雪中彼岸御身花開く

小説『蔵通りの人々』 
北潟市南寺町にて200年余続く味噌屋、鍵文屋の物置蔵にて発掘された未公開作品。
亡き先代によって書かれたものと思われる。

石造りの煙突が天高くそびえたつ。
その元にはやや白漆喰が剥がれ落ちて土壁が見える蔵が通りに連ねる。
日差しの強い夏の日中。
漆塗りの唐傘を差した女性が、藍色の着物を羽織り道を往く。
「おー。徳子あねぇ。茶でも飲ませー。」
蔵通りの一角、煙草やから身を乗り出して声を掛けたのは、白いワイシャツを羽織った十五ばかりの歳の少年であった。
少年の名は、尚一と言った。
「なんだ、尚坊。今から舞踊の先生ぇンどこさ、行ってくんなんねだ。帰り寄っから、そんときまで待っててくろや。」
「尚坊って。俺はもうはぁ、十八になんだがら。坊ってのはねえべや。」
徳子は口を抑えてふふっと笑う。
「誰が、何と言おうと。私にとっちゃ、いつまでたっても子供だがんなぁ。」
「馬鹿にして!見てみろい。俺だって、煙草吹かせんだがんなぁ!」
尚一は店先に並んだ煙草の箱を取り、口元で火をつける。
「あっ!」
徳子が驚いたのは、尚一が煙草に火をつけたからではなかった。
ガツンッ。
鈍い音とともに、徳子は目をつぶった。
尚一は、後ろから出てきた母、秀子にげんこつを食らわされていた。
「このおんつぁ!店の煙草吸う馬鹿どこにいんだと!よぐよぐ困っちまぁ!」
母の秀子はドラ息子に大層憤り、その首根っこを捕まえた。
秀子は店先で徳子を見つけ、起こった表情を一変させニコリと笑った。
「なんだ、徳ちゃん。いたのがよ?なんだ、わりなし。うちの馬鹿息子が、構ってただべや?構ぁ事ねえがらなぁ?」
先ほどの様子とは打って変わった様子に、徳子もつい苦笑いする。
店の奥で黒電話の音が鳴ると、割烹着の袖で秀子が手を拭き慌てて電話の元へ急いだ。
それを機に、徳子もいそいそとその場を後にする。
「尚坊、またね!」
手を振ったの対し、机に臥したままの尚一は、恥ずかしいからなのか、秀子の一撃が効いたからなのか、徳子には分からなかった。

昭和40年代初頭。井伊出連峰から望む相津盆地の北側には、北潟市という場所があった。
誰が数えたのか、小さなこの町には、2000余りの蔵があると言われていた。
蔵の里。と呼ばれるのも、いつの時からだったのか。
 北潟の夏は、風が甘い匂いを運んでくる。
 味噌蔵からは麹の匂い、酒蔵からはほのかな酒気、そしてどこからともなく線香のような土の匂いが混ざり合う。蔵と蔵のあいだを抜ける路地は昼でも薄暗く、子どもの頃の徳子はそこを「夜の通り」と呼んでいた。

 舞踊の師匠の家は、蔵通りを抜けた先、川沿いにあった。
 白壁の塀に囲まれた古い屋敷で、門をくぐると必ず金木犀の匂いがした。まだ花の季節でもないのに、あの家だけは年中、何かが甘く香っている。

「徳子さん、遅かったない」
 玄関で迎えたのは師匠の娘の千代で、徳子より三つ年上だった。髪をきりりと結い、襟元の白がまぶしい。
「尚坊に捕まっちまって」
「あの子、また悪さでもしたんでねえの」
 二人でくすくす笑いながら座敷に上がると、奥の間から三味線の調子を合わせる音が聞こえてきた。

 稽古はいつも厳しい。
 足の運びひとつ、指の角度ひとつで師匠の扇が畳を打つ。徳子は汗をにじませながら、それでも舞うことが好きだった。蔵の町で生まれ、蔵の匂いの中で育った自分が、唯一遠くへ行ける道のように思えたからだ。

 その日の稽古が終わったのは、陽が西の山にかかるころだった。
 帰り道、徳子は川沿いをゆっくり歩いた。井伊出連峰の稜線が紫に沈み、蔵の白壁が朱に染まっている。遠くで汽笛が鳴り、町は一日の終わりに向かって静かに息をついていた。

 蔵通りへ戻ると、昼間とは違う顔があった。
 店先の戸は半分下ろされ、軒先の裸電球がぽつぽつと灯り始める。徳子が尚一の家の前を通りかかったとき、ちょうど秀子が暖簾をしまっているところだった。

「あれまぁ、徳ちゃん。稽古終わったのが?」
「んだ。約束どおり寄ったよ」
「尚一、奥さ居っから。茶ぁ入れてけっからな」

 店の奥は煙草の匂いと甘い菓子の匂いが混ざっている。徳子が上がると、尚一はさっきの失態などなかったような顔で帳場に座っていた。頬にうっすら赤い痕が残っているのが可笑しい。

「……さっきは、見苦しいとこ見せちまって」
 尚一は目を合わせずに言う。
「見苦しいどこか、面白かったがんな」
「徳子あねぇは、意地悪だ」

 秀子が運んできた冷たい麦茶をすすりながら、三人は他愛もない話をした。祭りのこと、今年の米の出来、町にできるという新しい映画館の噂——。けれど徳子は、ふと店の奥の壁に掛かった一枚の古い写真に目を留めた。

 そこには、見覚えのない蔵が写っていた。
 白壁ではなく、黒く煤けた土壁。屋根の上には、見たこともない形の小さな塔のようなものが乗っている。

「ねえ秀子さん、この蔵、どこの?」
 徳子が尋ねると、秀子は一瞬だけ手を止めた。
「ああ……それか。町はずれの“奥蔵”だ」
「奥蔵?」
「子どもは近づくなって言われてるとこだ。昔からな」

 尚一も知らなかったのか、顔を上げる。
「なんで近づいちゃいけねえの?」
 秀子は曖昧に笑って、湯飲みを徳子の前に置いた。

「——あそこはな、蔵が人を…。」

 店の外で、風鈴がちり、と鳴った。
 徳子はなぜか、その音がやけに冷たく感じた。
 徳子が店を出るころには、蔵通りはすっかり夜の顔になっていた。
 裸電球の橙が白壁ににじみ、通りの奥ではどこかの家のラジオが、途切れ途切れに歌謡曲を流している。昼の熱気がまだ地面に残っていて、下駄の裏がじんわりと温かい。

「徳子あねぇ、送ってく」
 尚一が暖簾をくぐって出てきた。さっきまでのふてくされた顔は影をひそめ、妙に神妙な声だった。
「いいよ、すぐそこだし」
「母ちゃんさ言わっちゃんだ。女一人で歩かせんなって」

 徳子は少し考えてから頷いた。
 蔵と蔵のあいだの細い道を、二人並んで歩く。尚一の背はいつの間にか徳子を追い越していて、歩幅も大きくなっていた。子どもの頃は、泣きながら徳子の後ろをついてきたくせに——と、ふいに昔のことが胸に浮かぶ。

「舞踊、楽しいのが?」
 尚一がぽつりと聞く。
「楽しい。うまく踊れた日は、体が軽ぐなんだ」
「ふうん……徳子あねぇ、町から出ちまうのが?」

 思いがけない言葉に、徳子は足を止めた。
 蔵の壁に映る二人の影が、風に揺れる電球でゆらゆらと伸びたり縮んだりしている。

「どうして?」
「だってよ、先生が言ってた。徳子あねぇは筋がいいから、北潟だけに置いとくのは惜しいって」

 尚一は前を向いたまま、石ころを蹴った。
 ころころと転がった石は、排水溝の鉄の蓋に当たって小さく跳ねた。

「まだ分かんねぇよ。そんな先のこと」
「でも、行っちまうんだべや。東京とか」

 その声が、思ったより寂しそうで、徳子は返事に困った。
 東京——雑誌の中でしか知らない町。電車が網みたいに走って、人が川みたいに流れている場所。そこに自分が立っている姿は、どうにも上手く想像できなかった。

「尚坊は、どうすんの?」
「俺?」
「ずっと店継ぐのが?」

 尚一はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「母ちゃん一人だしな。俺がいねえと困っぺよ。けどよ……」

 言いかけて、言葉を飲み込む。
 ちょうどそのとき、通りの向こうから自転車のベルが鳴り、郵便配達の青年が風みたいに走り抜けていった。荷台の鞄ががたがたと鳴る。

 二人はまた歩き出した。
 徳子の家の前まで来ると、軒先に吊るした蚊取り線香の煙が細く流れていた。母がまだ起きている合図だ。

「じゃあな、尚坊」
「……なあ、徳子あねぇ」

 帰りかけた尚一が振り向く。
 電球の下で、まだ少年の名残のある顔が、少しだけ大人びて見えた。

「奥蔵の話、気にすんなよ。母ちゃん、大げさなんだ」
「うん」
「俺らの町は、ただの蔵の町だ。変なもんなんか、ねえよ」

 自分に言い聞かせるような言い方だった。
 徳子は小さく手を振って家に入ったが、戸を閉める間際、通りの奥に続く暗がりが、昼よりも深く長く伸びているのが見えた。

 その夜、徳子は夢を見た。
 誰もいない蔵通りを、ひとりで歩く夢だった。白壁は月に青く光り、どの蔵も同じ顔で並んでいる。足音だけがやけに高く響き、振り向いても誰もいない。

 ただ一つだけ、見覚えのない黒い蔵があった。
 写真で見た、あの“奥蔵”に似た——。

 目が覚めたとき、枕元の障子の向こうで、始発の汽笛が遠く鳴いていた。
翌朝の北潟は、昨夜の夢など知らぬ顔で晴れていた。
 徳子が井戸で顔を洗っていると、裏の家の婆さまが味噌樽をかき混ぜる音が聞こえる。遠くでは始業を告げるサイレンが鳴り、町のあちこちで戸が開く気配がした。

「徳子、今日は手伝えるが?」
 台所から母の声がする。
「昼までなら大丈夫。稽古、休みだもの」

 今日は祭りの準備の日だった。
 北潟の夏祭り——各町内の太鼓台が蔵通りを練り歩き、夜には川端で打ち比べをする、太鼓の祭りだ。徳子は踊り手としてではなく、太鼓台に掛ける提灯や幕の支度を手伝うのが毎年の役目になっていた。

 通りに出ると、すでに男衆が太鼓台を引き出していた。
 黒く塗られた台座に大太鼓が据えられ、欄干には朱の房が揺れている。白い手ぬぐいを頭に巻いた尚一も、その中にいた。

「徳子あねぇ!」
 尚一は綱を肩に掛けたまま手を振った。
「綱ぁ離すな!足もと見ろ!」
 世話役の怒鳴り声に、周りから笑いが起きる。

 徳子は婦人会の女たちと一緒に、太鼓台に下げる提灯に紙を貼る仕事を任された。
 赤い紙に「北潟祭」と墨で書き、糊で丁寧に貼りつける。手を動かしながらも、耳には男たちの掛け声や、太鼓の皮を締め直す乾いた音が次々に入ってくる。

「今年は映画館も協賛すんだと」
「へえ、あの新しくできた“ひかり座”か」
「打ち比べのあとで、ただで見せるって話だ」

 女たちの噂話は尽きない。
 徳子は相づちを打ちながら、ふと通りの先に目をやった。蔵の並びが途切れ、川の方へ抜けるあたり——あの奥蔵があるという方角だ。昼の光の中では、ただの静かな道にしか見えない。

「徳ちゃん、糊足りねえべ」
 声をかけられ、徳子は慌てて手元に視線を戻した。

 昼過ぎ、尚一が汗だくで徳子のところへやって来た。
「母ちゃんが呼んでる。氷、分けてやっから取り来いって」
「ほんと?助かる」

 尚一の家へ向かうと、店先には大きな氷柱が置かれていた。氷屋から届いたばかりらしく、白い息のような冷気がもくもくと立ちのぼっている。

「祭り前は売れんだ。ラムネにかき氷に」
 秀子が包丁で氷を割りながら言う。
「徳ちゃんも持ってきな。暑くてかなわねえべ」

 氷を布に包んでもらいながら、徳子は店の奥をのぞいた。
 尚一は帳場に座り、何やら帳面に向かって難しい顔をしている。

「勉強?」
「帳簿だってよ。俺に任せる気らしい」
「えらいじゃない」
「全然えらくねえ。数字ばっかで目ぇ回る」

 尚一は鉛筆を放り出し、徳子の方を向いた。
「なあ、今夜、川んとこで試し打ちすんだと。徳子あねぇも来るべ?」
「うん、行く」

 祭り前の町は、どこか浮き足立っている。
 蔵の白壁も、いつもより明るく見えた。

 夕方、徳子が家に戻ると、縁側に見知らぬ男が座っていた。
 黒い背広に帽子、手には革の鞄。町ではあまり見ない身なりだ。

「徳子、この人は役場の——」
 母が紹介しようとすると、男は帽子を取って軽く頭を下げた。

「県の文化課の者です。祭りの記録を取りに来ましてね」

 柔らかな言い方だが、どこか事務的な目をしている。
 男は徳子をじっと見た。

「あなたが、舞踊の徳子さんですか」
「は、はい」

「実はね、蔵通りの古い写真を集めておりまして。あなたのお知り合いに、昔の蔵に詳しい方はいませんか。とくに——奥の方の」

 “奥”という言葉に、徳子の胸がわずかに冷えた。
 昨夜の夢の黒い蔵が、ふと頭をよぎる。

「……尚一の家なら、古い写真があったような」
「ほう。それはありがたい」

 男は手帳に何かを書きつけた。
 その仕草が、なぜか徳子にはひどく遠い町の匂いに感じられた。

 日が傾き、通りの提灯に火が入り始めるころ、川の方から太鼓の音が聞こえてきた。
 皮を叩く最初の一打は低く重く、次の一打は胸の骨を鳴らすように続く。試し打ちのはずなのに、町じゅうの蔵が一斉に息をしたようだった。

 徳子は草履を履き替え、家を出た。
 太鼓台の綱を引く若衆の掛け声が、細い路地まで流れ込んでくる。

 まだ何も起きていない、ただ賑やかなだけの夏の夕べ——
 そのはずだった。

 川端の広場には、もういくつかの太鼓台が集まり始めていた。
 町内ごとに違う法被の色が、夕闇の中でゆらゆら揺れる。藍、臙脂、深い緑——どの色も長い夏に晒されて、少しだけ褪せているのが北潟らしかった。

 徳子が着いたとき、ちょうど尚一の町内の太鼓台が綱を緩めるところだった。
 大太鼓の皮は夕焼けを吸い込んだように赤く光り、叩き手の若衆が鉢巻きを締め直している。

「徳子あねぇ、こっちだ!」
 尚一は人混みの中から徳子を見つけ、手を振った。昼間よりずっと大人びた顔つきに見えるのは、法被のせいだけではない気がした。

「まだ始まんねえのが?」
「日ぃ落ちてからだと。今は音合わせだ」

 言い終わるか終わらないかのうちに、別の町内の太鼓が鳴った。
 ドン、と一つ。
 遅れてこちらの太鼓が応える。ドドン。
 まるで遠くの山と山が言葉を交わすようで、徳子は腕に鳥肌が立つのを感じた。

「やっぱり、この音はすげえな」
 尚一がぽつりと言う。
「小せえころは怖かったけどよ、今は腹の中が熱くなんだ」

 徳子も頷いた。
 太鼓の音は、町の骨みたいだと思う。蔵も、川も、人も、みんなその骨にぶら下がって生きている。

 やがて世話役の男が声を張り上げた。
「試し打ち、始めっぞー!」

 掛け声とともに最初の一打が落ちた。
 低く、長く、地面を這うような音。続いて幾つもの太鼓が重なり、川端の空気が震え始める。子どもらは歓声を上げ、年寄りは腕を組んで目を細めた。

 そのざわめきの向こうに、徳子は昼間の男の姿を見つけた。
 県の文化課だというあの男が、太鼓台を遠巻きに眺め、時おり手帳に何かを書きつけている。祭りの熱から一人だけ浮いているようで、妙に目立った。

「……あの人、誰だべ」
 尚一も気づいたらしい。
「役場の人だって。祭りの記録取りに来たんだと」
「ふうん」

 尚一はそれ以上興味を示さず、仲間に呼ばれて太鼓台の方へ戻っていった。

 徳子は人波の後ろで音を浴び続けた。
 太鼓が強くなるたび、胸の奥に昨夜の夢の影がかすかに浮かぶ。誰もいない蔵通り。黒い土壁の蔵。そこへ向かって伸びる自分の足——。

「徳ちゃん」
 不意に声をかけられ、徳子は振り向いた。
 舞踊の師匠の娘、千代が立っていた。

「来てたのが」
「太鼓、聞きにね。あんたも出るんだべ?明日の余興」
「んだ。でも今日は見物だ」

 千代は太鼓台を見つめ、懐かしそうに目を細めた。
「昔、うちの父ちゃんも叩いたんだと。若いころ、奥の町内さ住んでて」

 “奥”という言葉に、徳子の心がまた小さく跳ねた。
「奥って……奥蔵の方?」
「んだ。今は誰も住んでねえけどな」

 千代は軽い調子で言ったが、その横顔はどこか翳って見えた。

 そのとき、太鼓の音がふいに途切れた。
 綱を引いていた若衆がざわめき、世話役が何かを指さしている。川の上手、蔵通りへ続く細道の方だ。

 提灯の灯りの届かない暗がりに、誰かが立っていた。
 黒い影のようで、背格好も分からない。ただ、こちらをじっと見ている——そんな気配だけがあった。

「誰だ、あれ」
 誰かがつぶやいた瞬間、別の町内の太鼓がまた鳴り始め、ざわめきはすぐに音に呑み込まれた。

 徳子は目を凝らしたが、もうそこには何も見えなかった。
 風だけが、川の匂いを運んでくる。

「気のせいだべ」
 千代が笑う。
「祭り前は、みんなおかしなもん見んだ」

 けれど徳子の胸の奥では、小さな棘のような違和感が抜けなかった。
 太鼓の響きはますます強くなり、夜はゆっくりと北潟を包み始めていた。

祭りの本番は、翌日の夜だった。
 朝から町じゅうが落ち着かない。蔵の戸は早くに閉められ、店先には氷水の桶やラムネの木箱が並ぶ。女たちは台所で煮しめを炊き、男たちは法被に袖を通しては脱ぎ、また通す。
 尚一の家も例外ではなかった。
 昼過ぎ、徳子が様子をのぞきに行くと、店の奥から太鼓の鉢を打つ乾いた音が聞こえてきた。
「尚坊、いるが?」
 声をかけると、尚一は汗ばんだ顔で出てきた。
 いつもの白シャツではなく、紺の法被。胸には町内の紋が染め抜かれている。
「徳子あねぇ……俺、今夜な」
 言いかけて口を結ぶ。
 その目の奥に、子どものころにはなかった緊張があった。
「本番、叩くんだべ?」
「んだ。親方がよ、一本だけ任せるって」
 一本——最初の打ち出しのことだ。
 太鼓台の顔になる一打。町内の誰もが息を止める瞬間。
「すげえでねえか」
「すげえどころか、足震えてっから」
 尚一は笑ったが、指先はわずかに白かった。
 秀子が奥から顔を出す。
「徳ちゃん、悪いけど励ましてやってくろ。昨日からこの調子でよ」
「母ちゃんは黙ってろって!」
 尚一が赤くなるのを見て、徳子は思わず吹き出した。
 夕暮れになると、町は一気に色づいた。
 提灯の灯が蔵の白壁を染め、太鼓台が一台、また一台と通りへ引き出される。綱を握る若衆の手は黒く汚れ、鉢巻きの結び目にはそれぞれの癖があった。
 徳子は人波に混じって川端へ向かった。
 昼間よりずっと多い人出。どこから集まってきたのか、見たことのない顔も多い。ひかり座の前では屋台が並び、甘い匂いと油の匂いが入り交じっている。
 やがて、世話役の声が夜を裂いた。
「北潟町内、打ち出し——!」
 ざわめきが一瞬で静まる。
 徳子は胸の前で手を握った。
 太鼓台の上、尚一が鉢を構えていた。
 提灯の光が頬を照らし、額の汗がひとすじ落ちる。周りの音がすっと遠のいた気がした。
 ——ドン。
 最初の一打は、驚くほどまっすぐだった。
 続けて、ドドン。
 尚一の体から音が生まれているように見えた。
 歓声が上がり、綱が揺れ、太鼓台がゆっくりと動き出す。
 徳子は知らずに息を吐いていた。
「やった……」
 そのときだった。
 太鼓の音の隙間に、かすかな別の音が混じった。金物が触れ合うような、ひどく細い響き。徳子は思わず振り向く。
 川へ続く細道の入口。
 昨夜と同じ場所に、あの影が立っていた。
 今夜ははっきり見えた。
 古い法被のようなものを着た男。顔だけが暗く、提灯の光を吸い込んでいる。男は太鼓台ではなく、まっすぐに尚一を見ていた。
 次の瞬間——。
 尚一の鉢が、ほんのわずかに狂った。
 音が一拍だけ外れ、太鼓台の空気が揺らぐ。
「尚坊……?」
 徳子の声は、祭りの渦に呑まれて消えた。
太鼓はすぐに立て直された。
 尚一は唇を噛み、次の一打で音を取り戻す。若衆の掛け声がそれを支え、太鼓台は再び息を合わせて蔵通りへと進み出した。

 観客は誰も気づかなかった。
 ほんの一拍の揺らぎなど、祭りの熱の前では泡のようなものだ。

 けれど徳子の耳には、その狂いがいつまでも残った。
 影の男も、もう見えない。人波と提灯の明かりがすべてを塗りつぶしている。

「徳ちゃん、いい音だな」
 隣で見ていた千代が目を細めた。
「尚一くん、あんなにしっかりしてたんだ」

 徳子は曖昧に笑う。
 胸の奥のざらつきだけが消えない。

 太鼓台が蔵通りへ入ると、音は壁に跳ね返ってさらに大きくなる。白壁が震え、格子戸がかすかに鳴った。見物の人々は軒下まで押し寄せ、子どもらは大人の肩にしがみつく。

 尚一は打ち続けていた。
 汗で法被の背が黒く染まり、腕は鉛のように重いはずだ。それでも鉢は迷わない。町内の誇りを背負う音だった。

 だが蔵通りの半ばに差しかかったとき、再びそれは起きた。

 ——キン。

 太鼓の底に、薄い金属音が走った。
 誰も鳴らしていないはずの音。徳子は思わず耳を押さえる。

 尚一の顔がわずかに強張った。
 鉢の先が一瞬ためらい、また打つ。ドン。ドン。
 音は正しい。正しいはずなのに、何かが混じっている。

「今の、聞いたが?」
 徳子は千代にささやいた。
「え? 何が」

 千代は首をかしげるだけだった。

 太鼓台が角を曲がり、通りの奥へ入る。
 そこは古い蔵が特に多い一角で、昼でも薄暗い。電線が絡み、風の通りが悪く、音が底に溜まる場所だ。

 そのとき、徳子は見た。

 蔵と蔵のあいだの細い隙間。
 昼間、文化課の男が「奥の方」と言ったあの方角から、さっきの影が歩み出るのを。

 今度は一人ではなかった。
 もう一つ、背の低い影が並んでいる。どちらも法被の形をしているのに、色だけがひどく古び、煤のように黒い。

 影たちは太鼓台の進む速度に合わせ、同じ歩幅でついてきた。
 誰にも触れず、誰にも気づかれずに。

 尚一が顔を上げた。
 徳子と目が合う。はっきりと、怯えの色があった。

「徳子あねぇ……」

 声は太鼓にかき消される。
 次の瞬間、尚一の鉢が大きく外れた。

 ドン——と鳴るはずの音が、
 空洞のように抜けた。

 太鼓台が止まる。
 綱を引く若衆が戸惑い、世話役が怒鳴る。

「どうした尚一! 打て!」

 尚一は太鼓を見つめたまま、動かない。
 鉢の先が、かたかたと震えていた。

 徳子は人波をかき分けて前へ出た。
 影はもう、太鼓台のすぐ後ろにいた。

 その顔が、提灯の灯に一瞬だけ照らされた。

 ——知らない男の顔だった。
 けれど徳子は、その目だけをどこかで見た気がした。
「尚坊!」

 徳子は思わず声を張った。
 太鼓の前で立ち尽くす尚一に向かって、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。

 その声が届いたのかどうか——尚一の肩がびくりと揺れた。
 鉢を握り直し、息を大きく吸う。

「打てぇっ!」

 世話役の怒号に押されるように、尚一は再び腕を振り下ろした。
 ドン、と今度は確かな音。若衆がほっと息を吐き、太鼓台はぎこちなくも動き出す。

 歓声が戻り、祭りの流れは何事もなかったようにつながった。
 だが徳子の目には、太鼓台の後ろを歩く二つの影がはっきりと焼きついていた。

 ——誰にも見えていない。

 その事実が、かえって恐ろしかった。

 太鼓台が川端の広場へ戻るころ、尚一は鉢を次の叩き手に渡された。
 役目を終えた彼は、綱の外へよろよろと下りてくる。徳子はすぐに駆け寄った。

「大丈夫が?」
「……ああ」

 尚一は笑おうとしたが、うまく顔が動かない。
 法被の背はぐっしょり濡れ、指先はまだ震えている。

「徳子あねぇ、俺——」
「後でいい。水、飲め」

 徳子は屋台でもらったラムネを差し出した。
 瓶の中でビー玉が涼しい音を立てる。

 尚一は半分ほど一気に飲み、ようやく息をついた。

「聞こえたんだ」
 ぽつりと言う。
「太鼓の中から、知らねえ音が。俺のじゃねえ、昔の音みてえな」

 徳子は何も言えなかった。
 あの金属のような響き。影の男たち。

「気のせいだべって、思おうとした。でもよ——」

 そのとき、背後から声がした。

「お疲れさまでした」

 振り向くと、あの文化課の男が立っていた。
 手帳ではなく、古びた封筒を抱えている。

「いい打ち出しでしたね。少し乱れはありましたが」
 やわらかな口ぶりなのに、言葉の芯が冷たい。

「あなたが尚一くんですね」
「……はい」

 男は封筒から一枚の写真を取り出した。
 色の抜けた白黒の蔵通り。太鼓台を囲む若衆。その中心で鉢を振り上げる青年——。

「これ、戦前の北潟祭の写真です」
 徳子は覗き込み、息をのんだ。

 写っていた青年の顔が、
 今の尚一にひどく似ていた。

「この人は、あなたの祖父にあたる方だそうです。尚吉さん。町内で一番の叩き手だった」

 尚一は写真から目を離せない。
 男は静かに続けた。

「ただし——祭りの最中に、亡くなっている」

 太鼓の音が遠くで鳴り続けている。
 徳子の耳には、それが急に薄く、遠いものに感じられた。

「事故だと記録にはありますが、詳しいことは誰も語りたがらない。だから私は、奥の蔵の資料を探しているんです。あそこに、祭りの古い帳面が残っているはずで」

 “奥の蔵”。
 その言葉と同時に、徳子の背筋を冷たいものが這い上がった。

 尚一は写真を握りしめ、かすれた声で言った。

「さっきの音……あれ、じいちゃんのだったのか」

 男は答えなかった。
 ただ蔵通りの暗がり——影が現れた方角を、じっと見つめていた。
文化課の男——名を相馬という——は、それ以上多くを語らなかった。
 写真を封筒に戻すと、軽く頭を下げて人混みの中へ消えていく。太鼓の音だけが、何事もなかったように夜を満たしていた。

「じいちゃんが……祭りで死んだって」
 尚一はまだ写真の感触を手のひらに残したまま、呆けたように立っている。

「母ちゃん、そんな話ひとっつも」
「昔のこと、あんまり言わねえ人だものな」

 徳子はそう答えながらも、胸の奥で別の声を聞いていた。
 ——蔵が人を覚えるんだと。
 秀子が笑い半分に言ったあの言葉が、今はやけに重い。

 その夜、打ち比べは無事に終わった。
 どの町内の太鼓も力いっぱいで、川端の空には音が幾重にも重なった。見物の人々は満足そうに家路につき、蔵通りには再び静けさが戻る。

 だが徳子と尚一の足取りは重かった。
 帰り道、二人は自然と奥の方へ続く細道の前で立ち止まる。

 昼でも薄暗いその道は、夜になると底の見えない穴のようだ。
 風が通るたび、古い土壁の匂いが鼻をつく。

「……行ってみっか」
 尚一がぽつりと言った。
「奥蔵」

「今日でなくても」
「いや、今日がいい」

 尚一の声には、祭りの熱とは別の強さがあった。
 徳子はしばらく迷い、そして頷いた。

 細道に入ると、太鼓の音が急に遠のいた。
 提灯の明かりも届かず、足元は土の感触に変わる。蔵と蔵のあいだを抜ける風はひどく冷たい。

 やがて一軒の蔵が現れた。
 白壁ではなく、煤けた土壁。屋根の上には、写真で見たのと同じ奇妙な小塔が乗っている。

「あれだ……」

 戸は半ば朽ち、錠前は赤く錆びていた。
 誰も使っていないはずなのに、周りの蔵よりもずっと“息”が濃い。

 尚一が扉に手をかけた、そのとき——。

 蔵の中から、かすかな音がした。
 太鼓の皮を指で撫でたような、低い、低い音。

 二人は思わず顔を見合わせる。

「誰か、いるのが?」
 徳子の声は自分でも驚くほど小さかった。

 返事の代わりに、また音。
 今度ははっきりと、ドン、と一つ。

 尚一は錠前に手を伸ばし、力を込めた。
 意外なほどあっけなく、金具が外れる。

 扉が、ゆっくりと開いた。

 蔵の中は、土と紙と古い油の匂いが混ざっていた。
 月明かりに浮かび上がったのは、いくつもの木箱と、壁に立てかけられた——

 ひと張りの古い太鼓だった。

 皮は黒く乾き、胴には見覚えのない町名が墨で書かれている。
 その前の床に、擦り切れた法被が一枚、きれいに畳まれていた。

「じいちゃんの……」

 尚一がつぶやいた瞬間、蔵の奥で風もないのに法被の袖がふわりと揺れた。