女ー男じゃない!

 昼休みを告げる正午のチャイムが鳴ると同時に、グラウンドの空気が少しだけ緩んだ。
 照り返しは相変わらず強いけれど、さっきまで張りつめていた緊張が、ふっとほどける。

「はー……生き返る……」
 私はパイプ椅子に腰を下ろし、水筒の麦茶を一口飲んだ。
 中でぶつかった氷が、からん、と心地よい音を立てる。
 小さくなった氷ひとかけらをカリッと奥歯で溶かすように噛み砕いた。

 ふと、中学3年の頃、母と水筒を買いに行った時の事を思い出す。
「最近の真空波…動ダンボール…?ボル…ボト…?なんとかって……とにかくすごいんだってよ!夕方になっても氷が残ってるんですって」
 今思い出しても笑ってしまう。  
 最後は自分でも何を言っているのか分からなくなったようで、笑いながら諦めていた。このボトルは今でもお気に入りだ。

 「――そろそろ傷やへこみもあるし、新しいの買ったら?」
「いいの、このピンク色とキリンのメーカーロゴが可愛いの!」
 母と離れて寮生活になった今、あの時に買い替えなくて良かったな、としみじみ思う。

 一息ついたところで、保冷バッグからタッパーを取り出す。
 中身は、昨夜仕込んだレモンのはちみつ漬け。

 部活動の冷蔵庫を借りられないか佐藤先生に相談したら
「それくらいなら構いませんよ」
 あっさりと、しかも校庭に近いからと言う理由で、職員室の冷蔵庫を貸してくれた。
 正直、許可なしに持ち込むことについて何か言われないかと、いつもの冷静沈着な先生を前にして一瞬身構えたのだけれど、余計な心配だった。

「小泉さんは、気が利きますね。東側に来て苦労も多いでしょうに。早くクラスに馴染んでくれて嬉しいです」
 私が西側の人間だから合わせてくれているのだろうか。そう言って浮かべた柔らかい微笑みが、いつも教室で見ている雰囲気とは違って――なんだか親戚のお姉ちゃんみたい、と思った。……これは流石に先生に言ったら怒られるかも。

「菜月ちゃん、なにそれ?」
 近くにいた女子が、ひょいと覗き込む。
「レモンのはちみつ漬け。定番のやつ!」

 ぱちん、と蓋を開けると、甘酸っぱい香りがふわっと広がった。
「みんなも!ほら、私たちも応援で汗かいたでしょ?」

 そう言って紙コップを配り始めると、周りが一気にざわついた。
「僕たちもいいの?」 「もち!女子だって声出すのも体力いるんだから!」

 そこへ、競技を終えた男子たちが戻ってきた。
「なにそれ?」  「差し入れ? 神では?」

「はい、夏樹ちゃん」
 私は当然みたいに紙コップを差し出した。
「……え、いいの?」
「当たり前でしょ。午前中ずっと動いてたじゃん」
 一瞬だけ戸惑った顔をしてから、夏樹は受け取った。

 ひと口。
「……っ!」
「すっぱ!!」 「顔!! 顔やばいって!」
 クシャッとしたその顔に、周囲が一斉に笑う。

 でも次の瞬間
「……でも、これ、なんか目覚める」
「でしょ~?」
 他の男子も次々に手を伸ばす。
「スッパうまい!」 「す、すっぺえええ!!」
 砂埃まみれの輪の中で、甘酸っぱい香りと笑い声が混じる。
 暑さも汗も疲労も、一瞬どこかへ置き去りにされたみたいだった。

 少し離れたテントで、志織がその様子を見ている。
 端末は手に持ったまま、だけど画面は見ていない。
 レモンを一切れ、口に運ぶ。
「……ふふ、酸っぱい」
 
 やがて、午後の準備を促す放送が流れる。
「そろそろ行こっか」
 私は立ち上がり、歩き出そうとして――ふと思い立って、立ち止まった。

 振り返る。
 夏樹が、何事かとこちらを見ている。
 私は何も言わず、片手を上げた。
 夏樹は一瞬、きょとんとする。
「……?」
 それから、少し遅れて、同じように手を上げた。

 パチン。 

 乾いた音が、昼の空気に心地よく響く。
「午後も頑張って!」
「……うん」
 照れたように短く返す。
「なに今の」 「普通にいいじゃん」
 からかいでも、冷やかしでもない声が、周りから自然に飛ぶ。
 私はそのまま笑って、グラウンドへ向き直った。

 午後は、もっと激しい。
 でも今は――
 この一瞬だけで、十分だった。