帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁


 鳴神神社。
 それは、志野にとっても、ただの神域ではない。
 幼い頃、境界の村にいた志野は、母のおつとめを待つ間、何度か境内に迷い込んだことがある。
 おぞましい呻き声は、地の底の方から響いてきた。

 鳴神の血は、強すぎるが故に己を焼き尽くし、やがて理性を失って「凶喰」へと堕ちる。
 だが、誇り高き鳴神は、狂った身内を討伐することはしない。
 この神社の地下深くにある座敷牢に幽閉し、餌を一切与えず、自らの仙気が尽きて干からびるまで、ただ暗闇の中で放置し続けるという。

 暗い牢の格子の前で少年が、餓死していく祖父の姿を一人でじっと見つめていた光景。
 その背中があまりにも孤独で、恐ろしくて、幼い志野は思わず息を呑み、足元の小枝を踏んで音を立ててしまった。

 振り返った少年の瞳は、絶望と恐怖に濡れていた。
 石段の下で志野の血を舐め取った時の、あの狂乱した獣のような目とは違う。
 ただの怯えた少年の目だった。

『……またお前か。俺もいつか、あんな風に狂って死ぬ』

 自嘲するように呟いた、少年の震える声。

『喰われたくないなら、さっさと行けよ』

『……あの』

 志野は震える足で一歩、少年へと近づいた。
 懐から取り出したのは、母が野いちごと蜂蜜を練り合わせて作ってくれた桃色の飴玉。

『あまいのたべたら、おなかいっぱいなるよ』

 少年は、信じられないものを見るような目で志野を見た。
 そして、吐き捨てるように笑う。

『そんなもん食えるか。俺たちは人を喰う化け物なんだよ。飴なんかで腹が膨れるか』

『しのは、いっぱいになるよ……あめひとつでも』

 少年の隣に勇気を振り絞って、しゃがみ込み、手を差し出す。
 骨ばかりが目立つ細く小さい手。
 自分よりも幾つか幼い子供が、慰めようとでもしているのだろうか。
 無言のまま差し出され続ける白い手に、観念したよう、桃色の飴玉を取り上げる。

『……甘いな』 

『うん、おいしい。おなかいっぱい』

 自分に言い聞かせるように言った瞬間、志野の腹の虫がぐうと鳴った。
 慌てて、衣の上からお腹を隠すようにぎゅっと抑え込む。
 呆れたような視線を寄こしながらも少年は『腹、減ってるんじゃないか』と笑う。

『へってない、だいじょうぶ』

 少年が自分の懐の中を探り、天を仰ぐ。

『あー、今何も持ってきてないな。今度、やるわ、何か。おまえ、ショコラってやつ食べたことある?』

『しょこ、しらない』

『次会った時に、やるよ。飴のお返し』

 少年が小指をこちらに向ける。
 意図する事が分からずただ首を傾げた志野に、少年は苦笑を落とし、自分の指を、荒れた指に絡ませた。

『げんまん』

(――あれは、幼き日の、朔夜様)
 
 彼がどれほどの恐怖を抱えて、誰かを傷つけないよう己を檻に閉じ込めようとしていたのか。
 今なら痛いほどにわかる。

(だから今度は、私が貴方を救う)

 志野は震える指先を握り込み、真っ直ぐに前を向いた。

 「……志野」

 不意に、朔夜の大きな掌が、震える志野の手を白無垢の袖ごと包み込んだ。

 「怯えるな。地下で餓死を待つ亡霊どもの声など、お前が聞く必要はない」

 朔夜の紫紺の瞳が、優しく、けれど狂おしいほどの熱を帯びて志野を見下ろしている。

「朔夜様、私は怯えてなどありません」

 静かに見つめ返される志野の瞳に、最早迷いは無い。

「思い出していたのです」

 朱をさした唇が、音もなく言葉をなぞる。

げんまん(・・・・)

「お前……」

 すべてを語らない志野の唇の動きを読み取った朔夜が、瞠目する。 
 幼い時に、戯れに交わした、約束。
 鮮やかに脳裏に蘇える血の味に、朔夜はごくりと喉をひくつかせる。
 否、この一族の呪いそのものが落とされている場所で、自分は。
 呪いの鎖を断ち切るために、彼にとって唯一の女を、妻とするのだ。

「しょこ、未だいただいておりませんね」

 ちらりと上目遣いで寄越された志野の瞳に、かつての空虚さの影は無い。
 鳴神に嫁いで数ヵ月。戸惑い、怯えた視線を向けていた色も。

 朔夜は刹那だけ天を仰ぎ、後ろを歩いていた妻を横に並ばせた。
 この先は、一人で行く道ではない。
 背後を追わせるのでは無く、隣に立って共に。