帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 穏やかな陽光が廊下に格子状に影を落とす、ある昼下がりのこと。
 庭に咲く花を眺めていた志野は、不意に現れた背後の気配にふり返った。
 中年の女中であるタネが、音もなくそこに佇んでいる。

「奥方様、少しよろしいでしょうか」

 彼女は注意深く周囲に視線を走らせると、秘め事を語るような声音で言った。
 タネの声音には、湿り気を帯びた粘りがあった。

「朔夜様の婚約者であられたお方が、こちらへお見えになります」

 その言葉が、志野の心臓を氷の楔で打ち抜いた。
 
鷹司(たかつかさ)家の姫君……幼き頃より朔夜様の許嫁と定められていた、高貴なお方でございます」

 タネの瞳が、愉悦を隠しきれぬように細められた。
 語られる言葉の端々には、志野を揺さぶるための毒が丁寧に塗り込まれているようにも見える。

「朔夜様が婚約を破棄なさり、姫君は大層お怒りだとか。志野様は、謂わばその後釜として迎えられたようなもの。……名門の姫君が、今のこの状況をどのようにお思いか、想像に難くありません。どうぞ、ご用心なさいませ」

 そうして、意味ありげな微笑を残し、女中は溶けるように去っていった。
 一人残された志野は、その場に釘付けられたように立ち尽くす。

(……なぜ、私だったの)

 筆頭仙家である鳴神に並ぶ名門、鷹司家。
 その姫君を退けてまで、力なき庶子である自分が鳴神当主の妻として選ばれた理由。
 朔夜が、何を求めて自分をこの、新しい檻に閉じ込めたのか、志野にはまだ知る由もない。

 母屋の表門付近に、豪奢な四輪駆動車が滑り込んできた。
 静寂を切り裂くような低く唸る音に誘われ、志野は離れの窓からその光景を盗み見る。

 車から降り立ったのは、一輪の毒を孕んだ大輪の牡丹のような女性だ。
 背中まで流れる漆黒の長髪。
 研ぎ澄まされた磁器のごとき肌。
 その凛とした立ち居振る舞いは、見る者の目を灼くほどに美しい。
 彼女こそが、鳴神家に並ぶ日本或国七仙家がひとつ、鷹司雅(たかつかさみやび)
 九尾の異能を宿す、誇り高き姫君であった。

「朔夜様に、お目にかかりたいと存じます」

 家令の困惑を、雅は鈴を転がすような、されど峻烈な声音で退けた。

「朔夜様はあいにく、執務中でございます……」

「構いませんわ。ええ、いくらでも待ちます。あの方に『借り』がございますもの」

 屋敷の空気は一瞬にして、彼女が纏う濃密な沈香の香りに支配された。

 右近が青ざめた顔で離れへと駆け込んでくる。

「志野様、大変です! 鷹司の姫様が、志野様とお会いしたいと……!」

「私に……ですか?」

 志野の胸の鼓動が、激しく早鐘を打つ。

「はい。お断りすることも可能ですが……」

 右近の歯切れは悪い。
 鷹司の威光は、鳴神当主の側近である彼にとっても無視できぬ重圧なのだろう。

「大丈夫です、右近さん。お会いいたします」

 志野は震える指先を握りしめ、静かに深呼吸を繰り返した。
 鏡に映る己の姿は、あまりに儚く、名門の姫の前に出すには頼りない。

 母屋の応接間に足を踏み入れた瞬間、異様なほどの霊圧が志野の全身を圧した。
 部屋の中央、深紅のソファに腰を下ろした雅は、優雅な仕草で茶碗を置いていた。
 志野の姿を認めると、彼女の双眸に冷徹な光が宿る。

「あら、あなたが、志野さんね」

 氷の刃を滑らせるような声音が、静寂を裂いた。

「……はい」

「座りなさい」

 慈悲を許さぬ絶対的な命令。
 志野はその重圧に抗えず、導かれるように向かいの椅子へと腰を下ろした。
 雅の視線が、志野の顔立ち、装い、そしてその肌の奥に流れる血の匂いまでもを暴くように、執拗に這い回る。

 それは、獲物を品評する捕食者の目。
 あるいは、己から愛しいものを奪った泥棒を値踏みする、残酷な女神の瞳であった。