雨と傘と君と


 どうして災いは平等に降り注がないのか。なぜ人類には得手不得手があるのか。
 人は助け合って生きるものだなんて嘘だ。そんな綺麗事はここでは意味を成さない。
 弱肉強食。足を引っ張った者から疎外される。それが常となる空間に、平和を愛するべき我らがなぜ放り込まれなければならないのだろうか――
 しかし平凡な一生徒である俺は、この不条理に異を唱える力を持たない。
 気まぐれな体育教師により、定期考査まで一週間を切った我らはバスケをすることになってしまった。
 唯一の救いは二組との合同だったことだ。人が多ければ試合に出る回数も少ない。出番がなければ体育館の隅で教科書を読み込んでいてもいい。だが、それで済めば俺は絶望していない。

「上崎、一人足んないから入ってくんない?」

 八杉は爽やかな笑顔でそう言い放った。世界史の教科書を取り落としそうになった。

「もっとバスケ得意なのいるだろ」

「いや、みんな赤点回避したいらしくってさ」

 八杉が指さす体育館の隅を見れば、普段バスケで勇姿を見せる者の何人かが問題を出し合っているのが見えた。

「俺もそうだよ」

 あの場に混ざりたくて仕方がなかった。つい先日あった世界史の小テストが散々だったからだ。
 普段なら定期考査直前に小テストなんか冗談じゃない、と思うが、今回ばかりは危機感を抱くきっかけになった。助かった。

「嘘だ。上崎ならノー勉でも赤点とらんっしょ」

「とるわ」

 八杉は俺の拒絶を無視して詰め寄ってくる。お前に俺の気持ちなどわからないだろうに。
 距離を縮めれば負けると直感し、俺は後ろに下がり続けた。しかし、それにも限界がある。俺はすぐに壁にぶつかって――いや違う、この感触は壁じゃない。人だ。

「ごめん」

 女子だったら怖いな、と思いつつ振り向いた先にいたのは絹本だった。

「いや、大丈夫」

 少し安心したような、そうでないような気がする。
 そうか、絹本は二組だったな、などと思っているうちに、八杉は俺に青いビブスを押し付けた。

「よろしくな、上崎」

「負けても知らねえからな……」

 怒りのままにビブスを握りしめていると、絹本が「上崎、試合出るの?」と話しかけてきた。授業中に彼に話しかけられるのは珍しい。初めてのことかもしれない。

「出るっていうか、引きずり出されるっていうか……」

「へえ、楽しみ」

 笑顔が眩しくて目を細めた。この男はきっと、こうして息をするように人類の心を奪ってきたのだと思う。
 俺は口角を引き攣らせながら「期待しないで」と言うことしかできなかった。


 くじ引きの結果、俺たちのチームは最初の試合に出ることになった。早く終わるのは嬉しい。どんなヘマをしでかしても、後のやつらの輝きで霞むから。
 試合開始のホイッスルが鳴り、目まぐるしく動き続けるボールを目で捉え続ける。
 ずっと文化系でやってきた俺は、金輪際体育とは分かり合えないということを嫌ほど実感してきた。今回もメンバーの邪魔にならない程度にふらふらしておこうと思っていた。
 だが、絹本が見ている、と思うと話が違ってくる。かっこ悪いところを見せたくない。そう思ってしまったせいで、今までの授業で身につけたなけなしのテクニックを使いこなそうとした。自分らしくもない。
 ボールを追い続けて、パスが来たら受け止めて、別の仲間に回す。なんとか周りに馴染めるくらいにはなれてんじゃないか、と思うと余裕が出てきた。
 そして、ボールを目で追った先に、たまたま絹本の姿が見えた。それが命取りだった。
 彼はさっき「楽しみ」と言った通りに俺を見ていたらしく、目が合ってしまった。
 その瞬間――というか、数秒間くらいあったのかもしれない――ボールから目を離したせいで、俺はパスを受け損ねてバランスを崩した。
 
「上崎!」

 受身を取り損ね、派手に右半身とフローリングの床が擦れた。
 動けないでいる俺に八杉が駆け寄ってきた。さっきの無礼を許してやろう、というくらいには心配そうな表情を浮かべていた。

「大丈夫」

 そう言いながらも痛む肘を見れば、軽く皮がめくれているのがわかった。道理で痛いわけだった。

「うわ、保健室行った方がよくね?」

「や、行かなくても――」

「俺付き添うよ」

 絹本の声だった。「そっか、保健委員」と誰かが言った。そうなんだ。

「脚は怪我してない?」

「平気。でもほんと、保健室行く程じゃねえし」

 この程度どうってことない。安心させようと、姿勢を起こして立ち上がってみた。
 しかし、絹本は眉間に皺を寄せると、持っていた赤いビブスを八杉に押し付けて俺の手首を掴んだ。

「付き添い行くから。あとよろしく」

 俺はただただ呆気にとられていた。手首に伝わる熱を感じて、絹本って結構体温高いんだな、とか思ったりしながら。
 女子が「絹本くんのバスケ見れないの?」と話している声も、代理を押し付けられた八杉の非難の声も、どうでもよかった。
 体育館を出れば、手は離された。外気が少し冷たく感じられたが、すぐに慣れてしまえた。