『Friends』

〜浅倉琉生〜


翌朝。
制服は昨日のうちに用意してあった。まだ新品の、少し硬い生地。袖を通すと、自分が自分でないような気分になる。鏡の前でネクタイを整えながら、僕は小さく息を吐いた。
「行ってきます」
返事を待たずに玄関を出る。地図で確認した通学路を、記憶を頼りに歩き始めた。住宅街を抜け、小さな川にかかる橋を渡る。水面が朝日にきらめいていた。見知らぬ景色の中を歩く自分は、まるで物語の登場人物のようだ。

やがて、坂の上に校舎が見えた。白い外壁に、青い校章の入った看板。その中央に、はっきりと書かれている。

――釉浄(ゆうじょう)中学校。

胸がどくりと鳴る。門の前で一瞬立ち止まり、深呼吸をした。校庭ではすでに何人かの生徒が談笑している。笑い声が、遠く感じられた。知らない顔、知らない声、知らない日常。それでも、ここで過ごしていくしかない。僕は拳を握りしめ、門をくぐった。昇降口で上履きに履き替え、掲示板に貼られたクラス分け表を探す。自分の名前を見つけたとき、心臓がまた強く打った。

二年二組。

廊下を歩く足音がやけに大きく響く。窓から差し込む朝の光が、磨かれた床に反射してまぶしい。教室の前に立つと、「2-2」と書かれたプレートが目に入った。扉の向こうから、ざわめきが聞こえる。ここが、新しい僕の居場所になるのだろうか。そう思いながら、僕はゆっくりと扉に手をかけた。

がらり、と音を立てて引くと、教室のざわめきが一瞬だけ止まった。幾つもの視線が、いっせいに僕へと向けられる。喉がひくりと鳴った。
「……ああ、転入生か。入れ」
低く落ち着いた声が、教卓の方から飛んできた。声の主は担任らしい男の教師だった。黒縁の眼鏡に、きっちりと整えられた髪。表情は薄く、どこか事務的な印象を受ける。
「二年三組担任の、佐藤だ。自己紹介を」
佐藤先生はそれだけ言うと、出席簿に目を落とした。愛想はほとんどない。僕は教壇の横に立ち、簡単に名前と前の学校のことを話した。声が少し震えたのが、自分でも分かった。まばらな拍手が起き、佐藤先生が席はあそこだ、と窓側の後ろを指す。...明らかに女子列だった。周りを見ると所々男子列に女子が紛れ込んでいたりその逆もまた(しか)り。別に普通のことなのだろう。こうして、短い朝の会は淡々と進んでいった。

やがて休み時間。張り詰めていた空気が一気にほどけ、教室はにわかに騒がしくなる。どう動けばいいのか分からず、鞄の中を意味もなく整えていると――

「ねえ!」

突然明るい声が、すぐ横から弾けた。顔を上げると、長めの髪を揺らした元気そうな女の子が立っている。ぱっちりとした目が、まっすぐ僕を見ていた。
「琉生さんだったよね? よろしくね!」
にっと笑って差し出された手に、僕は一瞬戸惑いながらも、小さく頷いた。新しい日常が、今、音を立てて動き出した気がした。

彼女の名前は遠山楓理(とおやまかえり)というらしい。朝の会が終わるや否や、彼女は椅子を引きずる音も構わずこちらへ身を乗り出してきた。
「さっき言いそびれたけど、私、遠山楓理。(かえで)に理科の理。覚えやすいし、たぶん一回で忘れないタイプの名前だから」
自分で言って、自分で満足そうに頷く。その仕草が妙に大きい。彼女は人との距離を測る物差しを持っていないのかもしれない。前の学校は都会だったのか、クラスは何人いたのか、彼女は質問を投げるというより、半ば決めつけるように話を進める。「絶対こっちのほうが静かでしょ?」「でもその代わり星は綺麗だから、たぶん感動するよ?」と、まだ見てもいない僕の感情まで先回りする。少し強引で、少し大げさ。それでも、不思議と悪意は感じない。本人も悪気は全くないのだろう。むしろ、自分の世界に僕を当然のように組み込もうとする、その無遠慮さが眩しかった。
予鈴が鳴ると、彼女は「あ、数学だ。最初から佐藤とか、ちょっと運悪いかもね」と肩をすくめた。「まあでも大丈夫!たぶん死なないから!」と、妙な励ましを残して席へ戻る。

一時間目は数学。担当は担任の佐藤先生だ。無駄のない足取りで教室に入り、静かに出席簿を置く。その表情は相変わらず硬い。
「教科書、四十二ページを開け」
低く抑えた声。私語は即座に消える。遠山の言っていた意味が、少し分かった気がした。一次関数の応用。前の学校でも触れた単元だが、解法の進め方がわずかに違う。板書は整然としていて美しいが、その分ごまかしが利かない。途中式を飛ばせば、すぐに指摘されそうな緊張感がある。
「転入生、ついて来られているか」
不意に呼ばれ、僕は顔を上げた。はい、と短く答えると、佐藤先生はそれ以上何も言わずに視線を戻した。試されているようで、背筋が伸びる。横を見ると、遠山は先ほどまでの騒がしさが嘘のように、真剣な顔でノートを取っていた。だが、問題が解けた瞬間、小さくガッツポーズを作っている。どうやら感情の振れ幅がそのまま外に出る性質らしい。やがて終業のチャイムが鳴る。佐藤先生は
「次回は例題三まで。予習を怠るな」
と告げ、教室を出ていった。

一拍の静寂。

次の瞬間、教室は一斉に息を吹き返す。椅子が鳴り、笑い声が弾ける。
次の休み時間が、始まった。

休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り切るより早く、遠山はもうこちらを向いていた。切り替えの早さというより、最初からその瞬間を待っていたような勢いだ。 椅子を半分こちらに寄せ、机に肘をつく。
「さっきの、平気だった?」
声は明るいが、探るような視線をしている。
「佐藤先生の授業、慣れるまで少し大変なんだよね。途中式、油断するとすぐ見抜かれるし」
大げさに肩をすくめてみせるが、その実、きちんと先生の癖を理解しているらしい。自分の失敗談らしきものを短く添えながら、話題を次々と広げていく。距離の詰め方が速い。それでも場を白けさせないのは、彼女なりの配慮が混じっているからだろう。答えを選びかけたところで、教室の前から低い声が落ちてきた。
「遠山。少し来なさい」
振り向くと、佐藤先生が廊下側の扉に立っている。休み時間でも、その表情は崩れない。遠山は一瞬だけ目を細め、それからすぐに笑った。
「はーい」
軽い返事とは裏腹に、足取りは素直だった。去り際、何か言いかけるようにこちらを見たが、結局何も言わずに教室を出ていく。その背中が消えると、不思議と周囲の音が遠のいた。机の上に視線を落とす。

―――例題三まで、予習を怠るな。

言葉がまだ耳に残っている。
ノートを整え、問題に取りかかる。一次関数の応用。条件を読み取り、式に落とし込む。途中式を丁寧に書き連ねる。誰に見せるわけでもないが、曖昧な省略は避けた。あの視線を思い出すと、自然と手が慎重になる。教室のざわめきは続いている。けれど、自分の周囲だけが少しだけ別の時間を刻んでいるようだった。

「……あっ、浅倉くん、消しゴム落ちたよ」
不意に、静かな声が届く。顔を上げると、隣の席の永瀬樹がこちらを見ていた。彼の手には、自分の消しゴムがある。一瞬、意味を測りかねる。視線を机の上に戻して、はじめてそれが手元から消えていることに気づいた。どうやら、書き進めるうちに無意識に落としていたらしい。差し出されたそれを受け取る。永瀬は小さく笑みを浮かべた。気負いのない、自然な表情だった。
「集中してたね」
それだけ言って、肩をすくめる。責めるでもなく、からかうでもない、ただ事実をそっと置くような声音(こわね)
「気づかなかった。ありがとう」
「うん」
短いやり取りはそれで終わる。けれど、気まずさは残らない。永瀬は佐藤先生のように張りつめた空気をまとってはいない。落ち着いてはいるが、どこか柔らかい。必要以上に踏み込まず、それでも線を引きすぎない距離の取り方をしている。彼は自分のノートへ視線を戻し、何事もなかったようにペンを走らせ始めた。その横顔は穏やかで、先ほどまで遠山が残していった熱とは対照的だった。教室の中央では、まだ誰かが笑っている。遠山のいない場所は、少しだけ静かだ。消しゴムを机の隅に置き直し、書きかけの式に目を戻す。条件を整理し、数字を確かめる。途中式を省かずに重ねていく。隣から聞こえる筆記の音が、一定のリズムを刻んでいる。先ほどまでの騒がしさが嘘のように、自分の周囲だけが落ち着いた時間の中にある。転入してまだ間もない教室で、遠山の勢いと、永瀬の穏やかさ。その両方に挟まれながら、僕は静かに式の続きを(つづ)り進めた。


その後二時間目の国語の授業も問題なく終わり、再び休み時間に入る。椅子の脚が床を擦る音が広がる中、遠山がこちらへ向かってくるのが見えた。きっとまた勢いよく話しかけてくるのだろう。その瞬間、突然教室の後ろの扉が開く。

「琉生!」

 迷いのない声。反射的に振り向く。そこに立っていたのは、新田陽翔(にったはると)――前いた中学校で仲が良かったが、二か月前に転校していなくなった友人だった。
一瞬、現実味が薄れる。二か月前、突然の転校。詳しい事情は聞かなかったが、あまり踏み込まないまま別れた。中学に入ってからは何かと一緒にいることが多かった。陽翔は目立つ存在で、自然と人の輪の中心にいるようなやつだったが、強引さはない。大胆に見えて、案外周囲をよく見ている。困っている人間を放っておけないところもあった。
その陽翔が、今、釉浄中学校の教室の入口に立っている。数秒、言葉が出ない。陽翔は軽く顎を上げ、廊下を示した。僕は頷き、席を立つ。遠山の視線を背中に感じながら、教室を出た。

 扉が閉まると、ざわめきが一段遠のく。陽翔は手すりにもたれ、こちらを見て笑った。
「琉生がこの学校に転校してきたって聞いて来てみたけどマジだったのか...」
驚きと、どこか嬉しさが混じった声。
「どうしてここに」
問いかけると、陽翔は軽く肩をすくめる。
「俺、今ここ。二か月前に転校しただろ」
あっけらかんとした言い方だが、どこか照れが混じっている。あのときは急で、きちんと話す時間もなかった。それでも、今は以前と同じ距離感。二か月空いても、ぎこちなさはほとんどない。学校のことを少し話す。クラスの雰囲気、担任の印象。陽翔はところどころで笑いながらも、真面目に聞いている。
「急だったからさ。ちゃんと別れの挨拶もできなかったし」
不意に、低くなる声。僕は首を振った。それ以上の説明は求めない。陽翔も深くは語らない。ただ、目だけはまっすぐだった。

予鈴が鳴る。

「またあとでな、琉生」
「うん」

短く交わす。教室に戻ると、遠山が明らかに聞きたそうな顔をしている。永瀬は静かにこちらを見て、すぐに教科書へ視線を落とした。席に座りながら、胸の奥に残る小さな高鳴りを自覚する。昨日転校してきたばかりの学校で、二か月前に別れた友人と再会。
六月の光が、窓際の机を白く照らしていた。

六月の午後は、静かに熱を含んでいる。窓から差し込む光が机の縁を白く照らし、昨日転校してきたばかりの教室を、少しだけ柔らかく見せていた。六時間目の終わり、担任の声で机を寄せる。班ごとの話し合い。特別な内容ではないが、こうした時間が日常の輪郭をつくる。永瀬は椅子の脚を床に引きずらないように持ち上げ、静かに位置を整えた。落ち着いているが、気取ったところはない。相手が話しやすい余白を、自然に保てる人間だ。

「このくらいで大丈夫かな」

そう言って机の角を揃えたのは、水沢(みずさわ)莉央(りお)だった。――水沢は同じ班の女子で、明るくよく笑うが、声を張り上げるタイプではない。元気さの奥にどこか冷静さがあり、年相応より少し大人びた空気をまとっている。不思議と周囲を安心させる存在だ。彼女は全体を見渡し、プリントを中央に寄せる。
「先に目標から決めちゃおうか」
軽い調子だが、場を進める力がある。

「……ここ、記入欄が二つあるみたい」

控えめに指摘したのは立花(たちばな)結衣(ゆい)。――立花も同じ班の女子で、物静かだが視野が広い。強く主張はしないものの、必要なときに的確に言葉を添える。穏やかで、どこか芯のある優しさを持っている。彼女はプリントの端を揃えながら、視線だけで確認を促す。話し合いは淡々と進んだ。派手な意見は出ないが、どれも現実的だ。水沢が柔らかく方向を示し、立花が細部を整え、永瀬が過不足を補う。
「無理のない範囲で、って書いておけば続けやすいかも」
永瀬の一言は短いが、押しつけがましくない。水沢が小さく笑う。
「それ、大事だよね。六月って、なんかバランス崩しやすいし」
窓の外では運動部の掛け声が遠く響いている。季節は進んでいるのに、気持ちはどこか宙ぶらりんだ。立花がペンを走らせながら言う。
「焦らなくても、少しずつ慣れていけばいいと思う」
その声は小さいが、確かな重みがあった。昨日までいなかった自分が、こうして自然に席を囲んでいる。その事実が、ふと現実味を帯びる。水沢がこちらを見た。
「今日は、いろいろあったよね」
具体的な言葉は使わない。ただ、含みを残す。まあ、と曖昧に答えると、永瀬が穏やかに視線を上げる。
「環境が変わると、思ってるより疲れるからね」
事実を置くような言い方だった。机を元に戻す音が重なる。教室のあちこちで同じ動きが繰り返され、日常が再び整っていく。水沢が鞄を肩に掛ける。
「琉生、帰り、駅まで一緒に行く?」
さりげない提案。特別な約束ではない。ただの帰り道の共有。それでも、こうした小さな重なりが、教室という場所を形づくっていくのだと思う。六月の光はまだ強すぎない。四人で並んで廊下へ出ると、昨日よりもわずかに足取りが軽く感じられた。