帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

「ふうん、想像していたよりも……ずっと、普通なのね」

 氷の刃を滑らせるような声音が、応接間の静寂を切り裂く。
 雅は手にした茶碗を戻し、値踏みするような視線を志野へと投げかける。
 その瞳は、道端に転がる石ころでも眺めるかのように冷淡で、慈悲のかけらも見当たらない。

「朔夜様が私との婚約を破棄してまで選ばれた女性だというから、どんな方かと思えば。異能も持たぬ、穢れ血だなんて。鳴神の正妻の座に、相応しいとは到底思えなくてよ」

 投げつけられた言葉は鋭い棘となり、志野の胸の奥深くに突き刺さる。
 言い返そうと唇を震わせるものの、雅が纏う沈香の香りが、鋭い針となって志野の呼吸を奪った。
 部屋の空気が微かに震え、雅の背後に幻視される九尾の異能が、物理的な重圧となって志野の細い肩にのしかかる。

「ねえ……あなた、朔夜様に愛されているとでも思っているのかしら?」

 雅が口元に、残酷な弧を描いた。

「朔夜様があなたを選んだのは、私への当てつけに過ぎないわ。鳴神当主の片翼をあえて無価値な娘で埋める」

 窓の外へ視線を向けた雅の横顔は、完成された彫刻のように美しい。
 しかし、そこから放たれる尋常ならざる気配は、志野のように中途半端な存在を容易に握りつぶせるほどの峻烈さを孕んでいた。

「朔夜様は、私の異能の強さを疎まれたのよ……だからこそ、力のないあなたを選んだ。己の孤独を慰めるための、使い捨ての玩具としてね」

 雅がゆっくりと振り返る。
 その瞬間、沈香の香りが一段と濃密に漂い、志野の意識を眩ませた。
 圧倒的な格の差を突きつけられ、志野は自分が泥濘に咲く名もなき雑草であるかのような錯覚に陥る。

「だってねえ、朔夜様は、あなたに優しくしてくださるかしら?」

 志野の瞳の奥を覗き込むように、雅がその美貌を寄せてくる。
 凍てつくような美しさに射すくめられ、志野は指先の感覚を失うほど白く強張った。

「共に食事を? 夜を共に? ……ふふ、聞くまでもないわね。あの方があなたを妻として扱っていないことなど、その怯えた瞳を見ればわかるわ。あなたは、ただの代用品。私が座るはずだった椅子の空洞を、ただ埋めるためだけの死に損ないなのよ」

 ――代用品。

 その響きが、志野の心臓を無惨に貫いた。
 捨て石として生きてきた日々。
 自分の価値がその程度のものだという現実に、今更のように引き戻される。
 否定したくても、喉が凍りついたように動かない。
 朔夜が自分を一度として抱こうするどころか、遠ざけているのは紛れもない事実なのだから。

「私は……」

 志野は、消え入りそうな声で精一杯の抗いを口にした。

「……朔夜様を、信じております」

「信じる? 何を」

 雅は心底可笑しそうに、けれど底冷えするような憐憫の眼差しを志野に向けた。

「愚かね。けれど、いずれあなたも気づくでしょう。その脆弱な身体が、あの方の孤独を埋めることすら許されない『仮初めの供物』であることを」

 雅は優雅な仕草で扇子を広げた。
 そこから生じる微風さえも、志野の肌を切り裂く刃のように冷たい。
 彼女は扉に向かい、去り際に一度だけ肩越しに振り返った。

「一つ、忠告しておくわ。朔夜様に近づきすぎない方が良くてよ」

 雅の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。

「あの方の異能は、愛する者を焼き尽くす呪い。あの方の内に眠る『鵺』は、清らかな魂を喰らわずにはいられない凶獣。なぜ、あなたのような脆い器を選んだのか……その本当の意味を、考えたことがあって?」

 残虐な問いを残し、重厚な扉がピシャリと閉ざされた。

 一人残された志野は、抗いきれぬ絶望に膝から崩れ落ちた。
 畳に触れる手の震えが、どうしても止まらない。

 代用品。
 脆い……器?

 雅に突き付けられた言葉が、冷たい毒となって志野の思考を浸食していく。

 心の奥で、あの冷たくも美しい人の名を呼ぶ。
 あの美しき人に選ばれた理由は、志野が単に『壊れても惜しくない器』だからだ、ということなのだろうか。
 指先に残っていた朔夜の髪の感触が、あまりにも遠い幻想のように思えて、志野はただ、自分自身の肩を抱きしめて震えることしかできなかった。