帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 重厚な桃花心木(マホガニー)の机の上には、罪人の処罰や凶喰の討伐記録が山と積まれ、室内に満ちるのはインクの香り。
 だが、その仕事机の中心に、あまりにも不釣り合いで甘美な体温が、ひとつ。

「あの……朔夜様。これでは、お仕事の邪魔に……」

 志野は、朔夜の膝の上に収まったまま、申し訳なさそうに身を縮めた。
 軍服の硬い襟が、彼女の背中にカチカチと微かな金属音を立てて触れる。
 朔夜の逞しい左腕は志野の細い腰を完全に拘束し、右腕だけが淡々と書類に万年筆を走らせていた。

「邪魔だと思うなら、大人しくしていろ。……それとも、またあのような汚らわしい茶屋にでも逃げ出すつもりか」

 低い、鼓膜を痺れさせるような声が忍び込んでくる。
 朔夜は視線を書類から外さぬまま、志野のうなじに熱い吐息を吹きかけた。

 門仲町の惨劇から救い出されて以来、朔夜は志野を片時も離そうとはしない。
 流石に職場に連れ込もうとした際は、右近と左近も必死に説得してくれ、こうして自宅へ持ち帰る作業を増やすことで朔夜は手を打った。

『朔夜様のお役に立ちたい』
 
 かつて志野が言った言葉を持ち出して、朔夜は堂々とこうして妻を膝に乗せているわけだ。
 茶の用意をしたり、書類の整理を手伝ったり、と簡単な雑事を任せて貰えるのはとてもありがたいことなのだが。
 
 万年筆を置くた朔夜は、志野の右腕を引き寄せ、白金の庇護紋を愛おしむように指先でなぞった。
 薄絹越しに伝わる、吸い付くような肌の感触。
 かつて、誰にも必要とされなかった自分。
 けれど今、帝都で最も恐れられるこの男が、自分がいなければ理性を保てないと、子供のように縋っている。

「……隣にいてほしいと仰ったのは、朔夜様では……?」

「隣、ではない。俺の所有物として、俺の腕の中にいろと言ったのだ」

 朔夜は強引に志野の顔を自分の方へ向けさせると、その細い指先を自身の唇に寄せた。
 指先に触れる、熱く湿った粘膜の感触。
 志野が驚きに肩を揺らすと、彼はそれを愉しむように、深い紫紺の瞳を細めた。

「お前の淹れる茶も、この指先から溢れる光も、すべて俺を狂わせるためにある。……ならば、その責任は最後まで取ってもらわねば困る」

「責任、ですか……?」

「そうだ。俺の内に潜む『鵺』を鎮め、飼い慣らす責任だ。……お前が触れるだけで、この忌々しい呪いの呼び声が止む。この感覚を、俺が手放すと思うか」

 朔夜は志野の豊かな髪に指を潜らせ、その香りを深く吸い込む。
 血の匂いに満ちた外の世界とは違う、陽だまりのような志野の甘い匂い。

 彼は志野の首筋に顔を埋め、理性を削り取るような音を立てて喉を鳴らした。
 それは、秩序を嘲笑うような、昏く甘やかな沈殿なのだが。

「……あ……朔夜、様……」

 志野の掌から溢れる白銀の光が、朔夜の中に澱んでいた異能の熱を優しく、静かに吸い取っていく。
 最強の鵺が、女の柔らかな体温に溺れていく。
 朔夜は己の襟元のボタンを一つ外すと、その隙間に志野の手を導いた。

「……お前の光で俺を癒やせ。……この檻の中では、俺とお前以外に価値のあるものなど存在しないからな」

 書類の山も、帝都の法も、すべては二人を隔てる余計な雑音に過ぎない。
 志野は、朔夜の喉仏を上下させる肌にそっと触れ、その強大な孤独を受け入れるように目を閉じた。

(私は……この人の役に、立っているのかもしれない)

 その確信が、志野の胸の奥で蜜のようにとろけていく。

 永遠に続くかと思われた静寂。 
 二人の間に流れる甘やかな時間を、無惨に引き裂く音が響いた。
 遠慮のない、まるで挑発するような、誰何の声。

「お取込み中のところ、幾度も失礼いたしますよ。兄上」

 扉の向こうから響いたのは、鏡夜の氷のような冷笑だ。
 先日、踏み込んできた時と同じ、いや、それ以上に昏い愉悦を湛えた声。
 朔夜の瞳が、瞬時にいつもの峻烈な深紫へと塗り替えられた。

「……鏡夜。どの面下げて、俺の前に姿を現した」