雨と傘と君と

 授業後、解けなかった問題の解答をメモしていると、机の上に影が落ちた。

「上崎があんなミスすんの、珍しいよな」

 友人の八杉(やすぎ)の声だった。俺は彼を見上げることなく解答を写し続けた。

「忘れろ」

「いつもより塩だ」

「うるさ」

「あんなニマニマしてたくせに、機嫌悪いのかよ」

「……ニマニマ?」

 思いがけない言葉に手が止まった。八杉の表情を見れば、彼はやっと反応した、と言うように口角をあげた。

「なんかいいことあった?」

 いいこと、と頭の中で彼の言葉を繰り返す。いいことだったのだろうか。いいことをした、という感触はある。いいことをすると気分が良くなるから、それは俺にとってもいいことだったのかもしれない。
 『いいこと』のゲシュタルト崩壊が起きはじめた頃、八杉が有り得ないことを言った。

「春が来たか?」

「来たわけないだろ」

 八杉はしばらく「んな照れんなって」と意味ありげな笑みを浮かべていたが、突然通りかかったクラスメイトに連れていかれた。日番だから黒板を消せ、というようなことを言われていた。
 八杉は文句を言いつつ、例のクラスメイトと並んで板書を消していく。それがなんだか仲睦まじく見えて、その思考を追い払うようにノートを閉じた。
 高校生はすぐに色恋に結びつけたくなる生き物だと思うし、俺も例に漏れずそうなのだろう。人並みには恋愛の話に興味があるし、その中にいる人たちを羨ましく思うことだってある。

 正直な話、筆記用具を片付けながら少し考えてしまった。
 傘について思いを馳せていたのと同時に、俺の頭の中には絹本という存在があったのかもしれない、と。
 だが、彼と恋愛を絡めてしまうことは避けたかった。曲解の末にありえない着地をしてしまうことを恐れた。イケメンはおじさんを乙女にすることができるというんだ。俺も勝手に変な想像をして、勝手に乙女にされてしまうかもしれない。いや、なんだそれ。そんなことあってたまるか。
 八杉が変なこと言ったからだ、と心の中で毒づく。あるいは俺がバカで単純な思春期小僧だから。
 別に絹本は俺を何とも思っていないだろうし、俺も絹本に恋などしていないはずだ。なのに、俺の脳内で傘と絹本と恋はなんだか結びついてしまって、うまく離れてくれなかった。
 気付けば教室には誰も居なくなっていて、八杉が「音楽行くぞ」と声をかけてきた。