朔夜は、腕の中で小刻みに震える志野を、さらに強く抱きしめた。
「……朔夜様。私、やっぱり……」
「何も言うな。……奴の言葉は、俺とお前を害する価値さえない」
そう吐き捨てる朔夜の胸の鼓動は、いつになく荒々しく波打っていた。
志野を失うことへの、無意識の恐怖。
そして、彼女をこの腕で守り抜くために、帝都のすべてを敵に回すことさえ厭わぬ狂気が、彼の瞳に宿り始めていた。
同時に、鏡夜の放った言葉は、毒となって志野の耳の奥に残り続けていた。
(半分人間の腹で、鳴神の雷を宿せるとは思えない)
一人で入浴することを許されている湯屋からの帰り道、氷のような宣告を振り払うように、志野は先日足を踏み入れた、月光さえ届かぬ影の奥へと向かった。
眼前に、数百年前に絶命したはずの鳴神の守護木が、骸を晒して立っている。
最初の妻を亡くしたのちにこの地を去り、漂泊の歌人となった初代鳴神当主、清嵐が愛で、そしてその美しさを罪だと難じた桜。
鳴神の桜が背負わされたのは、美しさではなく破壊の軛、だった。
歴代当主の荒ぶる鵺の雷を身をもって受け止め続け、やがて内側から炭化して果てたその姿は、朔夜が抱える孤独な死神としての宿命そのものに見えた。
触れれば崩れ落ちてしまいそうなほど、無残に黒く焦げた樹皮。
そこからは、とうの昔に命の巡りを止めた絶望の匂いがする。
「……貴方も、あの人と同じように責められてきたの?」
志野は、ひび割れた黒い幹に、慈しむように掌を当てた。
冷たき骸となったはずの木の肌。
だが、志野の掌を通して、奥底に澱む微かな――本当に微かな諦観と切願が、脈を打つように伝わってくる気がした。
花を咲かせたいと願う本能。
ただただ、在るがままに美しくありたいと願う無垢な意志。
鳴る神の いかづち落つる 咎桜
愛でる心に 罪はなかりき
晩年、漂泊の歌人となった清嵐が詠んだその歌が、桜の根元に埋もれるようにして立つ、苔むした石碑に刻まれている。
桜が美しいから人が来るのではない。
人の心に身勝手な欲があるから、桜を罪人に仕立て上げるのだ。
朔夜の力が恐ろしいのではない。
その力に怯え、己の弱さを棚上げして彼を呪いだと断じる周囲の心こそが、彼を化け物へと変えてしまう。
志野には、彼らの抱える理不尽な痛みが、まるで自分のことのように理解できた。
「もう、自分を責めなくていい、誰も皆、貴方も朔夜様も」
志野が瞳を閉じ、祈るように幹へ額を預けた。
刹那。
トクン、と。
志野の右腕に刻まれた白金の紋章が、心臓の鼓動に呼応するように激しく脈を打った。
まるで、すべてを焼き尽くす無慈悲な雷とは対極にあるような。
凍りついた夜を溶かす黎明のような、どこまでも優しく、暖かな光。
抑えきれぬほどの祈りの熱量が志野の掌から溢れ出し、死に絶えていたはずの桜の幹へと、白銀の波となってとめどなく流れ込んでいく。



