女ー男じゃない!

 昼休みの教室は、窓を開けてもどこか空気がこもっていて、ざわざわした声が天井に引っかかっているように感じられる。
 菜月は、前の席で話しているクラスメイトたちをぼんやりと眺めていたが、ふと何かに引っかかったように首をかしげた。
「ねえ……前から不思議に思ってたんだけどさ」
 その声に、近くにいた私と志織は同時に顔を上げる。

「東側ってさ、『くん』づけはまだしも……異性に『ちゃん』づけ、けっこう普通に使うんだね」

 一拍。空気が止まったような短い沈黙。

「……?」
 私は思わず瞬きをした。菜月の言っている意味が、すぐには飲み込めない。向かいにいた志織も同じらしく、ポカンと鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして口を半開きにしている。

「あ、ほら」
 間が悪かったと思ったのか、菜月は少し早口で言葉を継いだ。
「西側だとさ、異性に対しては、仲良くなっても『さん』づけが多くて。高校生で『ちゃん』って、よっぽど仲良しじゃないと使わないから」
「あー……」
 志織がようやく腑に落ちたという顔で視線を上に向けた。
「言われてみれば……たまに西側の番組とか見ると、確かに男子が女子に『ちゃん』って、あんまり呼ばないかも。大学生になっても『くん』『ちゃん』、普通に使うよね、こっちは」
「小さい頃からそういうもの、って感じかな」
 志織はもっともらしく続けた。
「習慣というか……そう呼ぶのが自然だって教えられてる、みたいな」
「へえ……」
 菜月が相槌を打った、そのとき。
「なになに? なんの話?」
 ひょい、と軽く割り込んできた声に、私たちは一斉に振り向いた。
 小春だった。肩にかけたタオルをぶらぶらさせながら、いかにも楽しそうに輪の中に入ってくる。
「呼び方の話だよ」
 志織が説明すると、小春はぱっと目を輝かせた。

「あー、それね。それはさ――」
 一瞬、妙に芝居がかった間を置いてから、小春はやけに落ち着いた声で言った。
「制度が始まった頃ね。
肉体労働の男性が、頭脳職の女性を逆に指揮したがる場面が多かったんだって」
「怒鳴ったり、威圧したりすると萎縮して回らなくなるから、言葉を柔らかくするように指導されたらしいよ。
呼称もその一環。
相手を“刺激しない”ための――まあ、思想教育だね」
「……え」
「初耳なんだけど……」
 完全に信じかけた空気を感じ取った瞬間。
「――なーんちゃって!」
 小春は一気に表情を崩した。
「今の全部ウソ! 即興!
あー、みんなの顔、最高!」

「ちょっと!」
 志織がすぐにツッコミを入れる。
 張りつめかけた空気が弾け、教室に笑いが広がった。
「でもさ」
 菜月は素直に感心したように言った。
「今の即興でしょ? すごいね。頭いいっていうか……想像力豊か」
「え、マジで?」
 小春は目を丸くしてから、急に得意げになる。
「じゃあ物流志望はやめて、作家にでもなろうかな~」
「そんなの、小春ちゃん自慢の体力が泣くでしょ。判断能力スコアだっていい点取ったって鼻高々だったじゃない」
 志織が間髪入れずにに返す。
「あなたが握るべきはペンじゃなくて、ハンドルでしょ」
「ですよね~」
 小春は大げさに頷いて、両手でハンドルを切る仕草をしてみせた。
 ぶんぶん、と左右に振る動きに、また笑いが起こる。

その流れに乗るように、菜月が少し考え込む仕草をしてから言った。 「でもさ……東側の男子って、確かに全体的に話し方は柔らかいんだけど」  一拍置いて、言葉を選ぶ。 「なんというか、ごめんね。その……オカマっぽい話し方、ではないんだよね。そのへん、西側の友達から都市伝説みたいに聞いてたから、ちょっと身構えてたんだけど。安心した」

「え~、なにそれ~」  小春が即座に反応した。急に腰をくねらせ、声色を一段高くする。 「ちょっと夏樹ちゃん、聞いた~? 失礼しちゃうわよね~、も~、ぷんぷん!」

 わざとらしく頬を膨らませる仕草に、数人が噴き出す。

  志織は一拍も置かず、小春の方を見た。  そして無言のまま、両腕を胸の前でさっとクロスさせる。  
 顔は真顔のまま、眉だけがほんの少しだけ動いた。

 それだけで、十分すぎるほどだった。

「うん、キモい」 菜月も即答する。
一瞬の沈黙のあと、耐えきれなかったように笑いが起こった。

 その様子を眺めながら、私は胸の奥で小さく息をついた。
(……そうなんだよね)
 小春は、確かに軽い。
 菜月とどこか似た、不思議な明るさがあって、場の空気を一瞬で変えてしまう力がある。
 だからこそ、時々、胸の奥が得体のしれないざわつきを覚えることがあった。
(でも)
 小春は迷っていない。
 肉体労働で行く、と決めている。
 それを誇りに思っているのも、見ていれば分かる。
(小春を見てると……進路って、自由に決めていいんだ、なんて単純には思えないんだよね)
 軽やかさと、覚悟は、別物だ。
 小春は軽いまま、地に足がついている。
 その事実を、夏樹はただ静かに受け止めていた。