言の葉の翠

2026-04-08
『あの人のもと』

半年前に旦那が亡くなった。

「もういないよ、どこにもいないの」
母に慰められてもまだ、探している。

あんなに幸せだったのに、笑っていたのに
職場の屋上から飛び降りてしまったのだと。

「辛いとは思いますが、損傷が激しく」
「お会いするべきではないと思います」

葬儀社から、そう伝えられたときは
「でも会いたいです」と言ったけど
思えば、会わなくて良かったと思う。

「いってきます」と玄関から出ていく彼を眺め
扉が閉まる手前、伏し目がちに笑ったあの顔が
私にとって彼の最後なのだと思うとまだ救いで。

損傷の激しい彼を、最後に見なくて良かった。
けど、見なかったから亡くなったとも思えず。

伏し目がちに笑った彼が帰ってくるのではないか
「ごめんね、待たせたよね」と玄関の扉を開けて
私の元へ戻ってきてくれるのではないか、と願い。

まだ、私は現実を受け入れられなくて
仕事を休職しているけど、職場の人が
「無理しないで」と言ってくるたびに。

彼の死が現実で起こっている、と
直接言われているようで嫌になる。

スマホを開くと、幾つかの通知が溜まっていて
彼との連絡が次第に下へと埋まっていくのさえ
見て取れてしまい、生きていることが嫌になる。

彼との連絡を見返した。

「見て、ここ一緒に行きたい」という言葉と
綺麗な海の写真を添付して、彼が送ってくる。

「凄く綺麗ね、来週の水曜日どうかしら」
「15時過ぎなら一緒に行けそうだけど」

私はそう返信していて、欠けていた記憶が
ぶわっと元に戻るような感覚に陥ったまま。

スマホをゴトッと床に落とした。

その音で我に返った私はカレンダーを見返し
水曜日に残された約束がどこにあるかを探す。

あった。彼が亡くなった次の日。
もう忘れていた約束を思い出す。

海に行きたい。母にそう伝えた。

深夜1時、真っ暗な海に行きたい。
誰にもバレない海に私は行きたい。

「なんね、また日が出てから行こう」
母は優しく言ってくれるけど、嫌だ。

今、行きたい。彼との約束の海に、今、行きたい。
ごめんね、約束したのに私が忘れてしまうなんて。

今だったら時間なんて関係ないね。
いつまででもいられるよ、そこに。

彼が私を手招きしているような気さえする。
「行ってくる」と母に言って、車に乗った。

どこに海があるかだなんて分からないのに
何故か、道に迷うことなく目的地に着いた。

後日、母が私の遺体に手を合わせた。

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