第1章
第2章獅子舞奇譚
獅子舞の昔話
昔話その一
「猪苗代の亀姫と三つ獅子のはなし」
これは、今から八百年以上も昔の話だ。
そのころは源平の世で、日本じゅうが血なまぐせぇ騒ぎだったと。
会津の外れ、山深ぇ土地さ陣を張って、なかなか先へ進めねぇ武将がいた。
名ぁ源義武(みなもとの・よしたけ)っちゅう御仁だ。
腕も度胸も人並み以上だったが、安部氏っちゅう地方豪族が手強くてな、地の利を生かされて攻めあぐねてたんだと。
日ィは削られ、兵は疲れ、陣中は重苦しぐてよ。
夜になると、獣の声か風の音か分がんねぇもんが、山ぁからずっと聞こえてきて、誰一人ぐっすり寝れねぇ日が続いでだ。
そんだある晩のこった。
義武がようやく浅ぇ眠りに落ぢたころ、
――すうっと、冷てぇ風が幕の中さ入り込んできてな。
気配に目ぇ開げると、枕元さ女ぁ立ってた。
歳ぁ二十そこそこに見える、白ぇ肌の美しい女で、
長ぇ黒髪ぁ濡れたみてぇに背中さ張り付いで、
着物の裾ぁ、雫ぁ垂らしてた。
「……誰だ」
義武が声ぁ絞り出すと、女ぁにこりとも笑わねぇで、静がにこう言ったと。
「わだすは亀姫。
猪苗代の水さ棲むもんだ」
声ぁやけに澄んでて、耳の奥さ残る響ぎだったど。
亀姫ぁ続けだ。
「明日、湖の袂で、獅子を舞わせれ。
三つで一つの獅子だ。
それを舞わせれば、この戦、必ず勝づ」
そう言ったきり、女ぁふっと薄ぐなって、
気づいた時にゃ、そこには誰もいねぇ。
夢だったんだべか、と義武ぁ思った。
だがな、
枕元ぁ見ると、畳の上に水に濡れた足跡ぁ残ってたんだ。
それも、一つ二つでねぇ。
幕の外、陣の外まで、ずうっと続いでだ。
義武ぁ背中さ、ぞわりとしたもんぁ感じたが、
不思議と恐ろしさより、胸の奥がざわつぐ感覚の方が強がったっちゅう。
翌朝、義武ぁ供ぁ数人連れて、陣ぁ出ただ。
亀姫の言葉ぁ、夢だど切り捨てるにゃ、あんまり生々しすぎた。
山道ぁ進んでるうち、空ぁ急に曇ってきて、
雨ぁぽつぽつ落ぢてきた。
「雨宿りすっぺ」
そう思って道ぃ外れだ所さ入っていぐと、
苔むした小さな社ぁあった。
屋根ぁ傾ぎ、柱ぁ朽ちかけで、
人の気配ぁまるでねぇ古社だ。
中ぁ覗いで、義武ぁ息ぁ呑んだ。
社の奥さ、獅子頭が三つ、並んで祀られてた。
黒々とした毛ぁびっしり生えで、
目ぇぁぎょろりと見開いで、今にも動ぎ出しそうでな。
口ぁ大きぐ裂けて、歯ぁ白ぐ光ってら。
それぞれに、長ぇ布ぁ付いでて、
三つで一体になって舞う作りだど、ひと目で分がった。
「……これだべ」
義武ぁ、そう呟いだ。
衣装ぁ手ぇ取ると、妙に重てぇ。
濡れた獣の皮みてぇな匂いぁして、
触ると、まだ生きでるみてぇに、ぬるりとしでだ。
供ぁ最初は怖がったが、
義武ぁ命じで、三人一組で獅子ぁ被らせた。
猪苗代湖の袂、
霧ぃ立ち込める浅瀬で、
その獅子舞ぁ奉納された。
太鼓も笛もねぇ。
ただ、風と水音だけの中でな。
獅子ぁ、
ぎしり、ぎしりと首ぁ振って、
地面ぁ踏み鳴らしながら舞い出した。
黒ぇ毛ぁ水さ濡れて、
獅子の目ぇぁ、霧の中でぎらぎら光ってよ。
裂けた口ぁ、笑ってるようでもあり、
何か叫ぼうとしてるようでもあった。
舞ぁ続ぐうぢ、
空ぁにわかに荒れて、雷ぁ鳴り出した。
雨ぁ叩ぎつけるように降って、
霧ぁ一気に深ぐなって、
数歩先も見えねぇほどになった。
その時だ。
獅子の中から、
人の声でねぇ声ぁ、低ぐ響いだっちゅう。
誰が喋ってるのか、分がんねぇ。
だど、確かに聞こえだ。
「――今だ」
義武ぁ、はっとして、
これぁ好機だど悟った。
霧ぁ味方につけて、
そのまま安部氏の陣中さ雪崩れ込んだ。
敵ぁ混乱し、
どっから攻められてるのか分がんねぇまま、
次々と討たれだ。
義武軍ぁ勢いづいで、
ついに安部氏ぁ打ち破った。
戦ぁ終わって、
義武ぁ再び湖さ戻ったが、
獅子舞の衣装も獅子頭も、
あの社も、影も形もねがった。
ただ、湖面さ、
大きな波紋ぁ一つ広がって、
ゆっくり消えていっただけだったっちゅう。
その晩、義武ぁ夢ぁ見た。
湖の中さ、
黒ぇ獅子が三つ首ぁ寄せ合って沈んでて、
その前さ、亀姫ぁ立ってた。
「獅子ぁ、人の世さ長ぐ留まるもんでねぇ。
だど、忘れられねぇ限り、また舞う」
そう言って、
亀姫ぁ水の中さ消えだ。
それから後、
会津のあちこちで、三匹一体の獅子舞ぁ舞われるようになった。
黒々とした毛、
ぎょろりとした目、
大きぐ裂けた口――
あれぁ、ただの飾りでねぇ。
今でもな、
霧ぃ濃ぇ夜に獅子舞ぁ出ると、
水音ぁ混じって、
人でねぇ足音ぁ聞こえることぁあるっちゅう。
「獅子ぁ見だら、目ぇ逸らすな」
年寄りぁ、今もそう言う。
目ぇ合ったまま、
最後まで舞ぁ見届けねぇと、
次ぁ、自分が連れていがれるど――。
――そう、語り継がれてる話だ。
――猪苗代湖の三匹獅子のこと――
これは今から四百年以上も前、天正年間の頃の話だと、会津の古老らは語ってきた。
正確な年は誰も覚えちゃいねえ。ただ、「あの年を境に、村の顔ぶれががらりと変わった」と、みな口を揃えて言う。
その年、会津一帯は、これまでにねえほどの大洪水に見舞われた。
春先から降り続いた雨が止まず、山の雪代も一気に出て、川という川が牙を剥いた。
阿賀川は堤を越え、日橋川も氾濫し、
田んぼも畑も、あっという間に水の下さ沈んだ。
黄金色になるはずだった稲は、
まだ青いうちに根こそぎ倒され、
桑畑も、蕎麦畑も、何もかも流されちまった。
「今年は終わりだ」
「来年まで、食うもんがもたね」
そう言って嘆く声が、村々に満ちた。
だが、災いはそれだけで終わらなかった。
洪水が引いた直後から、今度は疫病が流行り出した。
腹を下し、熱にうなされ、三日と持たずに息を引き取る者が続出した。
村の端から順に、
まるで刈り取られるように人が死んでいった。
朝、隣の家の煙が立たねえと思ったら、
昼にはもう、死人が三つ四つ並んでいる。
坊主も追いつかねえ。
棺を作る木も足りねえ。
「これはもう、人の力じゃどうにもならねえ」
誰もが、そう思い始めていた。
このままでは、会津という土地そのものが潰れる。
そう危ぶんだ当時の藩主は、ついに神頼みにすがることにした。
向かった先は、
会津一宮――伊佐須美神社。
代々、徳が高えとされ、
土地の災いを鎮めてきた社であった。
藩主は身を清め、
三日三晩、社に籠もって祈りを捧げたという。
すると、三日目の夜半。
神官の前に、神託が下りた。
――猪苗代湖のほとりにて、
――三匹一体の獅子をもって舞を奉れ。
――三日三晩、休むことなく舞い続けよ。
――それ成れば、水も病も、やがて鎮まろう。
神官は、その言葉を一言も違えず藩主に伝えた。
問題は、その三匹一体の獅子舞だった。
それは、ただの舞ではねえ。
古くから会津に伝わる、彼岸獅子――
三匹で一つの獅子を成す、異様な舞であった。
獅子頭は黒塗りで、
毛は夜の闇みてえに黒々としており、
目はぎょろりと見開かれ、
まるで生き物のようにこちらを睨みつける。
大きく裂けた口からは、
今にも人を噛み殺しそうな歯が覗き、
近くで見ると、子どもなど泣き出すほどの迫力があった。
三匹の獅子は、
前足、胴、後ろ足を分け合い、
一体となってうねるように舞う。
一人でも欠ければ、
獅子は獅子でなくなる。
その舞を、三日三晩、休みなく――
それは、人の身でできる所業ではねえ。
だが、藩主は覚悟を決めた。
会津中から、
「獅子を担える男」を探させた。
そして、選ばれたのが、次の三人だった。
一人目。
楢原の玄蕃(ならはらの げんば)。
会津きっての力持ちで、
米俵を二つ三つ、軽々と担ぐ男だった。
体もでかく、骨太で、
村じゃ「熊みてえな男」と言われていた。
二人目。
和田町の晋左衛門(しんざえもん)。
溝口派一刀流の師範で、
剣の腕は折り紙付き。
姿勢が良く、
一挙手一投足が、まるで舞のように美しかった。
三人目。
そして――
小原荘助(おはらの そうすけ)。
この男だけは、
誰もが首を傾げた。
背はひょろりと高いが、
力もねえ、剣も使えねえ。
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、
働くより、ぶらぶらしている姿しか見たことがねえ。
「なんで、あいつだ?」
「獅子舞を舐めてんのか?」
そんな声が、あちこちから上がった。
だが、選定に関わった神官は、
こう言って譲らなかったという。
「三匹目は、力でも技でもねえ」
「命を軽く扱う男でなければならぬ」
意味は、誰にも分からなかった。
三人は、藩主の命を受け、
猪苗代湖のほとりに集められた。
湖は、異様なほど静かだった。
普段なら波立つ水面が、
鏡のように空を映している。
まるで、
何かを待っているようだった。
獅子頭が据えられ、
黒々とした毛皮が被せられる。
中に入ると、外の光はほとんど遮られ、
獅子の目の穴から、わずかに景色が見えるだけだった。
太鼓が鳴った。
――ドン。
三匹の獅子が、
ゆっくりと動き出した。
一日目。
玄蕃の動きは、力強かった。
地を踏み鳴らし、
獅子はまるで生きているように躍動した。
だが、日が沈み、
夜半を過ぎた頃。
玄蕃の呼吸が荒くなり、
足取りが乱れ始めた。
獅子の中で、
大きな体が、ぐらりと傾く。
――ドサリ。
太鼓の音が止まった。
玄蕃は、
獅子頭の中で、泡を吹いて倒れていた。
力尽きたのだ。
二人が必死に呼びかけたが、
玄蕃はそのまま動かなくなった。
一日目にして、
一匹が欠けた。
だが、舞は止められねえ。
玄蕃の分を、
晋左衛門と荘助が補い、
二人で無理やり獅子を動かした。
二日目。
晋左衛門の動きは、正確だった。
剣を扱う身ゆえ、
足運びが乱れねえ。
だが、夜明け前。
疲労で感覚が鈍ったのか、
獅子舞用の刀に足を取られた。
――ガクン。
次の瞬間、
晋左衛門は前のめりに倒れ、
そのまま起き上がらなかった。
首を、
変な角度に折っていたという。
獅子の中で、
また一人、動かなくなった。
残ったのは、
小原荘助、一人だけだった。
誰もが、
「もう終わりだ」と思った。
だが、荘助は、
獅子頭を外さなかった。
「……まだだ」
そう呟いたと、
そばにいた者は語っている。
三日目。
荘助は、一人で獅子を舞わせた。
三匹一体の獅子を、
たった一人で。
動きは、情けねえほど頼りなかった。
ひょろひょろと、
今にも倒れそうな舞。
だが、
獅子は――
確かに、動いていた。
湖の水面が、
ゆらりと揺れた。
誰も触れてねえのに。
夜になると、
獅子の口から、
獣のような息遣いが聞こえたという。
それが、荘助のものだったのか、
それとも――
獅子そのもののものだったのか。
三日三晩。
荘助は、
一度も舞を止めなかった。
太鼓が止まり、
獅子が動きを止めたとき。
荘助は、
獅子の中で、笑っていたという。
泣いていたという話もある。
翌日から、
不思議なことが起きた。
洪水は、完全に引いた。
疫病も、嘘のように収まった。
田畑は、
以前よりも作物がよく育ち、
人々は、少しずつ戻ってきた。
人は言った。
「小原荘助のおかげだ」
「命を軽く扱う男だからこそ、
神に近づけたんだ」
だが――
その後、荘助の姿を見た者は、
誰もいなかった。
猪苗代湖のほとりで、
黒い獅子が、
今も三匹で舞っているのを見た、
という者がいる。
それが人か、
獅子か――
それを確かめた者は、
一人も、生きて戻っちゃいねえ。
■ 獅子さまの影
――会津の古ばなし――
あれはなぁ、まだ江戸さ終わっちまうか終わんねぇか、ちょうど境目のころだったと。
わしのひいじさまの、そのまたじさまが若ぇ衆だった時分の話だっていうから、もう百五十年も二百年も前のこったべな。
会津はな、あんとき地獄みてぇなありさまだった。
戊辰の戦だ。
白虎隊だの娘子隊だのって、いまじゃ立派な話になってるけんじょも、ほんとのところは、そんげ綺麗なもんでねぇ。
城さ籠もった人らは、大人も子どもも、男も女もねぇ。
鍬でも鎌でも鉄砲でも、持てるもんはなんでも握って、必死こいで戦ってたんだと。
城下は火の海。
米は尽きる、水もろくに飲めねぇ。
怪我人は増えるばっかりで、薬も足りねぇ。
泣く声と鉄砲の音とが一緒くたになって、昼だか夜だかもわがらねぇ。
会津の御殿様――松平さまも、そりゃあ胸さ痛めておられたんだべ。
ほんである日、御殿様はひとりの家臣さ使いを出した。
名をな、佐瀬与一郎っていう、腕の立つお侍だったと。
剣も鉄砲も達者で、人望もあって、「あの人がいねぇど城は持たねぇ」って言われるほどの男だったんだど。
けんじょ、与一郎はそのとき城の外にいた。
味方の陣さ回って、援けを集めてた最中だったんだな。
ところが新政府軍は、城のまわりをぐるりと取り巻いて、蟻一匹も通さねぇ勢いだ。
昼間は鉄砲の目、夜は松明の目。
どっからどう見ても、戻る道なんぞねぇ。
「こいじゃあ、いくら与一郎さまでも無理だべ」
「見つかりゃ、ひとたまりもねぇ」
みんな首さ横に振った。
そのときだ。
若ぇ衆のひとりが、ぽつりと言ったんだと。
「……獅子舞、使えねぇべか」
最初は誰も相手にしなかった。
こんな戦の最中に獅子舞だなんて、ふざけてると思ったんだべ。
けんじょ、その若ぇ衆は真剣だった。
「むかしからよ、会津の獅子は、災い払うって言われでんべ。
祭んときは敵味方ねぇ、獅子さ通すのが習わしだ。
新政府軍だって人間だ。縁起は気にすっぺ」
その話を聞いた年寄りが、ふっと顔さ上げた。
「……たしかに、昔、殿さまが江戸さ行ぐときも、獅子が道開いたって話ぁあったな」
与一郎は腕組んで、しばらぐ考えた。
そして、腹ぁ決めたんだと。
「やってみっぺ。
どうせ死ぬなら、獅子さ背負って死んだほうが会津の男らしい」
そうして始まったのが、あの“獅子もぐり”だ。
________________________________________
獅子頭はな、村の鎮守から借りてきた。
黒ぐて、毛ぁもじゃもじゃで、目ん玉ぎょろっとして、口ぁ耳まで裂けてる。
会津彼岸獅子っていう、三匹一体のやつだ。
舞い手は三人。
与一郎と、足軽の喜三郎、ほんで若ぇ衆の弥平。
みんな命ぁ捨てる覚悟だった。
夜明け前、霧が出た日を選んでな、
太鼓ひとつ、笛ひとつ、鈴ひとつ。
ほんのささやかな行列で、城さ向かったんだと。
トン、トン、と太鼓が鳴る。
ヒョロロ……と笛が鳴る。
獅子の口が、かくん、かくんと開いて閉じる。
新政府軍の見張りは、最初きょとんとしたんだと。
「なんだ、ありゃ」
「祭でもねぇのに、獅子だど?」
銃口がこっちさ向く。
けんじょ、撃たねぇ。
獅子は神さの使いだって、どこでも思われでっからな。
与一郎らは、何食わぬ顔で舞い続けた。
怖くて足ぁ震えでも、止めらんにぇ。
止めた瞬間、鉄砲玉が飛んでくる。
トン、トン。
ヒョロロ……。
獅子はまるで生ぎでるみてぇに、首さ振った。
毛ぁ風に揺れて、目ん玉が火さ映って光った。
そのうち敵の中から、こんな声ぁ上がったんだと。
「……通してやれ」
「縁起わりぃ。獅子さ止めっと祟られっぞ」
誰が言い出したかはわがらねぇ。
けんじょ、その一言で道ぁ開いた。
与一郎たちは、舞いながら、じりじり城さ近づいた。
足ぁもう感覚ねぇ。
背中は汗でびっしょり。
それでも獅子だけは、笑ってるみてぇに口ぁ開けてた。
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城の門さ見えたとき、喜三郎が泣いたんだと。
「与一郎さま……生きて戻れた……」
けんじょ、まだ終わりでねぇ。
最後の関門は門番だった。
「止まれ! 何者だ!」
与一郎は獅子の腹ん中から、低ぐ声ぁ出した。
「会津の獅子舞だ。
御殿様の御加護さ届けに来た」
門番はしばらぐ迷ってたが、やがて門ぁ開けた。
その瞬間、三人は転がるように城さ入ったんだと。
こうして作戦は大成功。
家臣も家来も、みんな無事だった。
人らは言った。
「獅子さまが守ってくださった」
「会津はまだ見放されでねぇ」
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けんじょな。
この話には、続きがあんだ。
城さ入った晩、与一郎は獅子頭ば外そうとした。
ところが、どうしても外れねぇ。
紐もほどけてる。
金具もゆるい。
なのに、ぴったり頭さ張りついて、びくともしねぇ。
喜三郎が言った。
「与一郎さま……目ぇ、赤ぐなってます」
鏡さ映したらな、
獅子の目と、与一郎の目が、同じ色になってたんだと。
その夜から、与一郎は人が変わった。
飯ぁ食わねぇ。
水も飲まねぇ。
ただ、口ぁぱくぱくさせて、獅子みてぇに歯ぁ鳴らす。
三日目の夜、
与一郎は城の石垣から、ふっと消えた。
探しても探しても、見つかんねぇ。
ただ堀のそばさ、獅子の毛だけが、ひと束落ちてた。
________________________________________
それからだと。
戦が終わっても、城下さときどき、獅子の足音がしたっていうのは。
トン、トン。
ヒョロロ……。
誰も舞ってねぇのに、夜中に太鼓が鳴る。
門の外さ、黒い影が立ってる。
あれは与一郎だべか。
それとも、はなっから獅子だったんだべか。
わしらにゃ、わがらねぇ。
ただひとつ言えるのは――
会津はな、
人だけで戦ったわけでねぇ、ってこった。
獅子さまも、あの戦の中さ、確かにいたんだとよ。
【若松支局報】
去る十六日夜、東山村観音堂前にて執行されたる盂蘭盆の踊の最中、花笠を戴きて輪に加はり居りし同村字荒屋敷の農家の娘、**おきぬ(二十歳)**が、何人も気づかぬ間に姿を消し、いまだ行方知れずとなりて、村内はもとより近在一帯、物情騒然たる有様を呈せり。
当夜は薄曇りにて風もなく、例年の如く太鼓笛の音賑はしく、老若男女およそ百余名が踊りの輪を作り居りしが、九つ時(午後九時)過ぎ、花笠組の列に空き生じ、隣に居りし娘おはるが「おきぬの姿見えず」と騒ぎ出したるに始まる。
地元駐在巡査小泉氏の談によれば、
「踊の最中に外へ出たる者あらば必ず目につく筈なれど、誰一人として見たる者なし。下駄も手拭もそのままに、まるで風に吹かれし如く消え失せたり」
とのことにて、事件の不可解なること甚だし。
●当夜の模様 目撃者語る
踊に加はり居りし近所の老女**とめ(六十五)**は本紙記者に次の如く語れり。
「おきぬは赤き花笠に白地の浴衣、いつもの通りであった。輪の中ほどに居たが、太鼓が一段と早くなった折、ふと影が薄うなったやうに見えた。気のせいと思ひしが、次の拍子にはもう居らなんだ。
まるで獅子の口に呑まれたやうで、ぞっとした」
また、青年団員**佐七(二十三)**の証言。
「人垣は二重三重、外へ抜ける隙など無かった。誰かが連れ出したなら必ず声が上がる筈。自分は一間ほど後ろに居たが、ただ笛の音が急に遠くなり、風が一つ通ったやうに覚ゆ」
村人らは総出にて裏山、川原、墓地に至るまで捜索したるも、草履一つ見つからず。翌朝よりは若松警察署より刑事三名派遣され、聞き込み及び周辺の検分に当たれど、手掛り皆無なり。
●家族の嘆き
おきぬの父**庄作(四十八)**は蒼白の面持ちにて語る。
「娘はおとなしく、恨みを買ふ覚えもなし。盆踊を何より楽しみにして居た。もし人攫ひならば身代金の沙汰もあらうが、何の音沙汰もねぇ。どうか無事で戻ってくれと、神仏に縋るばかりだ」
母ふみは声を詰まらせ、
「あの子は獅子舞が怖ぇと言うて居た。去年も、獅子が近寄った折に青ざめて逃げ帰った。今思へば胸騒ぎがしてならぬ」
と涙に暮る。
●村に伝はる奇怪の噂
東山一帯には古来、彼岸獅子の由来にまつはる伝へ多く、夜半に獅子の足音を聞けば人が連れて行かれるとの俗説あり。今回の失踪をこれに結びつける者も少なからず、寺社へ祈祷を願ひ出づる家も増えつつあり。
しかし警察当局は迷信に惑はされざるやう戒め、
「事件はあくまで現実の問題として捜査す。流言を広めぬやう」
と談話を発表せり。
〔同年八月二十三日付 続報〕
●依然として手掛りなし
――怪しき足跡、川原に現はる――
失踪より一週間、捜索は連日続行されしが進展なし。ところが二十二日早暁、観音川の浅瀬にて、獣とも人ともつかぬ足跡が発見され、村内に新たなる動揺起こる。
発見者の漁師源蔵は、
「鶏より大きく、熊よりは細ぇ。指が五つあるやうで、爪の跡が深く食い込んで居た」
と語り、刑事も石膏にて型を取りしが、いまだ正体判明せず。
また当夜、踊に用ひし獅子頭の毛が一房失はれて居たことも判明。管理せし青年団は「誰も触れて居らぬ」と不審がる。
●医師の見解
若松病院の高橋医師は、
「群衆の中での一時的失神、あるひは記憶錯誤により姿を見失った可能性も考へらる。だが衣類も残さず消えた点は説明困難」
と慎重なる意見を述ぶ。
〔同年八月二十七日付 論説〕
●迷信に走るべからず
近頃、獅子の祟り、山の神の攫ひなどと口さがなき風聞広がり、夜の外出を恐るる者まで出でたるは遺憾なり。文明開化の今日、我らは理性の灯を失ふべからず。事件の真相は必ず人の世の理の内にあり。警察の活動を信じ、徒らに怪異を語ること慎むべし。
〔同年九月二日付〕
●捜査縮小へ
――盆踊中止論も――
失踪後半月、手掛り依然皆無にて、警察は捜査の規模縮小を決定。村会にては来年以降の盆踊を自粛すべきや否や議論紛糾せり。
長老嘉右衛門は、
「踊は先祖の霊を慰むる大事。止めればかへって祟りを招く」
と主張するも、若き世代は不安を訴ふ。
〔同年九月十日付 投書欄より〕
●「あの夜の笛の音」
(東山村 無名)
私は当夜、踊の外れに居た者です。
太鼓が早くなった折、笛の音が一度だけ低く濁り、まるで誰かが喉を詰まらせたやうに聞こえました。その直後、輪の内に黒き影が一つ立ち、獅子の口が大きく開いたやうに見えたのです。
人に話せば笑はれると思ひ黙って居りましたが、どうしても忘れられず筆を取りました。
〔同年九月二十五日付 特報〕
●新証言あらはる
――娘の声を聞いた者あり――
近在の湯治宿に泊まりし旅商人政吉が、失踪の夜、観音山の裏手にて女のすすり泣く声を聞きしと届け出でたり。
「笛に交じり、遠くから“おっかぁ”と呼ぶ声がした。獣かと思ひ急ぎ立ち去った」
警察は山中の再捜索を行ふも成果なし。
〔同年十月三日付〕
●遺留品か 花笠の一部発見
観音堂裏の杉林にて、赤き花飾の破片一つ見つかる。母ふみはこれを見て、
「確かに娘の笠のもの」
と断言。されど周辺に足跡なく、風に運ばれた可能性もあり、決め手とはならず。
〔同年十一月十五日付〕
●捜索打ち切り
若松署はつひに公式に捜索打ち切りを発表。おきぬの行方は依然闇の中なり。村では慰霊のため小さき地蔵を建立する計画進む。
〔同年十二月二十八日付 歳末雑感〕
●忘れられぬ影
今年最も世人の胸を騒がせたるは、東山の娘失踪なり。科学の世とはいへど、人の世にはなお説明し難き隙間あり。盆の夜の笛太鼓は来年も鳴るや否や。
記者は取材の折、誰も居らぬ観音堂に立ちし時、どこからともなく獅子の鈴の音を聞いたやうに覚ゆ。風の悪戯と思ひたけれど、振り返れば、雪雲の下に黒き影一つ、確かに揺れて居た――。
記録資料
「会津地方・某農村における彼岸獅子舞の記録映像」
撮影年月:1985年3月
媒体:U-matic(カラー/モノラル音声)
【00:00:00】
(映像開始。
やや色あせた画面。雪解け直後の農村。地面にはまだ湿った土と、ところどころに残る雪。
遠景に山並み。風の音のみ)
ナレーション:
「会津地方の山あいに位置する、この集落では、春の彼岸にあわせて獅子舞が舞われます。
古くから伝わるこの獅子舞は、“彼岸獅子”と呼ばれ、集落の各家を巡り、舞を奉納します」
【00:01:12】
(カメラ、村の入口付近に固定。
道の向こうから、三匹の獅子舞がゆっくりと現れる)
ナレーション:
「獅子は三匹で一体となり、常に同じ間合いを保ちながら舞います」
(獅子の姿、アップ)
――黒々とした長い毛。
――毛は雨に濡れたように重く垂れ、ところどころ絡まっている。
――目は大きく、白目がちで、ぎょろりと見開かれている。
――口は大きく裂け、上下の歯がはっきりと見える。
(獅子の中から、人の足音が聞こえる。
三匹とも、ほぼ同じ歩幅)
【00:02:03】
(獅子の後ろに、三人の花笠姿の人物が続く。
赤と白の花笠。揃いの着物)
ナレーション:
「獅子を導くのは、三人の花笠。
舞の拍子を整え、家々との取り次ぎを行います」
(花笠の一人、小さく頭を下げる)
花笠・男性(小声):
「……行きます」
【00:03:15】
(最初の家の前。
木造の古い農家。玄関先に藁束)
(獅子、止まる)
――三匹が、ほぼ同時に首を下げる。
――わずかなズレもなく、動きが揃っている。
(太鼓の音はない。
聞こえるのは、獅子が地面を踏む音、衣装の擦れる音、風の音)
【00:04:02】
(獅子、舞い始める)
ナレーション:
「この獅子舞には、太鼓や笛は使われません。
静かな動きの中で、獅子はゆっくりと舞います」
(獅子の口が開閉する。
カク、カク、という乾いた音)
【00:05:10】
(家の中から、年配の女性が出てくる)
住民・女性:
「……今年も来てくれたんだな」
(女性、獅子に向かって深く頭を下げる)
【00:06:00】
(獅子、女性の前で舞う。
三匹が円を描くように回る)
――毛が揺れる。
――目が、カメラの方を向く。
(この時、一瞬、三匹すべての獅子の目が同時にこちらを向いているように見える)
【00:06:42】
(カメラマンの呼吸音がわずかに入る)
【00:07:30】
(舞、終わる)
花笠・男性:
「ありがとうございました」
(女性、何も言わず、黙って家に戻る)
【00:08:20】
(獅子、一斉に向きを変え、次の家へ)
ナレーション:
「獅子舞は、集落のすべての家を回ります。
例年、日が落ちるまで、この舞は続けられます」
【00:10:05】
(別の家。
子ども二人が、少し離れたところから見ている)
子どもA:
「目、でっけ……」
子どもB:
「見るなって、ばあちゃん言ってた」
子どもA:
「なんで?」
子どもB:
「……わがんね」
(子どもたち、目を伏せる)
【00:11:40】
(獅子、家の縁側近くまで寄る)
――獅子の口が、ゆっくりと大きく開く。
――中は暗く、奥が見えない。
(衣装の中から、かすかに息遣いのような音)
【00:12:15】
(獅子、突然、ぴたりと動きを止める)
ナレーション:
「……」
(数秒の沈黙)
【00:12:23】
(何事もなかったかのように、再び舞を続ける)
【00:14:50】
(移動中の映像。
獅子は、必ず三匹同時に歩き、止まる。
一匹だけ遅れることはない)
ナレーション:
「この獅子舞は、誰が中に入っているのか、外部の者には知らされません。
担い手は、代々、集落の中で選ばれるといいます」
【00:17:10】
(インタビュー映像。
農家の男性、60代)
住民・男性:
「中さ誰入ってるか?
……そいは、聞がねぇもんだ。
昔っから、そう決まってっから」
【00:18:30】
(再び獅子舞)
――獅子の毛に、土が絡みつく。
――それでも毛は黒く、濡れたような光を保っている。
【00:21:00】
(夕方。空が赤みを帯びる)
ナレーション:
「日が傾いても、獅子舞は淡々と続きます。
速くなることも、乱れることもありません」
【00:23:45】
(ある家の前)
住民・老婆(小声):
「……今年は、揃ってるな」
(意味を問うナレーションは入らない)
【00:26:10】
(獅子、最後の家を終える)
――三匹、同時に深く頭を下げる。
――そして、来た道を戻り始める。
【00:27:30】
(村外れ。
獅子たちが霧の中へ入っていく)
ナレーション:
「獅子舞は、来た時と同じように、村を離れていきます」
【00:28:05】
(霧の中で、獅子の目だけが、一瞬こちらを向く)
【00:28:12】
(カメラ、わずかに揺れる)
【00:28:20】
(獅子、完全に見えなくなる)
【00:28:45】
(無人の道。風の音)
ナレーション:
「この集落では、獅子舞が終わった後、
その年の作柄や、家の無事が占われるといいます」
【00:29:30】
(エンディング。
山の遠景。夕暮れ)
ナレーション:
「獅子は、災いを祓う存在であると同時に、
人と自然の境界に立つものなのかもしれません」
【00:30:00】
(映像終了)


