五月下旬。
連休明けのだるさが、まだ体の奥に残っているというのに、校庭には朝早くから、それを吹き飛ばすような喧騒が満ちていた。
西側にいた頃の私なら「体育祭」は単なる賑やかな行事の一つだと受け取っていただろう。
けれど、東側の学校で迎えるこの日は、明らかに毛色が違っていた。
それは行事というより、男子が主役になるために用意された一日だった。
グラウンドの端には、女子たちが固まって陣取っている。
うちわ、メガホン、色とりどりのタオル。
応援団――チアと呼ばれる彼女たちは、スカートではなく、動きやすそうなワイドパンツ姿だった。
風をはらんで揺れる布は、脚線を隠す代わりに、軽やかさだけを残している。
私は、その光景を少し不思議な気持ちで眺めていた。
「西側の体育祭って、男女混合が多いんだよね」
準備の最中、志織が何気なく言った。
「多いっていうか……そういうものだと思ってた」
私は答えながら、グラウンドを見渡す。
「参加しない、って感覚がなくて」
志織は、予想どおりの反応だと言わんばかりに小さく頷いた。
「東側は違う。男子は走って、投げて、運んで。俺たち女子は見る側、支える側。最初から役割が決まってる」
合理的、と言えばそうなのかもしれない。
けれど、胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
開会の合図とともに、最初の競技が始まった。
グラウンドを揺らすのは、何十人もの男子が土を蹴るドドドッ!という重い地響きだ。
最初の競技は『資材搬送リレー』。
重機用の巨大なタイヤを、数人がかりでひっくり返しながら進む。
ボフッ、とタイヤが土を叩くたびに、地面の振動が私の足の裏まで伝わってきた。
単純で、逃げ場のない競技だ。でも、見ているだけでヒヤヒヤするものの、不思議な高揚感が湧き上がる。
応援席の女子たちは、メガホンを手に一糸乱れぬ動きを見せている。私も初参加で手順が分からないなりに、周囲のリズムに声と動きを合わせた。
タイヤは想像以上に重のだろう、押し上げる肩に食い込むたび、男子たちの顔が歪む。
土を踏みしめる音が揃い、息が荒くなる。
「……すご」
思わず漏れた声は、歓声に紛れて消えた。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
走っているのは男子だ。
重いものを持ち上げ、土を蹴っているのも、前に出ているのも、全部。
――それなのに。
私の鼓動は、なぜか同じ速さで跳ねていた。声を出しているだけなのに、足先まで力が入る。息が詰まり、指先が熱くなる。
見ているだけ。
そう分かっているのに、
この高揚は、完全に“外”のものじゃなかった。
男子たちの動きに、女子の声が重なる。
タイミングを合わせ、間を詰め、力を乗せる。
誰かが前に出て、誰かが後ろから押す。
その繰り返しの中で、グラウンド全体が、一つの生き物みたいに脈打っていた。
(あ……)
これは、分かれてない。
走る側と、見る側。
前と後ろ。
男と女。
役割は違うのに、
高揚だけは、確かに一つだった。
教室では目立たない男子も、ここでは前に出ている。
汗をかき、歯を食いしばり、声を掛け合う。
「せーの!」
「まだいける、あと半周!」
怒鳴り声じゃない。
命令でもない。
互いをつなぎ止めるための声だった。
途中、足を取られた男子がいた。
転びかけた瞬間、左右から別の男子が肩を支え、タイヤの位置をずらす。
誰かを責める空気はない。
ただ、前に進む。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
よく見れば、チアたちも踊っているわけじゃない。
競技の流れを読み、声を揃え、タイミングを合わせて導いている。
「右、持ち上げて!」
「前方、大丈夫!」
「あと三歩!」
飛び交う声は、完全に統制された合図だった。
一人のヒーローが突き抜けるのではない。
巨大な負荷を、集団という一つの仕組みで受け止めている。
「……みんな、あんなに笑うんだ」
グラウンドの中央では、あの物静かな夏樹くんが、まるで別人のような咆哮を上げてタイヤに肩を入れている。
土が跳ね、体操着があっという間に茶色く染まっていく。
でも、彼は笑っていた。
背後で正確なリズムを刻む女子たちの声援を、まるで最高の指示のように受け取って、彼は迷いなく力を爆発させている。
泥だらけの小春が、夏樹と肩を叩き合い、歯を見せて笑っている。
教室では見せない、剥き出しの笑顔だった。
次の競技は、障害物リレー。
低い柵をくぐり、壁を越え、重りを引きずって次へ渡す。
力だけじゃない。
要領、間合い、呼吸。
「あの子、速い!」
細身で体力がなさそうな男子が、重り役を終え、走者に的確な合図を送っている。
自分は全力で走らない。
その代わり、最短の動線を示し、全体を前に進めている。
(役割って……こういうことなんだ)
応援席に目を向ける。
女子たちは競技を見ながら、声とリズムを揃える。
その中で、志織だけが少し離れ、ノートを広げていた。
「志織君、応援しないの?」
「俺?してるよ」
彼女はノートの端を指で叩く。
「ちゃんと」
意味は、まだ分からなかった。
競技が進むにつれ、校庭の空気は熱を帯びていく。
土埃、汗の匂い、笑い声。
勝っても負けても、男子たちは笑っていた。
グラウンドを駆けるのは、未来を託される若者たちだ。
声を掛け合い、手際よく動き、重いものを勲章のように運ぶ。
町で見かける現場職の人たちの姿が、ふと重なった。
誰かが動けば、誰かが自然に合わせる。
考えるより先に身体が反応し、配置が決まる。
――ああ、これは「先に型を渡されている」動きだ。
東側では、社会での立ち位置や支え方を、言葉より先に身体で教え込まれる。
一方で、西側は違う。
型を急がず、選択肢を並べ、あとから選ばせる。
どちらが正しいわけでもない。
ただ、順番が違うだけだ。
それぞれが、自分の役割を知っている。
ゴールラインを越えた瞬間、男子たちはその場に倒れ込んだ。
空を仰ぎ、肩で息をしながら、それでも笑っている。
歓声が上がる。
メガホンが鳴る。
ワイドパンツの裾が、風に揺れた。
私はその光景を、静かに胸に焼き付けた。
連休明けのだるさが、まだ体の奥に残っているというのに、校庭には朝早くから、それを吹き飛ばすような喧騒が満ちていた。
西側にいた頃の私なら「体育祭」は単なる賑やかな行事の一つだと受け取っていただろう。
けれど、東側の学校で迎えるこの日は、明らかに毛色が違っていた。
それは行事というより、男子が主役になるために用意された一日だった。
グラウンドの端には、女子たちが固まって陣取っている。
うちわ、メガホン、色とりどりのタオル。
応援団――チアと呼ばれる彼女たちは、スカートではなく、動きやすそうなワイドパンツ姿だった。
風をはらんで揺れる布は、脚線を隠す代わりに、軽やかさだけを残している。
私は、その光景を少し不思議な気持ちで眺めていた。
「西側の体育祭って、男女混合が多いんだよね」
準備の最中、志織が何気なく言った。
「多いっていうか……そういうものだと思ってた」
私は答えながら、グラウンドを見渡す。
「参加しない、って感覚がなくて」
志織は、予想どおりの反応だと言わんばかりに小さく頷いた。
「東側は違う。男子は走って、投げて、運んで。俺たち女子は見る側、支える側。最初から役割が決まってる」
合理的、と言えばそうなのかもしれない。
けれど、胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
開会の合図とともに、最初の競技が始まった。
グラウンドを揺らすのは、何十人もの男子が土を蹴るドドドッ!という重い地響きだ。
最初の競技は『資材搬送リレー』。
重機用の巨大なタイヤを、数人がかりでひっくり返しながら進む。
ボフッ、とタイヤが土を叩くたびに、地面の振動が私の足の裏まで伝わってきた。
単純で、逃げ場のない競技だ。でも、見ているだけでヒヤヒヤするものの、不思議な高揚感が湧き上がる。
応援席の女子たちは、メガホンを手に一糸乱れぬ動きを見せている。私も初参加で手順が分からないなりに、周囲のリズムに声と動きを合わせた。
タイヤは想像以上に重のだろう、押し上げる肩に食い込むたび、男子たちの顔が歪む。
土を踏みしめる音が揃い、息が荒くなる。
「……すご」
思わず漏れた声は、歓声に紛れて消えた。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
走っているのは男子だ。
重いものを持ち上げ、土を蹴っているのも、前に出ているのも、全部。
――それなのに。
私の鼓動は、なぜか同じ速さで跳ねていた。声を出しているだけなのに、足先まで力が入る。息が詰まり、指先が熱くなる。
見ているだけ。
そう分かっているのに、
この高揚は、完全に“外”のものじゃなかった。
男子たちの動きに、女子の声が重なる。
タイミングを合わせ、間を詰め、力を乗せる。
誰かが前に出て、誰かが後ろから押す。
その繰り返しの中で、グラウンド全体が、一つの生き物みたいに脈打っていた。
(あ……)
これは、分かれてない。
走る側と、見る側。
前と後ろ。
男と女。
役割は違うのに、
高揚だけは、確かに一つだった。
教室では目立たない男子も、ここでは前に出ている。
汗をかき、歯を食いしばり、声を掛け合う。
「せーの!」
「まだいける、あと半周!」
怒鳴り声じゃない。
命令でもない。
互いをつなぎ止めるための声だった。
途中、足を取られた男子がいた。
転びかけた瞬間、左右から別の男子が肩を支え、タイヤの位置をずらす。
誰かを責める空気はない。
ただ、前に進む。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
よく見れば、チアたちも踊っているわけじゃない。
競技の流れを読み、声を揃え、タイミングを合わせて導いている。
「右、持ち上げて!」
「前方、大丈夫!」
「あと三歩!」
飛び交う声は、完全に統制された合図だった。
一人のヒーローが突き抜けるのではない。
巨大な負荷を、集団という一つの仕組みで受け止めている。
「……みんな、あんなに笑うんだ」
グラウンドの中央では、あの物静かな夏樹くんが、まるで別人のような咆哮を上げてタイヤに肩を入れている。
土が跳ね、体操着があっという間に茶色く染まっていく。
でも、彼は笑っていた。
背後で正確なリズムを刻む女子たちの声援を、まるで最高の指示のように受け取って、彼は迷いなく力を爆発させている。
泥だらけの小春が、夏樹と肩を叩き合い、歯を見せて笑っている。
教室では見せない、剥き出しの笑顔だった。
次の競技は、障害物リレー。
低い柵をくぐり、壁を越え、重りを引きずって次へ渡す。
力だけじゃない。
要領、間合い、呼吸。
「あの子、速い!」
細身で体力がなさそうな男子が、重り役を終え、走者に的確な合図を送っている。
自分は全力で走らない。
その代わり、最短の動線を示し、全体を前に進めている。
(役割って……こういうことなんだ)
応援席に目を向ける。
女子たちは競技を見ながら、声とリズムを揃える。
その中で、志織だけが少し離れ、ノートを広げていた。
「志織君、応援しないの?」
「俺?してるよ」
彼女はノートの端を指で叩く。
「ちゃんと」
意味は、まだ分からなかった。
競技が進むにつれ、校庭の空気は熱を帯びていく。
土埃、汗の匂い、笑い声。
勝っても負けても、男子たちは笑っていた。
グラウンドを駆けるのは、未来を託される若者たちだ。
声を掛け合い、手際よく動き、重いものを勲章のように運ぶ。
町で見かける現場職の人たちの姿が、ふと重なった。
誰かが動けば、誰かが自然に合わせる。
考えるより先に身体が反応し、配置が決まる。
――ああ、これは「先に型を渡されている」動きだ。
東側では、社会での立ち位置や支え方を、言葉より先に身体で教え込まれる。
一方で、西側は違う。
型を急がず、選択肢を並べ、あとから選ばせる。
どちらが正しいわけでもない。
ただ、順番が違うだけだ。
それぞれが、自分の役割を知っている。
ゴールラインを越えた瞬間、男子たちはその場に倒れ込んだ。
空を仰ぎ、肩で息をしながら、それでも笑っている。
歓声が上がる。
メガホンが鳴る。
ワイドパンツの裾が、風に揺れた。
私はその光景を、静かに胸に焼き付けた。
