雪中彼岸御身花開く

獅子舞奇譚――資料を読んだ後で、私が考えたこと

読者諸氏の皆々様!!ー

予定通り、本章では、先に公開した資料のうち最初のもの、すなわち「獅子舞奇譚」に関する文書について、私なりの整理と見解を記しておきます。
資料そのものは、前章の告知通り、原文をそのまま掲載しておりますので、ここでは繰り返しません。まだ目を通していない方は、先にそちらをご覧いただくことを強くおすすめします。順番というものは、大事ですから。ええ、本当に。

さて。
あの資料を読んだとき、私は正直に言って、少し拍子抜けしました。もっと直接的に恐ろしい話、たとえば化け物が出るとか、血なまぐさい事件が起きるとか、そういったものを想像していたからです。ところが実際には、淡々とした記録でした。祭りの準備、舞い手の動き、集まった人々の様子。そして、その後に「いなくなった」とだけ記される人物。

そこには、叫びも悲鳴もありません。
ただ、「消えた」という事実だけが書かれている。

記者としての私は、まずここに引っかかりました。
普通、人がいなくなれば騒ぎになります。捜索願が出され、警察が動き、近所の人々が心配し、新聞の片隅にでも載る。しかし、この資料には、そういった痕跡がほとんど見当たりません。まるで、「そういうこともある」と皆が受け入れているかのようなのです。

私は実際に、この地域の過去の記事をいくつか調べてみました。地方紙の縮刷版や、自治体の記録にも目を通しました。しかし、祭りの夜に誰かが行方不明になったという明確な記事は見つかりませんでした。もちろん、すべての出来事が記事になるわけではありませんし、昔の記録は残っていない場合もあります。ですから、それだけで断定はできません。ですが、それでも、何か妙な感じが残ります。

資料の中で印象的だったのは、「舞っていた女性が、いつの間にかいなくなっていた」というくだりです。
誰が最後に見たのか。
どこで姿を見失ったのか。
そうした具体的な情報は、ほとんど書かれていません。ただ、気づいたときにはいなかった、とだけある。

これは、現代の感覚からすると、ずいぶんと曖昧な記述です。
しかし、考えてみれば、祭りというものは、もともとそういう場所なのかもしれません。人が集まり、音が鳴り、酒が入り、踊り、騒ぎ、誰がどこにいるのか分からなくなる。子どものころ、私も縁日の人混みで親とはぐれかけたことがあります。一瞬、視界から消える。それだけで、人は「いなくなった」と感じる。

つまり、実際にはどこかへ帰っただけなのかもしれない。
あるいは、誰にも告げずに、その場を離れただけ。
理屈としては、そう説明できるはずです。

ところが、この資料には、そうした「合理的な説明」がほとんど書かれていません。代わりにあるのは、「昔からそういうことがある」という語り口です。
これが、どうにも気にかかります。

私は、この資料を書いた人物が、意図的に詳細を省いた可能性を考えました。つまり、事件として扱うのではなく、あくまで伝承として記録するために、余計な説明を削ったのではないか、と。民俗学の記録などでは、こうした手法が取られることもあります。

しかし、もう一つの可能性もあります。
書き手自身が、「何が起きたのか分かっていなかった」という可能性です。

祭りの最中、誰かが消えた。
だが、どの瞬間に、どこで、どうやっていなくなったのか、誰もはっきり覚えていない。
人が多すぎて、音が大きすぎて、夜で、酔っていて、誰も注意していなかった。
気づいたときには、もういなかった。

この「気づかなさ」が、私は妙に怖いと感じました。
怪物が出てくるよりも、よほど現実的です。私たちは、普段から多くのことを見落としています。電車で隣に座っていた人の顔を、数分後には思い出せないことだってある。昨日すれ違った人を、今日もう一度見ても気づかない。そういうことは、日常茶飯事です。

つまり、人が消えるというのは、案外、難しいことではないのかもしれません。
ただ、「いなくなった」と認識されるだけで。

さて。
ここで、私個人の感想を少し書きます。

資料を読んでいる途中、私は何度かページを戻りました。
どこかに、重要な一文を読み落としているのではないかと思ったからです。しかし、戻って読み直しても、特別なことは書かれていない。ただ、同じ文章があるだけです。

それなのに、どうにも落ち着かない。
理由は、たぶん、「中心」が書かれていないからです。

祭りの描写はある。
人々の様子もある。
舞いの流れも書かれている。
しかし、「何が起きたのか」という核心部分が、ぽっかり抜け落ちている。

私は、この感覚をどこかで経験したことがあります。
そう思って、しばらく考えました。そして、ようやく思い出しました。取材で事件現場に行ったときのことです。

現場には、多くの人が集まります。警察官、野次馬、近所の住人。皆、それぞれ何かを見ています。しかし、誰も「決定的な瞬間」を見ていない。後から話を聞くと、「気づいたらそうなっていた」としか言わない。
出来事の周囲は記録されているのに、中心だけが空白になっている。

この資料も、同じ構造をしているように思えます。
周囲は詳細なのに、真ん中がない。

もう一つ、気になる点があります。
資料には、祭りのあと、人々がその出来事についてあまり語らなくなる様子が、さりげなく書かれています。話題にしない、触れない、思い出さない。
これは、日本の地方社会では、珍しいことではありません。面倒なこと、縁起の悪いことは、なるべく口にしない。そうしているうちに、出来事そのものが曖昧になっていく。

つまり、消えたのは人間だけでなく、記憶でもあるのです。

ここまで書いて、私はふと、Aのことを思い出しました。
彼は、なぜこの資料を私に送ってきたのでしょうか。
単なる怪談の蒐集であれば、わざわざ私に託す必要はありません。インターネットに公開すれば済む話です。

もしかすると、彼は、この資料のどこかに、別の意味を見出していたのかもしれません。祭りの伝承そのものではなく、その「抜け落ち方」に。
つまり、何が起きたかではなく、なぜ誰もそれを覚えていないのか、という点に。

少し、話が逸れました。
話を戻します。

この資料を読んで以来、私は、あることを意識するようになりました。それは、「人がいなくなる瞬間」というものについてです。
街を歩いているとき、電車に乗っているとき、ふと、さっきまで近くにいた人の姿が見えなくなっていることがあります。もちろん、その人はどこかへ移動しただけです。ですが、一瞬、「消えた」と感じる。

そういう小さな感覚の積み重ねが、やがて伝承になるのではないでしょうか。
誰かがいなくなった。
でも、誰もはっきりとは覚えていない。
だから、「昔からそういうことがある」という話になる。

……いま、こうして書いていて、少し妙な気分になっています。
なぜなら、Aのことも、同じように感じ始めているからです。

彼は確かに存在していました。
同じ教室に座り、同じ講義を受け、同じ場所で酒を飲んだ。
それなのに、ここ数日、その記憶が少しずつ遠のいているような気がします。顔が、はっきり思い出せない。声も、ぼんやりしている。

おかしいですね。
数週間前までは、普通に会話していたはずなのに。

……まあ、疲れているだけでしょう。
仕事も立て込んでいますし、寝不足なのも事実です。
気にするほどのことではありません。

最後に、ひとつだけ。
もし、この資料を読んで、同じような感覚を覚えた方がいれば、ぜひ教えてください。
「中心がない」と感じたかどうか。
それとも、何も感じなかったか。

どちらでも構いません。
記録は、多い方がいいのですから。

次章では、蔵から発見された原稿について取り上げます。
これもまた、少し奇妙な記録です。

それでは、いったんここまでとします。
読者諸氏の皆々様。
どうか、離れずに。

まだ、始まったばかりですから。