帝都鵺恋綺譚

 鳴神家での生活が始まって、三日程経過したが、この三日間、志野は一度も夫となった人の顔を見ていない。

 朝、目を覚ますと女中が身支度を手伝ってくれる。
 朝食は離れの部屋で一人。
 昼も、夜も、同じ事が、同じ密度で機会的に繰り返される。

 庭を散策することは許されているが、母屋に入ることは遠慮するよう言われた。
 遠回しではあったが、要するに「朔夜様に近づくな」ということだろう。

 使用人たちの態度も、微妙だった。
 表向きは丁寧だが、その目には明らかな疑問が浮かんでいる。

「なぜこんな娘が奥方様に?」と。

 仙家の生まれとはいえ、異能の力もない、庶子に過ぎない志野が、鳴神家の当主夫人として納まるには、あまりにも不釣り合いだと告げられているようだった。

 志野は、この屋敷で胡乱な存在として過ごしていた。
 客でもない、家人でもない。

 四日目の夕刻、思い切って、家令に願い出た。

「あの……朔夜様に、ご挨拶だけでもさせていただけないでしょうか」

 せめて一度くらい、挨拶をしておかなければ、父にこのような状況を知られた際、志野が責められるだろう。
 末端に近い水無月から筆頭仙家の鳴神に嫁いだことの意味を数日間考えていた志野が出した答えは『自分が何らかの対価』としての価値があるのではないかという事だった。

 用意されていた部屋や、設えは、冷遇するために用意されたものでは無さそうである。
 使用人たちは、腫物を扱うように接していたが、決して表立って志野を邪険にするような対応はされていない。
 むしろ、食事も、衣類も、何もかもが水無月の家で暮らした十八年間とは比べることが出来ない程、すべてが上質だった。

 家令は困ったような顔をして、しばらく考え込んだ後、頷いた。

「では、朔夜様の書斎にご案内いたします」

 母屋の二階にたどり着くまで、屋敷中が静まり返り、緊張感に包まれているのが判った。
 志野の一挙手一投足を、物陰から監視するように、見つめる幾つもの無言の瞳。

 廊下の突き当たりにある重厚な扉の前で、家令がノックをした。

「朔夜様、水無月様がご挨拶にお見えです」

「……入れ」

 低く、冷たい声が聞こえ、扉が開かれる。
 広い書斎には、窓際の大きな机に向かって、一人の男性が座っていた。

 漆黒の髪。整った横顔。
 鳴神家現当主、鳴神朔夜は、書類から目を上げることなく、短い言葉を落とす。

「用件は」

 その声は、氷よりも怜悧だ。

「あの……初めまして。水無月より参りました志野と申します」

 志野は女学校で習った作法通りの角度で頭を下げた。

「このたびは、ご縁をいただきまして――」

「不要だ」

 彼は書類にペンを走らせながら、素っ気なく遮った。

「君との結婚は、家のための政略に過ぎない。夫婦としての関係を期待されても困る」

 胸に、冷たい刃が刺さったような痛みが走る。

「私は……ただ、ご挨拶を」

「挨拶も済んだだろう。もう下がっていい」

 まるで、使用人に命じるような口調だった。

「せめて――」

「必要ない」

 ついに彼は、額にかかった前髪をかきあげ、顔を上げた。
 紫紺の瞳が、冷たく志野を見据える。

「君は離れで静かに暮らしていればいい。それが、この結婚の条件だ」

「夫婦として……妻としてのお勤めは――」

「夫婦?」

 彼は嗤うように口角を上げた。

「君は書類上の妻に過ぎない。私に近づくな。これ以上、君と言葉を交わすつもりはない」

 殴りつける様な言葉の海に、志野は瞬きを返す事しかできなかった。
 顎先で扉を示した朔夜は「さっさと退出しろ」と告げ、再び書類に目を落とす。

「二度と、連れてくるなよ」

 最後の言葉は、志野に向けられたものでは無く、家令にだった。
 気の毒そうな表情を浮かべた家令に促され、二人は書斎を後にした。

 長く冷たい廊下を歩きながら、志野の内から、こらえていたものが溢れそうになる。

 離れに戻り、部屋の扉を閉めた途端、膝から力が抜けた。
 寝台に腰かけ、窓の向こうを見る。
 木々の葉が風に、身体を嬲られていた。
 
 志野が理解したのは、生家でも鳴神でも、不要な存在であるという事実だった。