないんですね」
「え?水ですか?」
「ええ。水質について何も触れていなかったので」
司書は不思議そうな表情を浮かべる。
「私は、数年前にこの村に引っ越してきた者なのですが、水質について疑問を感じたことは特にありませんね…」
「私の成りすましが書いたブログを読み増したか?」
「ああ……はい。一応、目は通しましたよ。」
「そこに、水質の劣悪さについて執拗に書かれていました。司書さんは覚えてらっしゃいますか。」
「そうでしたっけ。ああ、なんかそんなこと書かれていた気も…」
「私はもともと、婀娜多村で数年前に起きた大量死について調べ、それを大学の卒業論文としてまとめるつもりでいました。とはいってもまだ大学3年生の春ですから、本格的に着手しているわけではなかったのですが、下調べは念入りに進めていました。」
「はあ、なるほど……」
「下調べの中で、村の立地的な恵まれなさや、土壌の貧しさは理解できました。でも、水質については何も出てきていませんでした。」
「へえ…」
司書はいまいちぴんときていない表情だったが、私は話を続ける。
「つまり、水が原因で大量死が起きた、という裏付けはどこにもないんです。でも、あのブログは【水が悪い】と読者に思い込ませるような書き方をしているということです。」
司書は小さく首を傾げる。
「あのブログが印象操作をしようとしている、ということですか?」
「その可能性もあります。」
私は司書の目をじっと見つめる。
「村で昔から、水にまつわる言い伝えとか、ありませんか。井戸に何かを捨ててはいけないとか、山の水は触るなとか」
司書は少し考え込み、それからぽつりと言った。
「……神主さんなら、何か知っているかもしれませんね。」
「神主さん?」
「ええ。婀娜多神社の神主さんです。古い村ですから、水や土地に関する祭祀は神社が中心だったはずですよ。こちらの郷土史より、詳しい可能性はあります」
「神社はここから歩いていけますか?」
「ええ、よろしければ住所をお伝えしますよ。神主さんは最近代替わりされまして、お若い方ですが、博識です。どうやら代々あの家系が宮司を務めているようですね」
代々。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
村の歴史を一番長く、そして深く知っているのは、役場でも図書館でもないのかもしれない。
「大量死のとき、神社は何か儀式を?」
司書は少し声を潜めた。
「……慰霊祭は行われました。ですが、その前に一度、清めの神事があったと聞いています」
「清め?」
「申し訳ありません。私がこちらに引っ越してくる前の出来事ですので、詳しくは知らないのですが…」
私は軽く会釈をした。きっとこの司書を問い詰めても、何も得られないだろう。
「ありがとうございます」
児童館を出ると、空気が少し冷たかった。
案内された住所に向かっていく。坂の上に、小さな鳥居が見える。
あの奥に、村の記憶が眠っているかもしれない。
そういえば、私はなぜ、水にこだわっているのだろう。
大量死の原因が水であるという確たる証拠はないはずだ。
私を恨む何者かが書いたあのブログの記事に、繰り返し繰り返し出てきただけ。
【山から流れてくる水は重金属の含有量が高く、長く飲み続ければ歯は茶色く変色し、関節の痛みを訴える者が続出したそうです】
【婀娜多村の水は腐っている】
【注意!!こちら【毒の泉】村の人々を殺した井戸跡!!】
私も、この手で婀娜多村を独自に調べた。この村が立地に恵まれておらず、土壌も豊かではないことは確か。
でも、特段水のことは触れた記事があったか?
私は広尾さんに謝罪し、その場を後にした。
次に、司書の男性に案内されて児童館に向かった。
中には大量の本が並んだ棚がいくつも並んでいた。
私の成りすまし…ラブリーちゃんはこの棚を蹴り飛ばしたのか…と頭の片隅で考えた。
「ここの児童館、本がいっぱいあるんですね。」
「そうです。まあ、絵本とか児童書が多めですけど、図書館の役割もしていますから」
「あの、少し調べものをしても良いですか。」
「ええ、かまいませんよ」
私は迷わず、ひときわ目立つ、古めかしく分厚い本を手に取る。
本を開くと、紙は黄ばんで、角は丸く擦り切れていた。
活字はややかすれ、ところどころ旧字体が混じっている。
~~~~~
【婀娜多村の歴史】
婀娜多村は、古くは坂下の湿地帯に形成された寒村にして、周囲を低山に囲まれ、
日照時間も短く、農耕に適した土地とは言い難い環境にあった。
村の中心部は常にぬかるみを抱え、春先には霧が立ちこめ、夏は湿気が籠り、冬は冷気が溜まる。
土壌は粘質にして酸性が強く、稲作の収量は近隣村落の半分以下に留まったという記録が残る。
江戸期の文書にも「貧村」「痩地」との記載が散見され、若者の流出が絶えず、人口の増減は激しかった。
産業と呼べるものは乏しく、山菜採取、炭焼き、簡素な畑作が主であった。
明治期以降も大規模な開発は進まず、交通網の整備も遅れた。
坂下という地形上、外部との往来は困難であり、独自の慣習が色濃く残存した。
~~~~~
なんだか、読んでいるだけで鬱屈とするような文章だ。思わず眉をひそめる。
ページをめくる。
~~~~~
村内には古来より井戸が多く掘られていた。
その数は記録に残るものだけで三十。現在確認できるものは十余。枯れ井戸も含めればそれ以上に及ぶと推測される。
湿地帯であるがゆえ地下水位は浅く、掘削は比較的容易であった。
~~~~~
水質についての詳細は、ない。
ただ、井戸が多い、という記述のみ。
~~~~~
一部の井戸は旱魃の折にも枯れず、「山の恵み」と称されたが、
再開発以降は上水道の整備に伴い次第に使用されなくなった。
~~~~~
その後、時間をかけて全体に目を通したが、
重金属の話も、歯の変色も、関節痛も、一切出てこなかった。
私は本を閉じた。
この本は、土地の貧しさについてだけ執拗なほど書いている。
作物が育たない。人が定着しない。
寒い。湿っぽい。交通が不便。
私は児童館の窓の外を見た。
ブログの文章が、脳裏で反復する。
【婀娜多村の水は腐っている】
あれは、事実の誇張か。事実無根の嘘なのか。
もし水が本当に問題だったなら、この村の歴史を語る上でまったく触れないはずがない。
いや、逆に触れたくないから、触れていない可能性は?
私が頭を抱えていると、司書が声をかけてきた。
「何か、気になることでもありましたか?」
司書の声は穏やかだった。だが、どこか様子をうかがうような響きがある。
私は本を閉じたまま答える。
「この本、水についての記述がほとんどないんですね」
「え?水ですか?」
「ええ。水質について何も触れていなかったので」
司書は不思議そうな表情を浮かべる。
「私は、数年前にこの村に引っ越してきた者なのですが、水質について疑問を感じたことは特にありませんね…」
「私の成りすましが書いたブログを読み増したか?」
「ああ……はい。一応、目は通しましたよ。」
「そこに、水質の劣悪さについて執拗に書かれていました。司書さんは覚えてらっしゃいますか。」
「そうでしたっけ。ああ、なんかそんなこと書かれていた気も…」
「私はもともと、婀娜多村で数年前に起きた大量死について調べ、それを大学の卒業論文としてまとめるつもりでいました。とはいってもまだ大学3年生の春ですから、本格的に着手しているわけではなかったのですが、下調べは念入りに進めていました。」
「はあ、なるほど……」
「下調べの中で、村の立地的な恵まれなさや、土壌の貧しさは理解できました。でも、水質については何も出てきていませんでした。」
「へえ…」
司書はいまいちぴんときていない表情だったが、私は話を続ける。
「つまり、水が原因で大量死が起きた、という裏付けはどこにもないんです。でも、あのブログは【水が悪い】と読者に思い込ませるような書き方をしているということです。」
司書は小さく首を傾げる。
「あのブログが印象操作をしようとしている、ということですか?」
「その可能性もあります。」
私は司書の目をじっと見つめる。
「村で昔から、水にまつわる言い伝えとか、ありませんか。井戸に何かを捨ててはいけないとか、山の水は触るなとか」
司書は少し考え込み、それからぽつりと言った。
「……神主さんなら、何か知っているかもしれませんね。」
「神主さん?」
「ええ。婀娜多神社の神主さんです。古い村ですから、水や土地に関する祭祀は神社が中心だったはずですよ。こちらの郷土史より、詳しい可能性はあります」
「神社はここから歩いていけますか?」
「ええ、よろしければ住所をお伝えしますよ。神主さんは最近代替わりされまして、お若い方ですが、博識です。どうやら代々あの家系が宮司を務めているようですね」
代々。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
村の歴史を一番長く、そして深く知っているのは、役場でも図書館でもないのかもしれない。
「大量死のとき、神社は何か儀式を?」
司書は少し声を潜めた。
「……慰霊祭は行われました。ですが、その前に一度、清めの神事があったと聞いています」
「清め?」
「申し訳ありません。私がこちらに引っ越してくる前の出来事ですので、詳しくは知らないのですが…」
私は軽く会釈をした。きっとこの司書を問い詰めても、何も得られないだろう。
「ありがとうございます」
児童館を出ると、空気が少し冷たかった。
案内された住所に向かっていく。坂の上に、小さな鳥居が見える。
あの奥に、村の記憶が眠っているかもしれない。
