③月刊 旅と湯けむり 昭和60年2月号掲載 東湖館 紹介記事
旅情にひたる大正浪漫の宿
熱志甫温泉 東湖館 ― 湖と山に抱かれた“時間の泊まる宿”
〈月刊 旅と湯けむり 昭和60年2月号掲載〉
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■木の回廊を抜けると、時代が一歩戻る
駅前の喧噪を離れ、車で十分ほど山あいへ入ると、格子窓の連なる木造三階建てが姿をあらわす。熱志甫温泉東湖館――大正初期創業のこの宿は、近ごろ失われつつある日本旅館の“骨格”をそのまま残している。
玄関の唐破風をくぐれば、磨き込まれた廊下が迷路のように続き、色硝子をはめた欄間、丸みを帯びた手すり、軋みさえ心地よい階段が旅人を奥へ奥へと誘う。まるで古い映画のセットに迷い込んだようだ。
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■竜骨の伝説を抱く湯
この温泉には、他所では聞けぬ物語がある。開湯の祖・佐藤貞平が湯元を掘削した折、地中から不思議な骨が現れたという。人々はそれを竜骨と呼び、裏手の神社に祀った。三年に一度だけ拝観が許されるその骨は、今も湯の守り神として静かに鎮座する。
大浴場の湯はやわらかく、湯口に耳を近づけると、地の底から息づくような音がする。地元の老人が「ここは生きた湯だ」と語った意味が、肌でわかる。
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■中庭に流れる静かな時間
客室から望む日本庭園は、この宿の心臓部だ。池の面を渡る風に、鯉が尾をひるがえし、夕刻になると行灯の灯が水面に揺れる。縁側に腰掛けていると、都会で巻き付いた時間の縄がほどけていく。
取材の折、庭の手入れをしていた番頭はこう言った。
「庭は毎日違う顔を見せます。お客さんも同じで、同じ宴会は二つとありません」
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■舞台付き大広間の賑わい
東湖館を語るうえで欠かせないのが、正面に舞台を備えた大宴会場だ。夜ともなれば、会社旅行の一団や地元の寄り合いが集い、三味線やカラオケの声が廊下にこぼれる。
東京から来た常連客は杯を傾けながら話してくれた。
「ここはね、ただ泊まる宿じゃない。知らない人と肩を組んで歌える宿なんですよ」
その言葉どおり、取材陣もいつしか輪に引き込まれ、気づけば舞台の上で手拍子を打っていた。
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■三代目女将の矜持
現在、宿を守るのは三代目女将・佐藤貞江さん。お国訛りでにっこりと笑う彼女は、祖父の代から続く帳場に立ち、客の顔をほとんど覚えているという。
「建物は古くなっけどもなぁ、人の気持ちは古びねぇ。お客さんが“ただいま”と言ってくれるような宿にすんなんねぇ。」
来年には近くにホテル仕様の新館が完成する予定だが、「本館の風情は俺の代で終わらせねぇ」と静かに語った。
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■旅人への小さな助言
訪れるなら、できれば日暮れ前に到着したい。格子窓に夕日が差し込む頃がもっとも美しいからだ。湯に浸かり、庭を眺め、夜は大広間の喧噪に身を任せる――それだけで、昭和の旅のぜいたくが味わえる。
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〈宿泊メモ〉
•1泊2食 8,800円より
•客室30室・収容120名
•大浴場・檜風呂・家族風呂
•舞台付大宴会場、喫茶、土産処
•駅より車7分(送迎あり)
熱志甫温泉 東湖館
電話 〇二四―〇〇〇―〇〇〇〇
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取材後記
原稿をまとめる夜、宿の廊下に遠く下駄の音が響いていた。消えかけたはずの日本の旅が、ここではまだ確かに息をしている――そんな実感を抱きながら、記者は次の町へ向かった。
■読者のたより
― 熱志甫温泉 東湖館だより ―
全国から寄せられたお便りの中から、東湖館にまつわる声をご紹介します。旅の思い出をお寄せくださった皆さま、ありがとうございました。(編集部)
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◇「父の背中を思い出す宿」
東京都・会社員 山口信一(42)
十月の出張帰りに一泊しました。廊下のきしむ音を聞いたとき、子どものころ家族旅行で泊まった宿の匂いがよみがえりました。宴会場の舞台で地元の方が民謡を歌っており、思わず父の背中を思い出しました。湯に浸かりながら、「日本はまだ大丈夫だ」と妙な安心を覚えた旅でした。
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◇「三年越しの竜骨拝観」
宮城県・主婦 佐々木とみ(57)
以前の記事で読んだ竜骨の話が忘れられず、拝観の年に合わせて夫婦で訪ねました。神社で見せていただいた骨は思ったより大きく、説明を聞くうちに背筋が伸びました。女将さんが「湯も生きものです」と話された言葉が印象的でした。また三年後に参ります。
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◇「新婚旅行のやり直し」
埼玉県・自営業 大木正・静江(63・60)
若いころ金がなく新婚旅行に行けなかった私たち。定年を機に、あのころ憧れた“絵に描いたような日本旅館”へ行こうと東湖館へ。庭を眺めながら飲んだ熱燗の味は、一生の宝物になりました。仲居さんが撮ってくれた写真、仏壇に飾っています。
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◇「子ども連れでも安心」
神奈川県・教員 松本明子(29)
二歳の娘を連れての初旅行で不安でしたが、家族風呂や広いお座敷があり助かりました。庭の鯉を見て娘が初めて“おさかな”と言いました。帰りの送迎バスで手を振ってくれた番頭さん、ありがとうございました。
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◇「雪の夜の不思議な音」
新潟県・学生 匿名希望
二月に友人と泊まりました。夜更け、廊下の奥から太鼓のような音が一度だけ聞こえ、翌朝聞くと誰も知らないと言うのです。少し怖くもあり、旅らしい思い出になりました。あれは湯の音だったのでしょうか。
*編集部より:古い木造の宿では、温度差で梁が鳴ることがあるそうです。ご安心を。
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◇「駅弁よりうまい朝めし」
大阪府・運転手 北村忠(50)
仕事で全国の宿に泊まりますが、東湖館の朝めしは三本の指に入る。味噌汁が熱く、米がつやつや。これだけでまた来ようと思わせる宿です。新館ができても、あの飯だけは変えんでほしい。
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編集後記
投稿の多くに「懐かしい」「また帰りたい」という言葉がありました。東湖館は観光名所というより、人の記憶をあたためる場所なのでしょう。次号では、女将さんに聞いた“宿の七不思議”を小さくご紹介する予定です。どうぞお楽しみに。
旅情にひたる大正浪漫の宿
熱志甫温泉 東湖館 ― 湖と山に抱かれた“時間の泊まる宿”
〈月刊 旅と湯けむり 昭和60年2月号掲載〉
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■木の回廊を抜けると、時代が一歩戻る
駅前の喧噪を離れ、車で十分ほど山あいへ入ると、格子窓の連なる木造三階建てが姿をあらわす。熱志甫温泉東湖館――大正初期創業のこの宿は、近ごろ失われつつある日本旅館の“骨格”をそのまま残している。
玄関の唐破風をくぐれば、磨き込まれた廊下が迷路のように続き、色硝子をはめた欄間、丸みを帯びた手すり、軋みさえ心地よい階段が旅人を奥へ奥へと誘う。まるで古い映画のセットに迷い込んだようだ。
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■竜骨の伝説を抱く湯
この温泉には、他所では聞けぬ物語がある。開湯の祖・佐藤貞平が湯元を掘削した折、地中から不思議な骨が現れたという。人々はそれを竜骨と呼び、裏手の神社に祀った。三年に一度だけ拝観が許されるその骨は、今も湯の守り神として静かに鎮座する。
大浴場の湯はやわらかく、湯口に耳を近づけると、地の底から息づくような音がする。地元の老人が「ここは生きた湯だ」と語った意味が、肌でわかる。
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■中庭に流れる静かな時間
客室から望む日本庭園は、この宿の心臓部だ。池の面を渡る風に、鯉が尾をひるがえし、夕刻になると行灯の灯が水面に揺れる。縁側に腰掛けていると、都会で巻き付いた時間の縄がほどけていく。
取材の折、庭の手入れをしていた番頭はこう言った。
「庭は毎日違う顔を見せます。お客さんも同じで、同じ宴会は二つとありません」
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■舞台付き大広間の賑わい
東湖館を語るうえで欠かせないのが、正面に舞台を備えた大宴会場だ。夜ともなれば、会社旅行の一団や地元の寄り合いが集い、三味線やカラオケの声が廊下にこぼれる。
東京から来た常連客は杯を傾けながら話してくれた。
「ここはね、ただ泊まる宿じゃない。知らない人と肩を組んで歌える宿なんですよ」
その言葉どおり、取材陣もいつしか輪に引き込まれ、気づけば舞台の上で手拍子を打っていた。
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■三代目女将の矜持
現在、宿を守るのは三代目女将・佐藤貞江さん。お国訛りでにっこりと笑う彼女は、祖父の代から続く帳場に立ち、客の顔をほとんど覚えているという。
「建物は古くなっけどもなぁ、人の気持ちは古びねぇ。お客さんが“ただいま”と言ってくれるような宿にすんなんねぇ。」
来年には近くにホテル仕様の新館が完成する予定だが、「本館の風情は俺の代で終わらせねぇ」と静かに語った。
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■旅人への小さな助言
訪れるなら、できれば日暮れ前に到着したい。格子窓に夕日が差し込む頃がもっとも美しいからだ。湯に浸かり、庭を眺め、夜は大広間の喧噪に身を任せる――それだけで、昭和の旅のぜいたくが味わえる。
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〈宿泊メモ〉
•1泊2食 8,800円より
•客室30室・収容120名
•大浴場・檜風呂・家族風呂
•舞台付大宴会場、喫茶、土産処
•駅より車7分(送迎あり)
熱志甫温泉 東湖館
電話 〇二四―〇〇〇―〇〇〇〇
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取材後記
原稿をまとめる夜、宿の廊下に遠く下駄の音が響いていた。消えかけたはずの日本の旅が、ここではまだ確かに息をしている――そんな実感を抱きながら、記者は次の町へ向かった。
■読者のたより
― 熱志甫温泉 東湖館だより ―
全国から寄せられたお便りの中から、東湖館にまつわる声をご紹介します。旅の思い出をお寄せくださった皆さま、ありがとうございました。(編集部)
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◇「父の背中を思い出す宿」
東京都・会社員 山口信一(42)
十月の出張帰りに一泊しました。廊下のきしむ音を聞いたとき、子どものころ家族旅行で泊まった宿の匂いがよみがえりました。宴会場の舞台で地元の方が民謡を歌っており、思わず父の背中を思い出しました。湯に浸かりながら、「日本はまだ大丈夫だ」と妙な安心を覚えた旅でした。
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◇「三年越しの竜骨拝観」
宮城県・主婦 佐々木とみ(57)
以前の記事で読んだ竜骨の話が忘れられず、拝観の年に合わせて夫婦で訪ねました。神社で見せていただいた骨は思ったより大きく、説明を聞くうちに背筋が伸びました。女将さんが「湯も生きものです」と話された言葉が印象的でした。また三年後に参ります。
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◇「新婚旅行のやり直し」
埼玉県・自営業 大木正・静江(63・60)
若いころ金がなく新婚旅行に行けなかった私たち。定年を機に、あのころ憧れた“絵に描いたような日本旅館”へ行こうと東湖館へ。庭を眺めながら飲んだ熱燗の味は、一生の宝物になりました。仲居さんが撮ってくれた写真、仏壇に飾っています。
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◇「子ども連れでも安心」
神奈川県・教員 松本明子(29)
二歳の娘を連れての初旅行で不安でしたが、家族風呂や広いお座敷があり助かりました。庭の鯉を見て娘が初めて“おさかな”と言いました。帰りの送迎バスで手を振ってくれた番頭さん、ありがとうございました。
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◇「雪の夜の不思議な音」
新潟県・学生 匿名希望
二月に友人と泊まりました。夜更け、廊下の奥から太鼓のような音が一度だけ聞こえ、翌朝聞くと誰も知らないと言うのです。少し怖くもあり、旅らしい思い出になりました。あれは湯の音だったのでしょうか。
*編集部より:古い木造の宿では、温度差で梁が鳴ることがあるそうです。ご安心を。
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◇「駅弁よりうまい朝めし」
大阪府・運転手 北村忠(50)
仕事で全国の宿に泊まりますが、東湖館の朝めしは三本の指に入る。味噌汁が熱く、米がつやつや。これだけでまた来ようと思わせる宿です。新館ができても、あの飯だけは変えんでほしい。
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編集後記
投稿の多くに「懐かしい」「また帰りたい」という言葉がありました。東湖館は観光名所というより、人の記憶をあたためる場所なのでしょう。次号では、女将さんに聞いた“宿の七不思議”を小さくご紹介する予定です。どうぞお楽しみに。


