帝都鵺恋綺譚


 離れに戻った志野は、濡れた羽織を脱ぎ、一人暗い部屋で座り込んでいた。
 震える自分の指先を見つめる。

 生家では、何をやっても中途半端で、特別な仕事は与えられなかった。
 ただ、息を潜めて、父や兄の目に触れないように。
 水無月家に、留め置かれ呼吸だけをしている存在だったのだ。
 いてもいなくても変わらない、透明な存在。

 けれど、先ほど朔夜に触れた刹那。
 志野の心の大部分を締めている、空虚な場所から、温かい水が溢れ出すような感覚があった。
 
 激しい雷に打たれても、熱いとは感じなかった。
 彼の悲鳴が、痛みが、自分のことのように伝わってきた。

 ……止まって。

 そう願った瞬間、世界は嘘のように凪いでいった。

「……初めて、かも」

 必要とされたわけではない。
 むしろ、ひどい言葉で追い出された。
 
 けれど、彼が苦しみから一時的にでも解放された切っ掛けは自分が声を掛けた事か、触れたことかもしれないという事実が、乾いた心に、存在していてもいいという理由を与えてくれた気がした。

「……嫌われてもいい。二度と来るなと言われても、私は」

 水無月の家に戻れば、またあの冷たい檻のような生活が待っているだけだ。
 ならば、この屋敷で、あの孤独な人のためにできることを探したい。
 
 たとえ、この先、ずっと、あの方に触れることが許されなくても。


 翌朝には、昨夜の嵐が嘘のように、空は澄み渡っていた。
 志野は早朝から身支度を整え、母屋へと向かった。
 玄関先で鉢合わせたのは、酷い隈を作った顔で出てきた右近だ。

「あ、志野様……! 昨夜はすみませんでした。無事でしたか?」

「はい、右近さん。あの……朔夜様は?」

「今は落ち着いて眠っておられますよ。……正直、驚きました。志野様が部屋に入った後、あんなに早く異能が鎮まるなんて」

 右近の隣で、左近が思案深げに志野に視線を寄こす。
 
「志野様……貴女は本当に、異能を持たない『無能』なのですか?」

「……付与の儀で特に仙詔は賜わりませんでした」

 懐疑の視線に晒されながらも、志野は真っ直ぐに二人を見つめかえす。

「右近さん、左近さん。お願いがあります。私に、朔夜様のことをもっと教えてください。私は、あの方をお支えしたいんです。……『鳴神の妻』としてではなく、一人の人間として」

 二人は目を見合わせ、やがて右近が吹き出した。
 
「ははっ、朔夜様も形無しだな。あんなに冷たくしたのに、こんなに綺麗な奥さんに惚れ直されるなんて」

「……右近、茶化すな。志野様、あの方は不器用を通り越して、自分の幸福を拒絶しているような方です。近づけば、また酷いことを言われるかもしれませんよ?」

「そういうのは、慣れています。……それに、昨夜のあの方の瞳は、怒っているようには見えませんでしたから」

 寂しくて、怖くて、震えている子供のようだった。
 志野の言葉に、わずかに目を見開いた左近さんは、深く頭を下げた。

「承知いたしました。……まずは、朔夜様が好まれるお茶の淹れ方からお教えしましょうか。朔夜様は嗅覚が非常に鋭い。お茶の香りは、時に異能の昂ぶりを左右します」

 離れでじっとしているだけの、書類上の妻は、もういない。

 帝都の隅っこで、光を知らずに育った志野は今、初めて自分から光を掴もうと、小さなされど大きな一歩を踏み出した。