「菜月ちゃん!」
後ろから名前を呼ばれて、私は振り返った。
「ほんとに転校するんだよね?」
声をかけてきたのは、真帆だった。不安そうというより、単純に寂しそうな顔をしている。
「うん。もう決定。お母さんの震災復興支援の仕事があって、どうしても避けられなくて……」
軽く肩をすくめる。
説明するまでもない、私たちの世界ではありふれた「日常の事情」だ。
「急だよねー」
もう一人、奈緒が間に入る。
「ゴールデンウィーク終わったと思ったらさ、はい転校、みたいな」
「タイミング変すぎ」
「せめて新学期か夏休み明けでしょ」。
二人は顔を見合わせて、同時にため息をついた。
「西側ってさ」
真帆が声をひそめる。
「こっちとは、だいぶ違うんでしょ?」
「違うっていうか……」
「文化が違う、みたいな?」
奈緒が言う。
「東京の番組が関西で流れない、みたいな感じ?」
「あー、それ近いかも」
「たまに深夜ドラマで見るとさ」
真帆が身振りを交えて言う。
「異文化っていうより、異世界だよね」
「分かる」
二人がまた同時に言って、笑った。
私達の間では、こういうことがよくある。
誰かが言い出す前に、だいたい同じことを考えている。
「テレビと言えばさ、昨日特集やってたんだけど」
奈緒が急に声を弾ませる。
「ペロンチェの新作コーヒー、もう飲んだ?」
「まだ!」「私も!」
『行こうね〜』
打ち合わせなんてしてない。
なのに声がぴったり重なり、可笑しくて三人でまた笑った。
胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「でもさあ」
真帆が、急に思い出したみたいに言った。
「ほんとに遠く行っちゃうんだね。東側、だもんね」
「同じ国内なのに、やっぱ別世界って感じする」
「そんな大げさじゃないよ」
私は言いながら、少しだけ肩をすくめた。
地図で見れば、電車を乗り継げば日帰りだってできる距離だ。
でも――。
「生活圏が違う、ってやつ?」
真帆が言う。
「制度とか、学校とか」
「うん。まあ、そういうの」
私は曖昧に笑った。詳しく説明する気はなかった。
説明しようとすると、どうしても“正しさ”の話になるから。
「向こうってさ、男子がわりと大人しいってほんとかな?」
奈緒が声をひそめて聞く。
「テレビだと、なんか全体的に静かだよね」
「うん、でも規律ありすぎて笑っちゃうくらい」
「そう、それ!でも逆に疲れそう」
奈緒が即答し、真帆も頷く。
「こっちはさ、多少うるさくても許されるじゃん」
その言葉に、私は小さく笑った。
西側では、女子はよく喋る。
よく笑うし、よく迷うし、よく悩む。
それを、誰も止めない。
「じゃあさ、転校前ミッション、もう一個追加ね。制服で三人で写真撮ろ」
「あ、それいい」
「……卒業みたいじゃない?」
「違う違う。一時離脱。期間限定」
真帆の言い方が可笑しくて、胸が少しだけ軽くなった。
「期間限定、ね」
私は繰り返す。本当は、いつ戻れるのか分からない。でも、今はそれでいい。
「ねえ、菜月ちゃん。向こう行っても、ちゃんと連絡してよ。既読スルーとかしないから」
「するよ。信用してよ」
笑い合うこの空気。この距離感。私はこれを“普通”だと思って育ってきた。
だからまだ知らない。この“普通”が、どれだけ恵まれていたのかを。
*
――その日の夜。
昼間の慌ただしさが嘘みたいに、部屋は静まり返っていた。
段ボールの口を閉じるたび、ガムテープの裂ける音だけがやけに大きく響く。
「ごめんね」
不意に、母が言った。
「こんな急な形で、転入先の高校の寮に入れるつもりじゃなかったんだけど」
私は手を止めない。
「いいよ」
洋服を畳んでは、段ボールに入れる。
二年の途中で転校して、全寮制。
少し変わってるかもしれないけど、もう決まったことだ。
「どうせお母さんは被災地の近くで、寝る間もないくらい忙しいんでしょ」
母は小さく息を吐いた。
「……同じ東側にはいるけど、家に戻れる保証はないから」
母の言葉は、まるで自分自身を責める言い訳のように聞こえたけれど、私にそんな気は毛頭なかった。
この人の手がひどく荒れている理由くらい、私だって知っている。
しばらく沈黙が落ちる。
ふと、母の視線が机の上に置かれた私の成績表へと向いた。
「ねえ菜月。やっぱり……大学、別の学部を考えたほうがいいんじゃない? 法学部とか。あんた頭いいんだし、もっと別の道だって選べるのよ」
自分の荒れた指先を、さりげなく袖の中に隠しながら。
最前線で働く看護師。
その仕事の尊さも、同時に削り取られていく心身の重さも、母は誰よりも身をもって知っている。
「……いいよ」
私は段ボールの蓋を閉じた。
「大学には行く。でも、看護以外は考えられないよ」
ガムテープを、真っすぐに力強く引く。
「私、やっぱりお母さんみたいになりたいの」
母の肩が、わずかに揺れた。
「……頑固ね」
そう言って、母はそっと窓の方を向いた。
街灯の光が、横顔の輪郭だけを淡く照らしていた。
私は笑う。
「誰に似たと思ってるの」
私は笑って答えた。
胸の奥で、少しだけ何かが震えた気がしたけれど、声は出なかった。
自分で選んだ道を歩く。
それがどれだけ重いか、まだ全部はわかっていない。
それでも。
私は、逃げない。
そう、自分に言い聞かせるように、私は段ボールをしっかりと叩いた。
後ろから名前を呼ばれて、私は振り返った。
「ほんとに転校するんだよね?」
声をかけてきたのは、真帆だった。不安そうというより、単純に寂しそうな顔をしている。
「うん。もう決定。お母さんの震災復興支援の仕事があって、どうしても避けられなくて……」
軽く肩をすくめる。
説明するまでもない、私たちの世界ではありふれた「日常の事情」だ。
「急だよねー」
もう一人、奈緒が間に入る。
「ゴールデンウィーク終わったと思ったらさ、はい転校、みたいな」
「タイミング変すぎ」
「せめて新学期か夏休み明けでしょ」。
二人は顔を見合わせて、同時にため息をついた。
「西側ってさ」
真帆が声をひそめる。
「こっちとは、だいぶ違うんでしょ?」
「違うっていうか……」
「文化が違う、みたいな?」
奈緒が言う。
「東京の番組が関西で流れない、みたいな感じ?」
「あー、それ近いかも」
「たまに深夜ドラマで見るとさ」
真帆が身振りを交えて言う。
「異文化っていうより、異世界だよね」
「分かる」
二人がまた同時に言って、笑った。
私達の間では、こういうことがよくある。
誰かが言い出す前に、だいたい同じことを考えている。
「テレビと言えばさ、昨日特集やってたんだけど」
奈緒が急に声を弾ませる。
「ペロンチェの新作コーヒー、もう飲んだ?」
「まだ!」「私も!」
『行こうね〜』
打ち合わせなんてしてない。
なのに声がぴったり重なり、可笑しくて三人でまた笑った。
胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「でもさあ」
真帆が、急に思い出したみたいに言った。
「ほんとに遠く行っちゃうんだね。東側、だもんね」
「同じ国内なのに、やっぱ別世界って感じする」
「そんな大げさじゃないよ」
私は言いながら、少しだけ肩をすくめた。
地図で見れば、電車を乗り継げば日帰りだってできる距離だ。
でも――。
「生活圏が違う、ってやつ?」
真帆が言う。
「制度とか、学校とか」
「うん。まあ、そういうの」
私は曖昧に笑った。詳しく説明する気はなかった。
説明しようとすると、どうしても“正しさ”の話になるから。
「向こうってさ、男子がわりと大人しいってほんとかな?」
奈緒が声をひそめて聞く。
「テレビだと、なんか全体的に静かだよね」
「うん、でも規律ありすぎて笑っちゃうくらい」
「そう、それ!でも逆に疲れそう」
奈緒が即答し、真帆も頷く。
「こっちはさ、多少うるさくても許されるじゃん」
その言葉に、私は小さく笑った。
西側では、女子はよく喋る。
よく笑うし、よく迷うし、よく悩む。
それを、誰も止めない。
「じゃあさ、転校前ミッション、もう一個追加ね。制服で三人で写真撮ろ」
「あ、それいい」
「……卒業みたいじゃない?」
「違う違う。一時離脱。期間限定」
真帆の言い方が可笑しくて、胸が少しだけ軽くなった。
「期間限定、ね」
私は繰り返す。本当は、いつ戻れるのか分からない。でも、今はそれでいい。
「ねえ、菜月ちゃん。向こう行っても、ちゃんと連絡してよ。既読スルーとかしないから」
「するよ。信用してよ」
笑い合うこの空気。この距離感。私はこれを“普通”だと思って育ってきた。
だからまだ知らない。この“普通”が、どれだけ恵まれていたのかを。
*
――その日の夜。
昼間の慌ただしさが嘘みたいに、部屋は静まり返っていた。
段ボールの口を閉じるたび、ガムテープの裂ける音だけがやけに大きく響く。
「ごめんね」
不意に、母が言った。
「こんな急な形で、転入先の高校の寮に入れるつもりじゃなかったんだけど」
私は手を止めない。
「いいよ」
洋服を畳んでは、段ボールに入れる。
二年の途中で転校して、全寮制。
少し変わってるかもしれないけど、もう決まったことだ。
「どうせお母さんは被災地の近くで、寝る間もないくらい忙しいんでしょ」
母は小さく息を吐いた。
「……同じ東側にはいるけど、家に戻れる保証はないから」
母の言葉は、まるで自分自身を責める言い訳のように聞こえたけれど、私にそんな気は毛頭なかった。
この人の手がひどく荒れている理由くらい、私だって知っている。
しばらく沈黙が落ちる。
ふと、母の視線が机の上に置かれた私の成績表へと向いた。
「ねえ菜月。やっぱり……大学、別の学部を考えたほうがいいんじゃない? 法学部とか。あんた頭いいんだし、もっと別の道だって選べるのよ」
自分の荒れた指先を、さりげなく袖の中に隠しながら。
最前線で働く看護師。
その仕事の尊さも、同時に削り取られていく心身の重さも、母は誰よりも身をもって知っている。
「……いいよ」
私は段ボールの蓋を閉じた。
「大学には行く。でも、看護以外は考えられないよ」
ガムテープを、真っすぐに力強く引く。
「私、やっぱりお母さんみたいになりたいの」
母の肩が、わずかに揺れた。
「……頑固ね」
そう言って、母はそっと窓の方を向いた。
街灯の光が、横顔の輪郭だけを淡く照らしていた。
私は笑う。
「誰に似たと思ってるの」
私は笑って答えた。
胸の奥で、少しだけ何かが震えた気がしたけれど、声は出なかった。
自分で選んだ道を歩く。
それがどれだけ重いか、まだ全部はわかっていない。
それでも。
私は、逃げない。
そう、自分に言い聞かせるように、私は段ボールをしっかりと叩いた。
