花わる。

「母が私の母だった時、私はまだ母のことが好きでした。友達のお母さんみたいにキャピキャピしてる明るい人ではありませんでしたが、中学高校と私の大好きなおかずいっぱいのお弁当を作ってくれましたし、なにか相談事をすると母は包み込むように受け止めてくれました。父は母とは対照的によく笑い、いつもくだらない冗談を言っては家のなかを明るくしてくれましたが、私はやっぱりどちらかと言うと母の方が好きだったんだと思います」
「優しいお母さんだったんだね。ひとつ、聞いてもいいかな」

 僕がそう問いかけると、田端瑠夏はちいさく頷いた。

「母が私の母だった時、と君は言ったけど、それは君のお母さんじゃなくなった時期もあるということ?」
「はい」
「君がそう思いたかった?」
「どういう意味でしょうか」

 田端瑠夏は微動だにすることなく、それはどういう意味ですか、と更に言葉を重ねた。

「確か君は実の母親に耐えきれない苦痛を受けた、そう僕に話してくれたけどそれは君が精神的苦痛、あるいは肉体的苦痛を受けたことで君のお母さんを実のお母さんだと思いたくなくなったのかなと」

 田端瑠夏が僕の元へとやってきたのは2023年の冬のある日のことだった。空は灰色に濁り、ちらちらと雪が舞い落ちていた寒い日にカウンセリングルームのチャイムが鳴った。ずっと頭から離れない言葉があって心が壊れそうなんです。すみません、こういった病院にくるのは初めてで予約もしてないんですが大丈夫ですか。扉を開けると矢継ぎ早にそう言われ、僕は迎えいれた。カウンセリングルーム成瀬。海の傍にあるちいさな一軒家を改築し自分の名を冠したそれを開業した。田端瑠夏と出会ったのは、僕がカウンセラーとして独立したばかりだった。

「先生、半分正解で半分間違いです」

 白いワンピースに身を包み、袖の先から伸びる腕は細く白い。その腕を持ち上げ僕と田端瑠夏の間にあるテーブルのうえで宙に浮かせた。

「たとえば、この腕は母から貰ったものです。母からだけではなく勿論父からもですが、私はそれに対して感謝をしている以上に自分の腕や手首を傷つけるくらいに追い詰められた。私が知る母は、私をこんな目には合わせません」
「でも現実は君を追い詰めた訳だよね?」
「はい。ついさっき、先生の質問に半分正解で半分間違いだと答えたのは、私が現実を受け入れたくなかったのも理由のひとつにあります。でもね先生、知っていますか? 現実って想像以上に残酷なんです。これからするお話は、あまりにも非現実的というか、もしかしたら先生は信じてくれないかもしれません。私の頭がおかしいとそう思われても仕方がないことだと思います。ですが、実際に私が経験し全て目にしてきたことです」