帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 鳴神家の台所は、生家のそれよりもずっと広く、最新の設備が整っていた。
 志野は今、左近の指導のもと、朔夜の好むお茶の淹れ方を教わっている。

「……温度が重要です。朔夜様は、熱すぎるものを好まれません。少し冷ましたお湯で、じっくりと茶葉を開かせてください」

 無表情な左近の言葉を、一言も漏らさぬよう心に刻む。

 水無月の家では、自分が飲むものなら、まだしも、大切な誰かのためにお茶を淹れる機会など一度もなかった。
 お茶は『選ばれた人』が『選ばれた人』に供するもので、穢れている志野が触れていい聖域ではなかったからだ。

 志野の手元をじっと見つめていた左近が、静かに頷いた。

「良い香りです。志野様、貴女の淹れるお茶には……不思議と、棘がありませんね」

「棘、ですか?」

「ええ。朔夜様は、常に周囲の悪意や恐怖に晒されています。だからこそ、その静かさが、今のあの方には必要なのかもしれません」

 左近の言葉に背中を押され、志野はお盆を手に取った。
 目的地は、母屋の二階。
 あの、重厚な扉の向こう側。

 廊下を歩く足音が、緊張でわずかに震える。
 扉の前で深く息を吸い込み、志野は静かにノックをした。

「……朔夜様。志野です。お茶をお持ちしました」

「……来るなと言ったはずだが」

 中から返ってきたのは、昨日よりもさらに険しい、拒絶の声。
 心臓が途端に縮こまる。
 それでも、今の志野は昨日までの彼女ではなかった。

「ご挨拶ではなく、お茶をお持ちしただけです。左近さんに教わって、精一杯淹れました」

 扉の向こうから、盛大な溜息が漏れ聞こえてくる。
 返事は無い。
 このまま無理に押し入っても構わないのだろうか。

 振り返ると、背後で控えていた左近が静かに頷いた。
 自分の意志でここまで来たのだ。
 志野はなけなしの勇気を奮い立たせ、返事のないままの扉をゆっくりと開いた。

 書斎の中は、昨日と同じようにピリピリとした空気が張り詰めている。
 窓際の机に向かう朔夜は、こちらを見ようともせず、書類にペンを走らせていた

「……しつこいな。君は、自分の立場が分かっていないのか」

「分かっています。私は、書類上の妻です。……だから、妻としてではなく、この屋敷の者としてお茶を運んできました」

 志野は机の端、仕事の邪魔にならない場所へ、そっと湯呑みを置いた
 
 ふわり、と。
 茶葉の清々しい香りと、どこか懐かしい、陽だまりのような温かい香りが部屋に広がっていく。

「…………」

 朔夜のペン先が、ピタリと止まった。
 彼は眉間に深い皺を寄せたまま、吸い寄せられるように視線を湯呑みへと向けた。

「……下がれ」

 声は相変わらず冷たかったが、そこには先ほどのような鋭い拒絶は混じっていない。
 志野は深く一礼し、音を立てないように部屋を後にした。

 ◇

 扉が閉ざされ、部屋は再び静寂に包まれた。
 いや、静寂ではない。
 あの娘が置いていった茶の香りが、部屋の中の澱みを洗い流していくような感覚がある。

(……うるさい香りだ)

 朔夜は忌々しげに書類を睨んだ。
 右近と左近からの報告によると、自分を恐れず、あまつさえ「支えたい」などと抜かした女。
 彼女から、漂うかぐわしい気配に、暴れようとしていた鵺が、茶の柔らかな香りに、微かに喉を鳴らして鎮まった。

 同時に、腹の底からどろりとした飢えが、せり上がる。
 彼女がこの部屋に残していった、陽だまりのような甘い気配。
 それをひとたび知ってしまえば、今度はその源泉――彼女の白い首筋に歯を立て、すべてを奪いたいという衝動に駆られる。
 
 伸ばしかけた手を一度引っ込め、彼は迷うように視線を彷徨わせる。
 けれど、最後に抗いきれず、朔夜は冷めかけた湯呑みを手に取った。
 棘のない、柔らかな温かさが全身に染み渡っていく。

「…………」

 不快だ、と口に出そうとして、言葉が止まる。
 飲み干した後の茶碗の底に残るわずかな葉の欠片が、まるで自分の理性を蝕む彼女の存在のように見えた。
 氷のような心に、蠱惑な滓が紛れ込む。

 あの折れそうなほど細い腕の女が、自分の呪われた日常に、わずかな安らぎをもたらしたことを。
 そして、その安らぎが、彼女を喰らいたいという致命的な渇きをさらに深く、鋭く研ぎ澄ませていくことを。
 認めたくなかった。