記録の公開について――ここに残されたもの
本記録をここまで読み進めてくださった方へ。
まず、ここに記しておきたいのは、この文章がフィクションではない、という点です。少なくとも、私の手元に届いた資料は、実在する人物が書き残したものであり、実際に存在した出来事や場所を扱っています。
もちろん、その解釈や意味づけについては、読み手によって異なるでしょう。しかし、記録そのものは、確かに存在している。
ここまでの経緯を、あらためて整理しておきます。
大学時代の友人Aが、各地に残る資料を収集していた。
彼は、それらをまとめ、小包として新聞記者に送った。
記者は、資料を整理し、公開する形で記録を書き始めた。
しかし、その途中で記録は途切れ、彼自身も所在不明となった。
そして、その記録一式が、第三者である私の手元に届いた。
これが、現時点で確認できる事実です。
私は、この資料を受け取ってから、しばらく迷っていました。これをそのまま公開するべきか、それとも関係者の確認が取れるまで保留すべきか。
記録の中には、実在の地名や施設、出来事が含まれています。扱い方を誤れば、関係者に迷惑をかける可能性もあります。
しかし、同時に、この記録の中で繰り返し述べられていることがあります。
それは、「公開する」という意志です。
記者は、自分の文章の中で、何度も読者に呼びかけています。情報提供を求め、記録を共有し、もし当事者が読んでいるなら連絡してほしい、と。
つまり、この文章は、最初から読まれることを前提として書かれている。
その意図を尊重するなら、資料を閉じたままにしておくのは適切ではない。私はそう判断しました。
ここで、資料そのものについて、あらためて考えてみます。
獅子舞の伝承。
蔵から見つかった原稿。
温泉旅館の記録。
冷凍冷蔵倉庫の事案。
そして、音声記録。
いずれも、何かが起きたとされる場所の記録です。
しかし、どの資料にも共通しているのは、決定的な瞬間が記録されていないという点です。
誰かが消える。
だが、その瞬間を誰も見ていない。
中心が空白になっている。
最初にこの文章を読んだとき、私は、それを単なる記録の不備だと思いました。人の記憶は曖昧であり、出来事の細部が失われるのは当然のことです。
しかし、読み返すたびに、同じ構造が繰り返されていることに気づきます。
そして、もう一つ。
この記録を書いた記者自身も、途中から友人Aの顔を思い出せなくなっていく。
足取りを追っているはずの人物の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
そして、現実の世界でも、同じことが起きている。
私は、彼の顔をはっきりと思い出せない。
名前も、勤務先も、記録としては残っている。メールの履歴もある。しかし、顔だけがぼやけている。
これは、単なる記憶の問題でしょう。人間の記憶は、思っているよりも不確かです。
ですから、ここで怪異を持ち出すつもりはありません。
ただ、ひとつ、考えさせられることがあります。
もし、記録というものが、人の存在をつなぎ止める役割を持っているのだとしたら。
そして、その記録が途切れたとき、人の存在もまた、誰かの記憶から薄れていくのだとしたら。
この文章は、その逆の働きを持つのかもしれません。
つまり、読むことで、記録が更新される。
ここまで読んでいるあなたは、すでに、この記録の一部になっているのかもしれません。
少なくとも、いま、この文章を読んでいる間、Aという人物と、記者の存在を認識している。
それだけでも、記録は続いていると言えるでしょう。
もちろん、これは比喩です。
実際に何かが起きるわけではありません。
ですが、記録というものは、読まれることで意味を持つ。読まれなければ、存在していないのと同じになる。
そう考えると、この文章が誰かの目に触れている限り、彼らの存在は、完全には失われないのかもしれません。
私は、この資料を整理しながら、最後に一つの決断をしました。
この記録を、公開することにします。
誰かが、ここに書かれている場所や出来事に心当たりがあるかもしれない。
あるいは、失踪した人物について、何か情報を持っているかもしれない。
そうした可能性を残すためにも、記録は開かれているべきだと考えました。
ここまでが、私にできることです。
最後に、この文章を閉じるにあたり、ひとつだけ書き残しておきます。
もし、あなたの身近な場所に、「誰も近づかない場所」があるなら。
もし、さっきまでそこにいたはずの誰かの姿が、いつの間にか見えなくなっていたなら。
それは、きっと、どこかに行っただけです。
時間が経てば、また戻ってくる。
……たぶん。
これで、本記録は終わりです。
この文章は、ここで保存され、公開されます。
読まれた記録は残ります。
そして――
(以下、記録なし)
本記録をここまで読み進めてくださった方へ。
まず、ここに記しておきたいのは、この文章がフィクションではない、という点です。少なくとも、私の手元に届いた資料は、実在する人物が書き残したものであり、実際に存在した出来事や場所を扱っています。
もちろん、その解釈や意味づけについては、読み手によって異なるでしょう。しかし、記録そのものは、確かに存在している。
ここまでの経緯を、あらためて整理しておきます。
大学時代の友人Aが、各地に残る資料を収集していた。
彼は、それらをまとめ、小包として新聞記者に送った。
記者は、資料を整理し、公開する形で記録を書き始めた。
しかし、その途中で記録は途切れ、彼自身も所在不明となった。
そして、その記録一式が、第三者である私の手元に届いた。
これが、現時点で確認できる事実です。
私は、この資料を受け取ってから、しばらく迷っていました。これをそのまま公開するべきか、それとも関係者の確認が取れるまで保留すべきか。
記録の中には、実在の地名や施設、出来事が含まれています。扱い方を誤れば、関係者に迷惑をかける可能性もあります。
しかし、同時に、この記録の中で繰り返し述べられていることがあります。
それは、「公開する」という意志です。
記者は、自分の文章の中で、何度も読者に呼びかけています。情報提供を求め、記録を共有し、もし当事者が読んでいるなら連絡してほしい、と。
つまり、この文章は、最初から読まれることを前提として書かれている。
その意図を尊重するなら、資料を閉じたままにしておくのは適切ではない。私はそう判断しました。
ここで、資料そのものについて、あらためて考えてみます。
獅子舞の伝承。
蔵から見つかった原稿。
温泉旅館の記録。
冷凍冷蔵倉庫の事案。
そして、音声記録。
いずれも、何かが起きたとされる場所の記録です。
しかし、どの資料にも共通しているのは、決定的な瞬間が記録されていないという点です。
誰かが消える。
だが、その瞬間を誰も見ていない。
中心が空白になっている。
最初にこの文章を読んだとき、私は、それを単なる記録の不備だと思いました。人の記憶は曖昧であり、出来事の細部が失われるのは当然のことです。
しかし、読み返すたびに、同じ構造が繰り返されていることに気づきます。
そして、もう一つ。
この記録を書いた記者自身も、途中から友人Aの顔を思い出せなくなっていく。
足取りを追っているはずの人物の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
そして、現実の世界でも、同じことが起きている。
私は、彼の顔をはっきりと思い出せない。
名前も、勤務先も、記録としては残っている。メールの履歴もある。しかし、顔だけがぼやけている。
これは、単なる記憶の問題でしょう。人間の記憶は、思っているよりも不確かです。
ですから、ここで怪異を持ち出すつもりはありません。
ただ、ひとつ、考えさせられることがあります。
もし、記録というものが、人の存在をつなぎ止める役割を持っているのだとしたら。
そして、その記録が途切れたとき、人の存在もまた、誰かの記憶から薄れていくのだとしたら。
この文章は、その逆の働きを持つのかもしれません。
つまり、読むことで、記録が更新される。
ここまで読んでいるあなたは、すでに、この記録の一部になっているのかもしれません。
少なくとも、いま、この文章を読んでいる間、Aという人物と、記者の存在を認識している。
それだけでも、記録は続いていると言えるでしょう。
もちろん、これは比喩です。
実際に何かが起きるわけではありません。
ですが、記録というものは、読まれることで意味を持つ。読まれなければ、存在していないのと同じになる。
そう考えると、この文章が誰かの目に触れている限り、彼らの存在は、完全には失われないのかもしれません。
私は、この資料を整理しながら、最後に一つの決断をしました。
この記録を、公開することにします。
誰かが、ここに書かれている場所や出来事に心当たりがあるかもしれない。
あるいは、失踪した人物について、何か情報を持っているかもしれない。
そうした可能性を残すためにも、記録は開かれているべきだと考えました。
ここまでが、私にできることです。
最後に、この文章を閉じるにあたり、ひとつだけ書き残しておきます。
もし、あなたの身近な場所に、「誰も近づかない場所」があるなら。
もし、さっきまでそこにいたはずの誰かの姿が、いつの間にか見えなくなっていたなら。
それは、きっと、どこかに行っただけです。
時間が経てば、また戻ってくる。
……たぶん。
これで、本記録は終わりです。
この文章は、ここで保存され、公開されます。
読まれた記録は残ります。
そして――
(以下、記録なし)


