〜永瀬樹〜
休み時間になると、教室は決まって少しだけ呼吸を荒くする。チャイムの余韻が消えるより早く、椅子の音や笑い声が重なり合い、整っていた空気がやわらかく崩れていく。その変化を、僕はいつも机の上から眺めている。鞄から文庫本を取り出し、静かに開く。紙の匂いはほとんど消えていて、代わりに指先の温度が移る。活字は均等に並び、余白がきちんと確保されている。過不足のない文章は、それだけで安心感を与える。物語は、ある人物が小さな選択を重ねていく過程を描いている。派手な事件は起きない。ただ、思考の軌跡が丁寧に追われている。そういう本が好きだ。
数ページ読み進めたところで、机の横に人の気配が止まった。
「樹くん、やっぱり読んでる」
顔を上げると、遠山楓理が立っている。明るい声色。迷いのない距離。
「うん」
短く答えて、本に指を挟む。
「難しくない?」
「そうでもないよ」
彼女は身を屈めて表紙を覗き込む。好奇心がそのまま形になったような仕草だ。
「どんな話?」
「人が何を選ぶか、っていう話」
「またそういうの」
小さく笑う。
―――僕は遠山楓理が嫌いだ。
けれど、そのことについて考え込むつもりはないし、態度に出すつもりもない。
「さっきの数学どうだった?」
彼女は机に手をつき、自然な流れで話題を変える。
「普通かな」
「普通って便利だよね」
「そうかもしれない」
声の調子は変えない。穏やかに、必要な分だけ返す。後方では新田陽翔が誰かと笑っている。軽やかな笑い方だが、決してうるさくはない。水沢莉央は窓際で友人と並び、何かを静かに話している。立花結衣はノートを見返しながら、時折こちらを気にしているような視線を送る。浅倉琉生と目が合う。彼はわずかに頷く。その簡潔さが心地いい。僕も小さく返す。
「ねえ、放課後ちょっと時間ある?」
遠山が言う。
「特に予定はないよ」
「じゃあ、少しだけ付き合って」
「どこに?」
「内緒」
楽しげな表情。自分の提案が受け入れられる前提の声音。僕は小さく笑う。
「悪いことじゃなければ」
「もちろん!」
即答だった。彼女の明るさは、教室の光とよく似ている。遠慮がなく、躊躇もない。その輪郭が、時々眩しすぎるだけだ。
本を閉じ、栞を挟む。ページの間に指先の温度が残る。
「じゃあ約束ね」
「うん」
それだけで十分だ。
チャイムが鳴り、教室は再び整い始める。遠山は自分の席へ戻り、振り返って軽く手を振る。僕は目で応じる。人と穏やかに接することは、特別な努力を要しない。ただ、自分の内側と外側を分けておくだけでいい。本を机に置き、次の授業の準備をする。
休み時間は終わる。
表面は静かに、何事もなく。
休み時間になると、教室は決まって少しだけ呼吸を荒くする。チャイムの余韻が消えるより早く、椅子の音や笑い声が重なり合い、整っていた空気がやわらかく崩れていく。その変化を、僕はいつも机の上から眺めている。鞄から文庫本を取り出し、静かに開く。紙の匂いはほとんど消えていて、代わりに指先の温度が移る。活字は均等に並び、余白がきちんと確保されている。過不足のない文章は、それだけで安心感を与える。物語は、ある人物が小さな選択を重ねていく過程を描いている。派手な事件は起きない。ただ、思考の軌跡が丁寧に追われている。そういう本が好きだ。
数ページ読み進めたところで、机の横に人の気配が止まった。
「樹くん、やっぱり読んでる」
顔を上げると、遠山楓理が立っている。明るい声色。迷いのない距離。
「うん」
短く答えて、本に指を挟む。
「難しくない?」
「そうでもないよ」
彼女は身を屈めて表紙を覗き込む。好奇心がそのまま形になったような仕草だ。
「どんな話?」
「人が何を選ぶか、っていう話」
「またそういうの」
小さく笑う。
―――僕は遠山楓理が嫌いだ。
けれど、そのことについて考え込むつもりはないし、態度に出すつもりもない。
「さっきの数学どうだった?」
彼女は机に手をつき、自然な流れで話題を変える。
「普通かな」
「普通って便利だよね」
「そうかもしれない」
声の調子は変えない。穏やかに、必要な分だけ返す。後方では新田陽翔が誰かと笑っている。軽やかな笑い方だが、決してうるさくはない。水沢莉央は窓際で友人と並び、何かを静かに話している。立花結衣はノートを見返しながら、時折こちらを気にしているような視線を送る。浅倉琉生と目が合う。彼はわずかに頷く。その簡潔さが心地いい。僕も小さく返す。
「ねえ、放課後ちょっと時間ある?」
遠山が言う。
「特に予定はないよ」
「じゃあ、少しだけ付き合って」
「どこに?」
「内緒」
楽しげな表情。自分の提案が受け入れられる前提の声音。僕は小さく笑う。
「悪いことじゃなければ」
「もちろん!」
即答だった。彼女の明るさは、教室の光とよく似ている。遠慮がなく、躊躇もない。その輪郭が、時々眩しすぎるだけだ。
本を閉じ、栞を挟む。ページの間に指先の温度が残る。
「じゃあ約束ね」
「うん」
それだけで十分だ。
チャイムが鳴り、教室は再び整い始める。遠山は自分の席へ戻り、振り返って軽く手を振る。僕は目で応じる。人と穏やかに接することは、特別な努力を要しない。ただ、自分の内側と外側を分けておくだけでいい。本を机に置き、次の授業の準備をする。
休み時間は終わる。
表面は静かに、何事もなく。
