言の葉の翠

2026-04-16
『どこにも行かないで』

「どこにも行かないで」と抱きつかれた。
どこにも行くつもりなんてなかったのに。

朝、目が覚めると彼女が横にいて
僕のことを愛おしそうに見ていた。

「おはよう」と言うと「おはよう」と返されて
続けるように「どんな夢みた?」と訊いてくる。

「もう覚えてすらいないね、悲しい」
ついさっきの出来事を忘れてしまう。

「私はね、あなたがいなくなる夢だったよ」
彼女の布団を掴む手が少しだけ力んでいく。

「でも、起きたら横にあなたがいて」
「愛おしくてずっと眺めていたらね」
「あなたも目を覚ましたから嬉しい」

彼女が微笑んだ。

「いなくなるだなんてありえないね」
「こんなにも愛しているというのに」

そんなことを言ってから
彼女の頭をそっと撫でた。

「どこにも行かないで」と掠れた声で言って
彼女はただ体を重ねるように抱きついてきた。

僕も同じくらいの強さで抱きついてから
「朝ごはんを食べようか」と一旦離れる。

冷蔵庫を漁っている彼女の後ろ姿を見て
きっと誰も見ることのない弱点みたいで
どこか可笑しくて、けれど愛おしく思う。

抱きつこうと思った。

ベッドから出て、冷蔵庫のほうへ進んで
彼女の後ろ姿が目の前にあるというのに。

僕は彼女に抱きつくことができなかった。
冷蔵庫に貼られた写真が目に入ったせい。

5年前の春、一緒に花見をするために少し遠くへと
電車を乗り継いで旅に出たときに撮った写真だった。

僕がカメラに向かってピースしているのに対し
彼女はカメラではなく僕のほうを見つめている。

ついさっき、目が覚めたときと同じように
愛おしそうに僕のことを見つめているから。

どこか懐かしくて、戻れない過去を思い出し
目の前の彼女に抱きつくことができなかった。

「昨日さ、作りすぎちゃったんだよね~」
そう言って、彼女はこっちへと振り返る。

手に持っていたタッパーを床に落とし
中から幾つかの唐揚げが転がっていく。

彼女が泣いた。

「どこにも行かないから泣かないで」
「この唐揚げ、凄く美味しそうだね」

転がった唐揚げを僕は、拾うことができない。
泣いている彼女の背中を摩ることもできない。

どんな匂いがして、どんな味がして
どんな感触がしていたか分からない。

膝から崩れ落ちていく彼女をただ見つめていた。
「いないじゃん、いないじゃん」と呟いている。

意図はしていなかった、していなかったけど
冷蔵庫に貼られた写真が何故か剥がれ落ちた。

「いた」

彼女の声だけ部屋に残っていて
僕の声は、彼女に届かないまま。

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