帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁


 その時。

 帝都の空を、地響きを伴う巨大な雷鳴が引き裂いた。
 同時に志野の右腕の紋章が、かつてないほどの光を放ち、雅の幻術を内側から焼き切り始める。

「チッ、癪な紋ね……! 昭人、早くアレを使いなさい!」

 雅の焦った声と共に、昭人が懐から取り出したのは、不気味に脈打つ漆黒の香。

「凶喰」を呼び寄せ、理性を更に狂わせる禁忌の招魂香が、暗い茶屋の中で煙を上げ始めた。

 濁った黒い煙が、茶屋の静寂を侵食していく。
 招魂香。
 禁忌の薫りに誘われて、世界の深淵からそれら(・・・)は這い出してきた。

「ア……ァ……。ぐ……ギぃ……」

 理性を失い、ただ異能の血に飢えた成れの果て。
 凶喰たちの、人ならざる呻きが格子戸を揺らす。

 一つ、また一つと、霧の中から浮かび上がる濁った瞳。

 ぎちぎち、と窓の建具が歪むような鈍い音が店内に響く。
 甘ったるい沈香の匂いがいやに鼻につき、床板が軋んだように鳴く。

 外には、人の形を失った凶喰たちが、贄の匂いを嗅ぎつけて群がっていた。
 人間と人間ならざるものの境が曖昧になり、茶屋の障子が鋭い爪で引き裂かれる。

「あら。もうお食事の時間かしら」

 雅が楽しげに細い煙管を振ると、茶屋の入り口が吹き飛んだ。
 そこから這い出してきたのは、爛れ崩れた異形の群れ。
 彼らの喉から漏れるくぐもった呻き声が、茶屋の静寂を暴力的に踏みにじる。

 志野は足元をすくわれそうになりながら、右腕の庇護紋を強く握りしめた。
 ちりちりと肌を焼く痛みが、少しずつ熱い決意へと変わっていく。
 凶喰たちの濁った目が、志野の持つ清らかな血の匂いを捉え、一斉にぎょろりと見開かれた。
 彼らの涎が畳に落ち、じゅうと音を立てて白煙を上げる。

 昭人は余裕の笑みを浮かべたまま、一歩後ろに下がった。
 その表情には、志野を餌として差し出すことへの冷酷な歓喜が浮かんでいる。
 壊された残骸を、鳴神に見せ付けてやろうか。
 そして目の前で喰ってやろう。

「さあ、ここで骨までしゃぶられなさいね」

 雅が操る幻影の九尾が、茶屋の屋根を突き破り、凶喰たちを志野の足元へと誘導する。
 入り口はすべて塞がれた。
 おぞましい凶喰の群れが蠢いている。
 暗闇に光る爛れた眼、ねっとりとまとわりつく生臭い体液。

 志野は呼吸を整え、迫り来る絶望のなかで、ただ一つ残った熱を信じようとしていた。

 雅の幻術によって、茶屋は外界から完全に隔絶され、今や逃げ場のない屠殺場へと変貌していた。

「……っ」

 震える手で、激しく明滅する右腕の紋章を抑える。
 白金の光は、雅の沈香を拒絶するように激しく揺れる。 
 志野はただ無力に怯えるだけではない。
 彼女の中に眠る浄化の力が、かすかに産声を上げようとしていた。

 同時に、招魂香の毒は志野の意識をじわじわと混濁させ、立っていることさえ困難になっていく。

「さあ、志野。死の淵で恐怖に染まった魂こそが、最も甘美な糧となるらしいぞ」

 昭人が志野の髪を強引に掴み上げ、その耳元で冷酷に宣告した。
 恐怖に歪む志野の顔を特等席で眺める昭人の瞳には、嗜虐的な愉悦が宿っている。