その歪な悦びは、帝都の天を割るような絶叫によって、一瞬にして粉砕された。
雷光が、宵闇を焼き尽くす。
茶屋の屋根が、目に見えぬ巨大な力によって一瞬にして吹き飛ばされた。
降り注ぐ破片と、猛烈な臭気。
崩れ落ちた梁の上に、一人の男がゆらり、と舞い降りる。
「……誰の許可を得て、俺の小鳥を鳴かせている」
地を這うような、低い、低い声。
そこに立っていたのは、志野の知る朔夜ではなかった。
軍服の裾を翻し、全身から青白い雷光を撒き散らすその姿は、帝都の法を司る長官などではない。
己の獲物を奪われ、理性を焼き切った『鵺』そのもの。
禍々しい四重の羽根が、朔夜の背から脈打つように生えている。
「朔、夜……様……」
志野の微かな呼び声に、朔夜の深紫の瞳が、射抜くような光を宿してこちらを向いた。
「な、鳴神……!? 審問中のはずでは……!」
昭人が悲鳴に近い声を上げ、後退る。
その後ろにいた雅の九つの尾が、本能的な恐怖に縮こまった。
朔夜は一歩、また一歩と歩みを進める。
彼が踏み出すたびに、石畳が融解し、周囲に群がっていた凶喰たちが、その圧倒的な霊圧だけで跡形もなく消し飛んでいく。
「水無月昭人。貴様が、この女をどう呼ぼうと勝手だ。……だが」
朔夜の手が、音もなく昭人の喉元を掴み上げた。
バチバチと弾ける電撃が、昭人の眼鏡を砕き、その肌を容赦なく焼き焦がしていく。
「この女は、俺だけのため存在している。……泥の中にいた時から、俺の舌先だけがその血の味を知っている。他者の不浄な手が触れることなど、許されない」
かつて境界の村で、幼き日の志野の血を舐めとったあの瞬間の狂気。
それが、十余年の歳月を経て、殺意となって爆発する。
朔夜は昭人をゴミのように投げ捨てると、震える志野をその腕の中に強引に引き寄せた。
「……あ……朔、夜、様……」
「お前はもう黙れ。……これ以上、俺を狂わせるな」
朔夜は志野の首筋に深く顔を埋め、なけなしの理性を制御しつつ吐息を漏らした。
紋章が共鳴し、志野の掌から溢れ出した光が、朔夜の焦げ付いた魂に腕を伸ばしゆく。
だが、今の朔夜には、その癒やしさえも、彼女を喰らい尽くしたいという渇望を煽る焚き木にしかならなかった。
降りしきる雨の中、崩壊した茶屋の中央で、朔夜は志野の唇を奪うように塞いだ。
志野の放つ白銀の光は、果たして救済なのだろうか。
朔夜にも、判断つかぬ感覚だった。
雨は激しさを増し、瓦礫の隙間に溜まった招魂香の不浄な残り香を無慈悲に洗い流していく。
重ねられた唇から伝わるのは、肺腑を焼くような朔夜の熱。
それは愛と呼ぶにはあまりに苛烈だ。
「……っ、ぁ……」
朔夜が唇を離した刹那、その双眸には正気と狂気が綯い交ぜになった、絶望的な色が宿っていた。
彼は志野の細い首筋を大きな掌で包み込み、指先が白磁の肌に食い込むほど強く、引き寄せる。
「戻るぞ、志野。二度と、俺の目の届かぬ場所へは行かせん」
その時、静寂を裂いて数条の雷光が空を走り、路地の入り口に二つの影が躍り出た。
「朔夜様! 志野様!」
駆けつけた右近と左近は、変わり果てた茶屋の惨状と、そこから放たれる朔夜の尋常ならざる霊圧に息を呑んだ。
特に左近は、地面に這いつくばり、辛うじて息をしている昭人と、闇に紛れて逃げ延びようとする雅の気配を瞬時に捉える。
「……捕らえますか」
左近の問いに、朔夜は振り返ることさえしなかった。
腕の中で意識を失いかけている志野を抱き上げ、軍服の外套でその姿を隠すように包み込む。
「……そのゴミ共が俺の視界に二度と入らぬよう、懲罰省の牢にでも叩き込んでおけ」
低い、冷酷な宣告。
朔夜の瞳からはすでに法家としての理知が消え失せ、ただ守るべきものを守り抜こうとする、傷ついた獣の意思だけが残されている。
鳴神の屋敷へ戻る車内、志野の掌から溢れ出し続けていた白銀の光は、ようやくその輝きを静めていた。
志野を抱きしめたままの朔夜は、己の内に残る飢えの残滓と、彼女がもたらしたであろう『浄化』の清冽な感覚の間で、激しく揺れ動く。
雨に煙る帝都の街並みが、流れていく。
懲罰省長官が審問を放り出し、私怨のために異能を振るったという事実は、明日には帝都を揺るがす醜聞となるだろう。
だが、朔夜の心にあるのは、己の地位でも名誉でもなかった。
腕の中に眠る志野の、微かな鼓動。
「……俺を狂わせたお前が悪い」
朔夜は、志野の額にそっと唇を寄せ、呪文のように呟いた。



