花わる。

 その日、僕がお気に入りのコーヒーをカップに注ぎ、ソーサーと共に目の前に差し出した時、おもむろに顔をあげた田端瑠夏(たばたるか)と目があった。

 白のテーブルに白の椅子。そこに腰を据える彼女の目は切れ長で、細くすっと伸びた鼻筋と眉の辺りで切り揃えられた黒髪はよりその目の力強さを強調していた。あまりにも整った顔立ちに一瞬呑み込まれそうになりながらも僕は「飲んで」と笑みを向けた。身体が温まると緊張がほぐれるから。そうつけ足すと、田端瑠夏はちいさく頷いた。カップを持ち上げる手は白く、枯れ木のように細い。何度か息を吹きかけてからゆっくりとコーヒーを啜った。喉がちいさくなった音が、室内に満ちているメトロノームの規則的な音に溶けていく。

 カウンセリング前の五分から十分は相手の心を解きほぐす為に一時間後には忘れてしまうような、なんてことのない会話をするようにしている。コーヒーや紅茶は副交感神経にいい影響を及ぼす為にそれも忘れずに。さて、今日はどんな話をしようか、そんなことを考えていると再び田端瑠夏と目があった。ほのかにピンク色に染まった薄い唇がゆっくりとひらいた。

成瀬(なるせ)先生、ひとつ質問をしてもいいですか」
「いいよ」

 僕はカップへと伸ばそうとしていた手をひっこめ、膝のうえに置いた。

「たとえば、頭の中になにかひとつ、何でもいいから言葉を思い浮かべてくださいと言われたら、先生なら何を思い浮かべますか?」
「それは単語でもいいのかな」

 問いかけると、田端瑠夏は一瞬宙を見上げそれから「ルールはありません」と微笑んだ。

「ルールを決めるのは嫌い?」
「はい」
「なんで?」
「私自身ずっとルールに縛られてきたからです。その辛さを知っているから」
「それは、たとえばどんなルールなのかな」

 言いながら僕はカップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを啜った。

「たとえば家族。家族というルールのなかでは、実の母親にどんなことを言われても私は娘という役割を全うしなければなりません」
「ひどいことを言われた?」
「はい。もう何度も先生には話しました」
「そうだったね、じゃあ話を戻そうか。頭の中に浮かぶ言葉だったよね。そうだな、僕は……コーヒーかな」

 田端瑠夏はふっと笑みを溢した。コーヒー。コーヒーですか。先生はお好きですもんねコーヒー、と呟きながら笑った顔にはまだあどけなさが残っていた。大切な親友を失ってから二年。彼女はまだ二十歳の誕生日すら迎えていない。

「君は?」

 そう問いかけると、田端瑠夏は一瞬目を丸くしたがすぐにいつものような偽りの笑みを顔に張り付けた。

「私は、もう決まってます。いつからか、ずっと頭に浮かぶ言葉があるんです。寝ている時も、ご飯を食べている時も、それから今だって、私の頭のなかにはそれが呪いみたいにこびりついています」
「どんな、言葉なのかな」
「かわる」
「かわる?」
「はい。でもたぶん先生が頭に思い浮かべたのは変化という意味の言葉だと思います」

 僕はちいさく頷いた。

「そうではなくて、花という文字。それに、わるという言葉を組み合わせてかわるです。漢字で書くと花わるとなります」
「それは、どんな意味なのかな」
「分かりません。私にも分からないんです。でも、それが頭に浮かぶのは確か。どれだけ振り払おうとしても自分ではどうにもならなくて、心がどんどんかたちを変えながら潰れていくのが自分でも分かりました。花わる。花、わる。ちなみにこの言葉は辞書でひいても古典を調べても出てきません。この世には存在しない言葉なんです。でも、私の頭のなかは常にこの言葉で埋め尽くされているんです。私、怖いんです。自分が自分でなくなりそうで。いつかどこかで、自分でも思ってもみなかった行動を取るんじゃないかって怖くて仕方ないんです。二年前のあの頃、私が今したのと同じ話を、未来もしてましたから」