2 過ぎ行く先の行方
<ep-6>
年末年始の休み……という概念は今の俺にはない。
寧ろ、大学の図書館が一週間使えないという不便極まりない連休。
ただ、年末年始の休みという概念がないのは父さんも同じ。
大晦日は休みらしいが、元日は新年早々夜勤らしい。
だがまぁ大晦日が休みならば、日本人としては夕飯とは別に夜食として用意すべき物がある。
それの仕込みの為、俺は息抜きと称して夕方に一度キッチンに立った。
燈と父さんと三人で夕飯を食べた後は俺だけまた自室へ。
そうして二十二時を過ぎた頃に再びリビングへと顔を出す。
テレビに映っているのは大晦日ならではの音楽番組。
けれども、テレビと向き合っているのは燈だけ。父さんはソファで英文雑誌を捲っている。
丁度画面の向こうでは演歌歌手が派手な演出を披露しはじめたところ。それを物珍しいものでも見たかのよう真剣に見詰めている燈の様子の方が俺には物珍しく映って何だか少し面白い。
「父さん、そろそろ蕎麦用意して良いか?」
「ん? あぁ、そうだな頼む」
俺と父さんの短い会話を拾ったのか、燈がテレビから視線を外して俺を不思議そうに見上げてくる。
「お蕎麦……? でも、夜ご飯はさっき……」
「おう、今日は大晦日だからな。夕飯とは別に、ウチでは年越し蕎麦も食うんだよ」
大晦日に夕飯とは別腹で年越し蕎麦を食べる習慣はウチに限ったことではないだろうけれど。燈の『知らない』を馬鹿にするような云い方にならないようそんな風に答えた。
夕方に出汁をとったそばつゆを温めながら、別の鍋で蕎麦を茹でる俺。
燈は俺がキッチンに立つとソワソワしだすから、テーブルに箸を三人分並べてくれと指示を出す。
「あと、丼ふたつと……味噌汁のお椀ひとつな。一人前とは云わねーけど、お前もちょっとだけで良いから食え」
味噌汁のお椀はお前の分の蕎麦を入れる為の器だと暗に告げれば、燈は素直に丼ふたつと味噌汁用のお椀をキッチンの作業スペースに置いた。
具は輪切りのネギを小さな山にしただけのかけ蕎麦が我が家の年越し蕎麦スタイル。
七味はそれぞれの加減で、と小さなビンだけテーブルの中央に置く。
真っ先に七味のビンを手に取った父さんが、バサバサと蕎麦の表面を朱色に染めていくのに対し、俺は三振り。その違いを見て困惑したかのよう、燈は七味のビンを手にはするものの振りかける量に迷う様子が視界の端に入った。
「取り敢えず入れずに食って、一振り足して、食ってみ、て……って味確認しながら自分好みにすりゃ良い」
それに折角丹念に出汁を取ったそばつゆだ。
どうせならまずは素のままの味を知るのも燈にとっちゃ食育の一環になるだろう。
結果的に、燈的には一振りで満足いく味になったらしい。
「……ところで、年越し蕎麦って……どうして食べるんですか?」
わんこ蕎麦みたいな量の蕎麦を見詰めつつ燈が純粋な声で発した疑問に答えたのは父さんだった。
「日本の昔からの風習だ。今日までの一年の厄災や苦労を切り捨てて翌年に持ち越さない、って意味で食うんだ」
「なるほど……」
「あ? 俺、来年も細く長く暮らせるよーにってどっかで教わって覚えてたんだけど……」
俺の知っている知識と父さんの解説が違う……と思わず口を挟んだら、父さんはどっちの説も同時に唱えられてるからどっちも間違ってはないと鷹揚に笑った。
「どちらにしても、新年も平和に過ごせますように……ってことです、か?」
「そーゆーことだ。ほら、燈。あと一口でも良いから食え」
「はい……あ、ぃえ、あと少しだけなので……残ってるのはちゃんと、全部食べます」
そう宣言して箸を握り直した燈。
相変わらず不器用な箸使いなものの、食べることに前向きな燈の姿勢には、俺も父さんも安堵めいた微笑を隠せずにはいられなかった。
年が明けるまで起きている、とテレビの前で粘っていた燈だったが、結局は睡魔の誘惑に負けて日付が変わる少し前にソファで寝落ちてしまった。
「父さん、燈、どーする? このままここで寝かせとくか?」
「いや、夜中は冷えるからな……布団に連れて行ってやってくれ」
「はいよ、っと」
父さんからの頼みに異論を唱えることなく、燈が包まっている毛布ごとその年齢不相応な細い体を抱き上げる。
「三が日は食っちゃ寝が日本の正月の常識で醍醐味だ、つって正月太りさせてやんねーとな……」
腕に感じる重みの頼りなさから思わずそう呟いたら、まったくだ、と父さんは肩を揺らした。
こうして、燈がウチに来てから初めて迎えた佐伯家の大晦日はそっと幕を閉じ、ゆったりと新しい年が始まろうとしていた。
<ep-6>
年末年始の休み……という概念は今の俺にはない。
寧ろ、大学の図書館が一週間使えないという不便極まりない連休。
ただ、年末年始の休みという概念がないのは父さんも同じ。
大晦日は休みらしいが、元日は新年早々夜勤らしい。
だがまぁ大晦日が休みならば、日本人としては夕飯とは別に夜食として用意すべき物がある。
それの仕込みの為、俺は息抜きと称して夕方に一度キッチンに立った。
燈と父さんと三人で夕飯を食べた後は俺だけまた自室へ。
そうして二十二時を過ぎた頃に再びリビングへと顔を出す。
テレビに映っているのは大晦日ならではの音楽番組。
けれども、テレビと向き合っているのは燈だけ。父さんはソファで英文雑誌を捲っている。
丁度画面の向こうでは演歌歌手が派手な演出を披露しはじめたところ。それを物珍しいものでも見たかのよう真剣に見詰めている燈の様子の方が俺には物珍しく映って何だか少し面白い。
「父さん、そろそろ蕎麦用意して良いか?」
「ん? あぁ、そうだな頼む」
俺と父さんの短い会話を拾ったのか、燈がテレビから視線を外して俺を不思議そうに見上げてくる。
「お蕎麦……? でも、夜ご飯はさっき……」
「おう、今日は大晦日だからな。夕飯とは別に、ウチでは年越し蕎麦も食うんだよ」
大晦日に夕飯とは別腹で年越し蕎麦を食べる習慣はウチに限ったことではないだろうけれど。燈の『知らない』を馬鹿にするような云い方にならないようそんな風に答えた。
夕方に出汁をとったそばつゆを温めながら、別の鍋で蕎麦を茹でる俺。
燈は俺がキッチンに立つとソワソワしだすから、テーブルに箸を三人分並べてくれと指示を出す。
「あと、丼ふたつと……味噌汁のお椀ひとつな。一人前とは云わねーけど、お前もちょっとだけで良いから食え」
味噌汁のお椀はお前の分の蕎麦を入れる為の器だと暗に告げれば、燈は素直に丼ふたつと味噌汁用のお椀をキッチンの作業スペースに置いた。
具は輪切りのネギを小さな山にしただけのかけ蕎麦が我が家の年越し蕎麦スタイル。
七味はそれぞれの加減で、と小さなビンだけテーブルの中央に置く。
真っ先に七味のビンを手に取った父さんが、バサバサと蕎麦の表面を朱色に染めていくのに対し、俺は三振り。その違いを見て困惑したかのよう、燈は七味のビンを手にはするものの振りかける量に迷う様子が視界の端に入った。
「取り敢えず入れずに食って、一振り足して、食ってみ、て……って味確認しながら自分好みにすりゃ良い」
それに折角丹念に出汁を取ったそばつゆだ。
どうせならまずは素のままの味を知るのも燈にとっちゃ食育の一環になるだろう。
結果的に、燈的には一振りで満足いく味になったらしい。
「……ところで、年越し蕎麦って……どうして食べるんですか?」
わんこ蕎麦みたいな量の蕎麦を見詰めつつ燈が純粋な声で発した疑問に答えたのは父さんだった。
「日本の昔からの風習だ。今日までの一年の厄災や苦労を切り捨てて翌年に持ち越さない、って意味で食うんだ」
「なるほど……」
「あ? 俺、来年も細く長く暮らせるよーにってどっかで教わって覚えてたんだけど……」
俺の知っている知識と父さんの解説が違う……と思わず口を挟んだら、父さんはどっちの説も同時に唱えられてるからどっちも間違ってはないと鷹揚に笑った。
「どちらにしても、新年も平和に過ごせますように……ってことです、か?」
「そーゆーことだ。ほら、燈。あと一口でも良いから食え」
「はい……あ、ぃえ、あと少しだけなので……残ってるのはちゃんと、全部食べます」
そう宣言して箸を握り直した燈。
相変わらず不器用な箸使いなものの、食べることに前向きな燈の姿勢には、俺も父さんも安堵めいた微笑を隠せずにはいられなかった。
年が明けるまで起きている、とテレビの前で粘っていた燈だったが、結局は睡魔の誘惑に負けて日付が変わる少し前にソファで寝落ちてしまった。
「父さん、燈、どーする? このままここで寝かせとくか?」
「いや、夜中は冷えるからな……布団に連れて行ってやってくれ」
「はいよ、っと」
父さんからの頼みに異論を唱えることなく、燈が包まっている毛布ごとその年齢不相応な細い体を抱き上げる。
「三が日は食っちゃ寝が日本の正月の常識で醍醐味だ、つって正月太りさせてやんねーとな……」
腕に感じる重みの頼りなさから思わずそう呟いたら、まったくだ、と父さんは肩を揺らした。
こうして、燈がウチに来てから初めて迎えた佐伯家の大晦日はそっと幕を閉じ、ゆったりと新しい年が始まろうとしていた。



