言の葉の翠

2026-04-05
『ハグのない記憶』

「いつか、死んでしまう俺らだから」
「何かできることはないか知りたい」

真剣な目をしてそれだけを言う彼は
ワインを一口飲んで、空を見上げた。

満月だった。

毎月、必ず一度は見ることができる満月が
今日という日でどこか嬉しくなってしまう。

「ところで、月が綺麗ですね」

隣に座っている彼と同じ月を見ながら
ふと、そんな言葉が口から溢れてくる。

ワインの匂いなのか、香水の匂いなのか
彼はいい匂いを漂わせて私のほうを見て。

「きっと心が綺麗だと、全てが綺麗だね」

別に求めていたわけではないのだけど
そんなことを真っ直ぐに言ってくれた。

「いつか、私も死んでしまう身だけど」
「今はあなたと過ごす時間が幸せです」

マンションの一室、ベランダに置かれたソファに
彼と私、寄り添うように座っていて、私は言った。

「俺も君と過ごす時間が大切だと思っている」
「死を経て、何かできることはないだろうか」

月を眺めながら、彼は真剣な目で言った。
私は「んー」と考える素振りをしてみる。

「自分ができることというよりかは」
「他人に何を残すことができるかを」
「考えてみるのもいいかもしれない」

私の言葉に彼は「そうね」と呟いて頷き
「何を残すか」と復唱するように言った。

「もし、俺が君に何かを残せるとして」
「何を残せて、何を残せないと思う?」

飲み切ったワイングラスに深紅のそれを
静かに注ぎながら、また私に訊いてくる。

「何を残せるかと訊かれると困りますけど」
「こうして話した記憶は残ると思いますよ」

私の回答に「そりゃそう、君の記憶も残る」と
口角を上げて、その微笑みを私へと向けてくる。

駄目だ、好きになってしまう。

「関わり続けている限りは残せないものなんて」
「1つも存在していないと思うんです、全てを」

思ったことを言葉に変換して
彼に伝わるように話してみた。

「そうだね、残せないものはないのかもしれない」
「君が俺に抱いている好意も含まれているかな?」

答えを分かった上で悪戯っぽく
私のことを見てくる彼はどこか
少年っぽさも兼ね備えてずるい。

「好きじゃないですよ、奥さんがいるじゃないですか」
「流石に、奥さんのことを大切にしてあげてください」

嘘をついた。

「あはは、奥さんも大事だけど君のことも」
そう言いかけた彼の言葉を遮るようにして。

「なら、ハグしてください私を」
少し近付いて、彼と目が合った。

満月が私たちを祝福している。

いい匂いが漂っていて、記憶に残るけれど
ハグをされたという記憶は残されていない。

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