雪中彼岸御身花開く

⑤月刊《怪異実話》追加企画 昭和61年11月発行
《特別検証》記者が泊まった「湖畔の老舗旅館」
― 噂は夜の廊下に棲むのか ―
月刊《怪異実話》特集取材班 記・沢渡省吾
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■午後三時、問題の宿へ
例の投稿が相次ぐ木造三階の宿に、編集部から「実地検証」の命が下った。湖を望む坂道を上がると、格子窓の連なる建物が現れる。パンフレットには歴史ある名旅館とあるが、読者はここを“夜が長すぎる宿”と呼ぶ。
帳場で記帳をすると、仲居が柔らかい笑顔で言った。
「古い家ですから、夜はよく鳴きますよ」
その言葉の意味を、このときはまだ深く考えなかった。
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■迷路のような廊下
案内された部屋は二階の角。磨き込まれた廊下は不思議な曲がり方をしており、歩くたびに床板が小さく息を吐く。投稿にあった**「誰もいないのに行き来する足音」**は、この構造から生まれる錯覚ではないか――そう仮説を立て、夕刻まで館内を歩き回った。
だが、廊下の突き当たりにある宴会場へ近づいたとき、妙な感覚に襲われた。舞台の黒い口がこちらを見ているようで、なぜか足が止まる。
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■夜九時・宴会場の検証
他の客が引けた後、許可を得て大広間に入った。舞台の上に録音機を置き、照明を半分落とす。投稿にあった**「舞を踏むような足音」**を確かめるためだ。
静寂が十分ほど続いたころ、確かに“トン…トン…”と乾いた音がした。だが方向が定まらない。天井か床下かも判別できず、同行のカメラマンと顔を見合わせた。
「建物が呼吸してるみたいだな」
彼の言葉が妙に胸に残った。
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■深夜一時・問題の時間帯
部屋に戻り、布団に横になる。投稿者S氏が体験したという**「誰かの往復」**を待つ。酒も飲まず、灯りだけを豆球にして耳を澄ます。
一時十五分。廊下側で、畳を擦るような音。最初は仲居かと思ったが、歩幅が一定すぎる。戸の前で止まり、また戻っていく。思い切って襖を開けると――誰もいない。
同時に身体が鉛のように重くなり、軽い金縛りに似た状態になった。時計は一時二十二分。記録ノートには「呼吸しづらい・甘い線香の匂い」と走り書きが残っている。
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■露天風呂の笛を追う
二時過ぎ、眠気覚ましに露天へ。湯に肩まで沈めたとき、山の方から確かに笛のような細い音が流れてきた。風か、電線か。だが旋律めいた抑揚がある。
宿直の番頭に尋ねると、
「昔は祭りの稽古で笛を吹いたそうですが、いまは誰も」
と言葉を濁した。裏手には小さな社があり、三年ごとにしか開かないという。投稿にあった“竜骨”の話を思い出した。
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■午前三時・廊下の影
取材も終盤、階段の踊り場で休んでいると、向こうから背の高い着物姿の男女らしき影が来た。顔は見えず、衣擦れだけが近づく。声を掛けようとした瞬間、影は曲がり角に溶けた。
追うと、そこは行き止まりの物置。誰もいない。カメラには何も写っていなかった。
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■朝、女将の言葉
翌朝、三代目女将に一夜の出来事を伝えると、湯呑を置いて静かに言った。
「この家は長く人を預かってきましたから、思い出が多すぎるのでしょう。悪さをするものではありませんよ」
否定も肯定もしない、その言い方がかえって現実味を帯びていた。
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■結論めいたもの
今回の検証で、すべてを合理的に説明することはできなかった。
•宴会場の不規則な足音
•深夜の往復する気配
•露天で聞いた笛
どれも決定的証拠には乏しいが、偶然とも言い切れない。少なくとも一つだけ確かなのは、この宿が人の記憶を濃く溜め込む器だということだ。
湖畔の老舗旅館――あなたが訪れるとき、夜の廊下で耳を澄ませてみてほしい。誰かが、まだ宴の続きを待っているかもしれない。
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取材メモ
•宿の構造は増改築を重ね迷路状
•裏手に小社あり、非公開の祭事
•従業員の多くが「音は日常」と証言
次号では、民俗学者による“宿と土地の記憶”を検証する。