言の葉の翠

2026-03-03
『記憶には残らない』

別れた後、付き合っていた頃の
思い出に幾つもやられてしまう。

例えば僕が選んだミルクティーを
別れた後に彼女が見つけたとして。

きっと僕を思い出して悲しんでしまう。

例えば僕がお勧めした映画を
別れた後に彼女が観たとして。

きっと僕を思い出して苦しんでしまう。

まだ付き合っているというのに
別れた後のことばかりが浮かぶ。

初めて行く喫茶店だった。

ワクワクしている彼女は
子供のようで可愛らしい。

色々な飲み物が提供されていた。

彼女は「アイスティーにしようかな」と
僕の目を見て悩まし気に言ってくるから。

「いいね、僕も同じものにする」と言って
彼女の思い出に残らないように気を付ける。

店員さんを呼び、「アイスティー2つで」と
ピースをするように数を伝えて注文を終えた。

「何か食べればいいのに」と僕は言うが
「また後でどこか行こう」と彼女は言う。

「ここ、雰囲気凄く良いところだね」
「似合ってるよ、写真撮ってあげる」

続けるように彼女はそう言ってきて
スマホを僕のほうに向けてくるから。

「えへへ、いいよ。撮ってあげる」
僕はスマホを奪って、撮り返した。

「いぇーい」だなんてふざけていて
両手でピースをする彼女が愛おしい。

「お待たせしました」という声が聞こえ
注文していたアイスティーが2つ届いた。

「ミルクやシロップはあちらにあります」
遠くのテーブルを指さして教えてくれる。

「ありがとうございます」と僕らは言い
「乾杯」とグラスをぶつけて1口飲んだ。

彼女の今日の記憶には、僕と喫茶店に来て
同じアイスティーを注文して駄弁った日と
残されるのだと思うと、どこか安心できる。

まだ、別れに至る途中だというのに
まだ、幸せに満ちているというのに。

彼女のスマホには僕の写真が1枚もない。

こうして今を幸せだと感じられて
同じ時間を過ごせればいいと思う。

別れに至ったとき、少しでも彼女を
悲しませたり苦しませないためにも。

僕という思い出を減らしていく。
愛していたという記憶は残るが。

僕を思い出すきっかけがなければ
早々に愛も薄れていくだろうから。

ガシャーン、と音が鳴った。
彼女がアイスティーを溢す。

「すみません」と店員さんに謝っていて
僕も「すみません」と同じように謝るが。

これから先、アイスティーを見るたびに
この光景が思い浮かぶのだと思うともう。

僕が気を付けていても、意味はないね。
だって、彼女が思い出を作るのだから。

これまでに気を付けていた思いが
グラスから静かに溢れ出していく。

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