その夜、志野は眠れなかった。
離れの寝室から窓の外を眺めると、暗闇に沈む母屋の二階に、一点だけ明かりが灯っているのが見える。
あの部屋に、昼間、自分を冷たく突き放した夫――鳴神朔夜がいるのだ。
書類上は確かに夫となった人。
不思議と憎しみは湧いてこなかった。
代わりに胸に残ったのは、あの紫紺の瞳に一瞬だけ浮かんだ、ひどく熱を帯びた、それでいて飢えたような深い色だった。
(……あれは、何だったのだろう)
翌朝、朝食を済ませた志野は、所在なさに任せて庭を散歩していた。
水無月の家では雑事に追われていたが、ここでは何もすることがない。
ふと、後ろから明るい声がかけられた。
「おはようございます、志野様! 昨夜はよく眠れましたか?」
振り返ると、婚儀の際に代理を務めてくれた右近が、屈託のない笑顔で手を振っていた。
隣には、鏡合わせのような顔立ちをしながらも、生真面目な表情を崩さない左近が立っている。
「おはようございます……右近さん、左近さん」
「そんなに畏まらないでください! 俺たちは朔夜様の側近ですが、志野様にお仕えする立場でもあるんですから」
右近は朗らかに笑った。
右近とは対照的な表情のまま左近は志野の顔をじっと見つめ、静かに問いかけた。
「……昨日、朔夜様とお会いになったそうですね。何か……ありましたか」
「いえ、特には……。ただ、ひどく拒絶されてしまいました。勝手にお部屋に伺ったことを、お叱りを受けてしまったようで……」
志野が項垂れると、右近が「あちゃー」と頭をかいた。
「いやぁ、それは災難でしたね。でも安心してください。朔夜様、ああ見えて今は絶賛、我慢大会の最中ですから。志野様があまりに――その、美味しそうな気配をさせてるもんで、どうしても余裕がなくなっちゃって」
「……美味しそう?」
志野が瞬きを返すと、隣の左近の空気が一瞬で凍りついた。
「右近。……言葉が過ぎるぞ」
「あ、いや! 変な意味じゃないですよ!? ただその、志野様の気が、朔夜様の異能に強く干渉するというか――」
「右近の戯言は忘れてください」
左近が鋭く遮り、志野に向かって深く頭を下げた。
「あの方は、貴女を遠ざけているのではありません。他者を損なわないために、自らを檻に閉じ込めておいでなのです。ですから志野様……どうか、不用意にあの方の檻を抉じ開けようとはなさらないでください」
「檻……?」
その言葉の意味を問い返そうとした、その時だった。
晴天だった空が、一瞬にして墨を流したような黒雲に覆われた。
地を這うような低い雷鳴が、屋敷全体を震わせる。
「まずい、始まったか。……右近、行くぞ!」
二人の表情が瞬時に戦闘者のものへと変わる。
「志野様は離れへお戻りください! 外は危険です!」
「何が起きているんですか!?」
「朔夜様が……」
二人は風を裂くような速さで母屋へと駆けていった。
志野は立ち尽くす。
雷鳴がまた響き、木々が悲鳴を上げるように激しく揺れる。離れに戻ろうとしたその瞬間――。
バリバリッ!!
目の前の松の木に稲妻が落ちた。
悲鳴を上げる間もなく、志野は地面に倒れ込んだ。
耳鳴りの中、胸を埋め尽くしたのは、これが自然の雷などではないという確信だった。
(……悲鳴、みたい)
誰かが、泣いている。
苛まれ、助けを求めて吠えている。
志野の脳裏に、昨日見た朔夜の瞳が浮かんだ。
気がつくと、彼女は立ち上がっていた。
指示に背き、離れではなく母屋に向かって走り出していた。
使用人たちが「奥方様、危のうございます!」と叫ぶ声を背に、彼女は階段を駆け上がる。
二階の廊下の突き当たり。
重厚な扉の前に、右近と左近が必死に結界を張っていた。
「朔夜様! 鎮まってください!」
「志野様!? なぜここに――」
左近の叫びを無視して、志野は扉に手を伸ばした。
その瞬間、青白い火花がバチバチと弾け、彼女の指先を打つ。
――痛くない。
不思議な感覚だった。
雷とは本来、破壊現象である。
扉が、吸い込まれるように開いた。
部屋の中は、狂ったような雷光に満ちていた。
稲妻の渦の中、中央で一人の男が膝をついている。
朔夜が自分の頭を抱え、獣のような低い唸り声を漏らしていた。
背中から迸る雷は、もはや制御を失い、部屋の調度品を焼き焦がしている。
「朔夜様……」
志野は一歩ずつ、嵐の中心へと進んだ。
雷光が彼女を避けるように道を開く。
苦痛に歪む彼の前に膝をつき、志野は自然な動作で、その熱を帯びた頭にそっと触れた。
その瞬間。
嘘のように、世界から音が消えた。
雷鳴は止み、稲妻は霧散する。
朔夜が、ゆっくりと顔を上げた。
濁っていた瞳が、次第に澄んだ紫紺へと戻っていく。
彼は目の前の娘を、驚愕と、そして狂おしいほどの懐かしさが混じった目で見つめた。
「……君は……」
掠れた声が、彼女の名を呼ぼうとした。
その瞳が、彼女の細い首筋に、露わになった白い肌に釘付けになる。
朔夜の喉が、大きく動いた。
彼ははっとして、何かに弾かれたように志野の手を激しく振り払う。
「……触れるな!!」
それは、怒りというよりも、恐怖に近い絶叫だった。
「なぜここに来た」
「私はただ、貴方が苦しそうだったので……」
「勝手な真似をするな! 二度と、俺に近づくなと言ったはずだ!」
彼は立ち上がり、激しく荒い呼吸を繰り返しながら彼女から距離を取った。
その瞳の奥には、鋭い殺気と――それ以上に深い、自分自身への嫌悪が渦巻いている。
彼は、知ってしまったのだ。
彼女が触れた刹那に暴走が鎮まった奇跡以上に、このまま彼女の首筋に食らい付きたいという、理性を捻じ伏せる咆哮が脳内を支配したことを。
「……下がれ。次は、本当に許さない……」
震える声で告げられた拒絶。
志野はその瞳の奥に、誰にも触れさせぬよう己を檻に閉じ込める、朔夜の深い孤独を見た気がした。
離れの寝室から窓の外を眺めると、暗闇に沈む母屋の二階に、一点だけ明かりが灯っているのが見える。
あの部屋に、昼間、自分を冷たく突き放した夫――鳴神朔夜がいるのだ。
書類上は確かに夫となった人。
不思議と憎しみは湧いてこなかった。
代わりに胸に残ったのは、あの紫紺の瞳に一瞬だけ浮かんだ、ひどく熱を帯びた、それでいて飢えたような深い色だった。
(……あれは、何だったのだろう)
翌朝、朝食を済ませた志野は、所在なさに任せて庭を散歩していた。
水無月の家では雑事に追われていたが、ここでは何もすることがない。
ふと、後ろから明るい声がかけられた。
「おはようございます、志野様! 昨夜はよく眠れましたか?」
振り返ると、婚儀の際に代理を務めてくれた右近が、屈託のない笑顔で手を振っていた。
隣には、鏡合わせのような顔立ちをしながらも、生真面目な表情を崩さない左近が立っている。
「おはようございます……右近さん、左近さん」
「そんなに畏まらないでください! 俺たちは朔夜様の側近ですが、志野様にお仕えする立場でもあるんですから」
右近は朗らかに笑った。
右近とは対照的な表情のまま左近は志野の顔をじっと見つめ、静かに問いかけた。
「……昨日、朔夜様とお会いになったそうですね。何か……ありましたか」
「いえ、特には……。ただ、ひどく拒絶されてしまいました。勝手にお部屋に伺ったことを、お叱りを受けてしまったようで……」
志野が項垂れると、右近が「あちゃー」と頭をかいた。
「いやぁ、それは災難でしたね。でも安心してください。朔夜様、ああ見えて今は絶賛、我慢大会の最中ですから。志野様があまりに――その、美味しそうな気配をさせてるもんで、どうしても余裕がなくなっちゃって」
「……美味しそう?」
志野が瞬きを返すと、隣の左近の空気が一瞬で凍りついた。
「右近。……言葉が過ぎるぞ」
「あ、いや! 変な意味じゃないですよ!? ただその、志野様の気が、朔夜様の異能に強く干渉するというか――」
「右近の戯言は忘れてください」
左近が鋭く遮り、志野に向かって深く頭を下げた。
「あの方は、貴女を遠ざけているのではありません。他者を損なわないために、自らを檻に閉じ込めておいでなのです。ですから志野様……どうか、不用意にあの方の檻を抉じ開けようとはなさらないでください」
「檻……?」
その言葉の意味を問い返そうとした、その時だった。
晴天だった空が、一瞬にして墨を流したような黒雲に覆われた。
地を這うような低い雷鳴が、屋敷全体を震わせる。
「まずい、始まったか。……右近、行くぞ!」
二人の表情が瞬時に戦闘者のものへと変わる。
「志野様は離れへお戻りください! 外は危険です!」
「何が起きているんですか!?」
「朔夜様が……」
二人は風を裂くような速さで母屋へと駆けていった。
志野は立ち尽くす。
雷鳴がまた響き、木々が悲鳴を上げるように激しく揺れる。離れに戻ろうとしたその瞬間――。
バリバリッ!!
目の前の松の木に稲妻が落ちた。
悲鳴を上げる間もなく、志野は地面に倒れ込んだ。
耳鳴りの中、胸を埋め尽くしたのは、これが自然の雷などではないという確信だった。
(……悲鳴、みたい)
誰かが、泣いている。
苛まれ、助けを求めて吠えている。
志野の脳裏に、昨日見た朔夜の瞳が浮かんだ。
気がつくと、彼女は立ち上がっていた。
指示に背き、離れではなく母屋に向かって走り出していた。
使用人たちが「奥方様、危のうございます!」と叫ぶ声を背に、彼女は階段を駆け上がる。
二階の廊下の突き当たり。
重厚な扉の前に、右近と左近が必死に結界を張っていた。
「朔夜様! 鎮まってください!」
「志野様!? なぜここに――」
左近の叫びを無視して、志野は扉に手を伸ばした。
その瞬間、青白い火花がバチバチと弾け、彼女の指先を打つ。
――痛くない。
不思議な感覚だった。
雷とは本来、破壊現象である。
扉が、吸い込まれるように開いた。
部屋の中は、狂ったような雷光に満ちていた。
稲妻の渦の中、中央で一人の男が膝をついている。
朔夜が自分の頭を抱え、獣のような低い唸り声を漏らしていた。
背中から迸る雷は、もはや制御を失い、部屋の調度品を焼き焦がしている。
「朔夜様……」
志野は一歩ずつ、嵐の中心へと進んだ。
雷光が彼女を避けるように道を開く。
苦痛に歪む彼の前に膝をつき、志野は自然な動作で、その熱を帯びた頭にそっと触れた。
その瞬間。
嘘のように、世界から音が消えた。
雷鳴は止み、稲妻は霧散する。
朔夜が、ゆっくりと顔を上げた。
濁っていた瞳が、次第に澄んだ紫紺へと戻っていく。
彼は目の前の娘を、驚愕と、そして狂おしいほどの懐かしさが混じった目で見つめた。
「……君は……」
掠れた声が、彼女の名を呼ぼうとした。
その瞳が、彼女の細い首筋に、露わになった白い肌に釘付けになる。
朔夜の喉が、大きく動いた。
彼ははっとして、何かに弾かれたように志野の手を激しく振り払う。
「……触れるな!!」
それは、怒りというよりも、恐怖に近い絶叫だった。
「なぜここに来た」
「私はただ、貴方が苦しそうだったので……」
「勝手な真似をするな! 二度と、俺に近づくなと言ったはずだ!」
彼は立ち上がり、激しく荒い呼吸を繰り返しながら彼女から距離を取った。
その瞳の奥には、鋭い殺気と――それ以上に深い、自分自身への嫌悪が渦巻いている。
彼は、知ってしまったのだ。
彼女が触れた刹那に暴走が鎮まった奇跡以上に、このまま彼女の首筋に食らい付きたいという、理性を捻じ伏せる咆哮が脳内を支配したことを。
「……下がれ。次は、本当に許さない……」
震える声で告げられた拒絶。
志野はその瞳の奥に、誰にも触れさせぬよう己を檻に閉じ込める、朔夜の深い孤独を見た気がした。



