向かった先は中庭だった。絹本はベンチの近くに設置されている自販機に硬貨を入れ、「どれ好き?」と訊いてきた。
おそらく、一昨日のことについての見返りなのだろう。
「別にいいのに」
「俺の気が済まないから。受け取ってもらえると」
彼にレスバで勝てる気がしなかった。なぜならば顔が強すぎるからだ。たとえどんなにロジカルに反論できたとしても、笑顔一つで簡単に溶かされてしまうだろう、と思った。
俺は「これ」と言って、250mlの炭酸飲料を指さした。
「でかい方でもいいよ」
同じ飲み物が500mlの大きさでも売られていたが、「すぐ飽きるから」と遠慮しておいた。
彼は「そっか」と言って250mlの方のボタンを押し込んだ。その指の動きを、なんだかじっと見てしまった。
ガコン、と音を立てて炭酸飲料が落ちてくる。彼は屈んでそれを取り出し、俺に差し出した。
「改めて、一昨日ありがと」
「ん」
俺が受け取ると、彼は満足そうな表情をして釣り銭を握った。
「そういや昨日、自習室来なかったよな。珍しい」
なんとなく、行く気にならなかった自習室。多分それにも絹本が関連しているんだろうな、と思いながらも、それを本人に言う気にはならなかった。
代わりに小さなペットボトルを両手で包んだ。今日は暖かいから、自販機の中で保たれていた冷たさが少し心地よい。
「なんか寂しくて俺も早めに帰っちゃった。俺、結構上崎が来るの楽しみにしてたのかも」
確かに、来なかったのが俺じゃなく絹本だったとしたら、俺も寂しいと思ったかもしれない。多分、傘の一件がある前でも。
「一昨日話しかけてくれたとき、やっと話せたって思ったし。傘借りたとき、また話すきっかけできたって思ったし。ちょっと嬉しかったんだよ」
そう言って彼は笑った。俺なら素直に言えないようなことを、彼は照れる素振りもなく伝えてくる。
木がざわめいて、風が彼の髪を揺らす。夢のことを思い出した。
夢の中の彼は「俺のこと好きなの?」と問いかけてきた。だが今、現実の彼が言ったのは、きっと友愛的な言葉だった。仲良くなりたい、というのを暗に示すような。
それと同時に、気付いた。ああそうか、だからあのとき、彼は「嬉しかった」と言ったんだ。
話せて嬉しかった。いつも同じ場所で勉強していた俺と。軽い仲間意識のようなものがあった俺と。それ以上の意味はない。
その納得を、なんだか苦々しく思った。
当たり前のことなのに。むしろ、彼が俺に目をかけてくれてたってことを嬉しがるべきなのに。
心の底で見ないふりをしていた何かが傷んだように思えて、無いことにしていた期待が裏切られたように思えて。
目を伏せて、炭酸飲料のラベルを指でなぞった。
「上崎」
その声に、ペットボトルに落としていた視線を上げた。いつもの絹本の表情が、目に飛び込んだ。
「また一緒に帰ろ」
嬉しいはずの言葉だが、彼に対して厄介な感情を持ったまま関わり続けるのは気が引ける。
けれど冷静に考えれば、これはきっと話を終わらせるための社交辞令的なものなのだろうと思い当たった。俺がとりあえず頷いておくと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「小テ、頑張ろうな」
そう言って、絹本は手を振って去っていった。
五限目は世界史だ。自習以外で彼と俺が同じ教室にいられる、数少ない時間。同じ時間に同じ授業を受けて、同じテストに立ち向かう。
だけど、他の生徒がいるあの場所では、彼との距離が遠く感じられる。
自習室では、俺と彼は一対一の個人だった。なのに、同級生の中に紛れ込むと、その個人としての輪郭がぼやけていくような印象があった。
絹本はキラキラしてる生徒の括りに入っていて、俺は有象無象の生徒の括りに入っていて。その二つの境界線だけがくっきりとしているような。
それでよかったはずなのだ。今までは気にも留めなかった。だけど今は。
ペットボトルのキャップを捻ると、ミシン目が切れていく小気味よい音がして、続いて炭酸の弾ける音がした。
その中身を飲み下せば、素朴な甘みと刺激が喉を伝っていった。何度も経験したことがあるはずの味や感覚がなにか特別なものに思えて、嫌になった。
おそらく、一昨日のことについての見返りなのだろう。
「別にいいのに」
「俺の気が済まないから。受け取ってもらえると」
彼にレスバで勝てる気がしなかった。なぜならば顔が強すぎるからだ。たとえどんなにロジカルに反論できたとしても、笑顔一つで簡単に溶かされてしまうだろう、と思った。
俺は「これ」と言って、250mlの炭酸飲料を指さした。
「でかい方でもいいよ」
同じ飲み物が500mlの大きさでも売られていたが、「すぐ飽きるから」と遠慮しておいた。
彼は「そっか」と言って250mlの方のボタンを押し込んだ。その指の動きを、なんだかじっと見てしまった。
ガコン、と音を立てて炭酸飲料が落ちてくる。彼は屈んでそれを取り出し、俺に差し出した。
「改めて、一昨日ありがと」
「ん」
俺が受け取ると、彼は満足そうな表情をして釣り銭を握った。
「そういや昨日、自習室来なかったよな。珍しい」
なんとなく、行く気にならなかった自習室。多分それにも絹本が関連しているんだろうな、と思いながらも、それを本人に言う気にはならなかった。
代わりに小さなペットボトルを両手で包んだ。今日は暖かいから、自販機の中で保たれていた冷たさが少し心地よい。
「なんか寂しくて俺も早めに帰っちゃった。俺、結構上崎が来るの楽しみにしてたのかも」
確かに、来なかったのが俺じゃなく絹本だったとしたら、俺も寂しいと思ったかもしれない。多分、傘の一件がある前でも。
「一昨日話しかけてくれたとき、やっと話せたって思ったし。傘借りたとき、また話すきっかけできたって思ったし。ちょっと嬉しかったんだよ」
そう言って彼は笑った。俺なら素直に言えないようなことを、彼は照れる素振りもなく伝えてくる。
木がざわめいて、風が彼の髪を揺らす。夢のことを思い出した。
夢の中の彼は「俺のこと好きなの?」と問いかけてきた。だが今、現実の彼が言ったのは、きっと友愛的な言葉だった。仲良くなりたい、というのを暗に示すような。
それと同時に、気付いた。ああそうか、だからあのとき、彼は「嬉しかった」と言ったんだ。
話せて嬉しかった。いつも同じ場所で勉強していた俺と。軽い仲間意識のようなものがあった俺と。それ以上の意味はない。
その納得を、なんだか苦々しく思った。
当たり前のことなのに。むしろ、彼が俺に目をかけてくれてたってことを嬉しがるべきなのに。
心の底で見ないふりをしていた何かが傷んだように思えて、無いことにしていた期待が裏切られたように思えて。
目を伏せて、炭酸飲料のラベルを指でなぞった。
「上崎」
その声に、ペットボトルに落としていた視線を上げた。いつもの絹本の表情が、目に飛び込んだ。
「また一緒に帰ろ」
嬉しいはずの言葉だが、彼に対して厄介な感情を持ったまま関わり続けるのは気が引ける。
けれど冷静に考えれば、これはきっと話を終わらせるための社交辞令的なものなのだろうと思い当たった。俺がとりあえず頷いておくと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「小テ、頑張ろうな」
そう言って、絹本は手を振って去っていった。
五限目は世界史だ。自習以外で彼と俺が同じ教室にいられる、数少ない時間。同じ時間に同じ授業を受けて、同じテストに立ち向かう。
だけど、他の生徒がいるあの場所では、彼との距離が遠く感じられる。
自習室では、俺と彼は一対一の個人だった。なのに、同級生の中に紛れ込むと、その個人としての輪郭がぼやけていくような印象があった。
絹本はキラキラしてる生徒の括りに入っていて、俺は有象無象の生徒の括りに入っていて。その二つの境界線だけがくっきりとしているような。
それでよかったはずなのだ。今までは気にも留めなかった。だけど今は。
ペットボトルのキャップを捻ると、ミシン目が切れていく小気味よい音がして、続いて炭酸の弾ける音がした。
その中身を飲み下せば、素朴な甘みと刺激が喉を伝っていった。何度も経験したことがあるはずの味や感覚がなにか特別なものに思えて、嫌になった。
