帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁


「志野様、ようこそおいでくださいました」

 家令らしき初老の男性が深々と頭を下げる。

「本日の婚儀でございますが――」

 男性が、ひどく言いにくそうに口ごもった。

「朔夜様は、懲罰省での急な緊急事案……凶悪な異能者の討伐任務に入られ、どうしてもお戻りになることができなくなりました。そのため、本日は代理の者を立てて執り行うことになります。新婦様には、大変申し訳ございません」

 途端に、心臓が、冷たい水に沈むような感覚がした。

 婚姻の式に、花婿が来ない。
 代理を立てる。
 由緒ある家柄の娘であれば、泣き叫んで実家に帰るほどの屈辱的な扱いだ。
 水無月家で長年、無価値な存在として扱われ続けてきた志野にとって、この輿入れは唯一の息継ぎができる場所になるかもしれないと、ほんのわずかだけ抱いていた淡い期待すらも、無残に打ち砕かれた瞬間だった。
 
 とうの昔に、願う事を手放していた志野は、微かに震えそうになる唇を必死に引き結び、感情を押し殺して淡々と答えた。

「承知いたしました」

 式は、略式ながらも、粛々と執り行われた。

 身を包む美しい白無垢が、まるで己の孤独を象徴する死装束のように重く、冷たく感じられる。
 志野の隣には花婿の代理として、若い男性が座っていた。
 右近と名乗ったその人は、終始いたたまれなそうな、ひどく申し訳なさそうな瞳で志野を見ていた。

 形式通り、盃を交わし、夫婦となる誓いの言葉を述べる。

 すべてが形だけの、空っぽの儀式だった。

 式が終わると、志野は『奥方様のお部屋』へと案内された。
 母屋からは少し離れた離れにある、舶来風な洋館だ。
 清浄な水の流れる音が、幽かに聞こえてくるが、小さな池でもあるのだろうか。
 窓の向こうは、鬱蒼と茂る緑の木々の隙間に、母屋へと通じる砂利道が、闇夜に細く白く浮き上がっていた。

「こちらでお過ごしくださいませ。朔夜様のお部屋は、母屋の二階でございます」

 つまり、夫婦は別々に暮らすということだ。
 白い結婚。
 厄介払いとして差し出された自分には、最初からそのような役割しか与えられていなかったのだろう。

 がらんとした冷たい部屋にただ一人残された志野は、窓から外を眺めた。

 庭の暗がりの向こうに、母屋が見える。
 その二階のどこかに、彼女の夫となった人がいる。
 まだ一度も、顔を見たことのない、自分を望んですらいない、夫が。

 空を見上げると、さっきまで晴れていた空が、みるみる黒い雲に覆われていく。
 風が強くなり、乱暴に窓を叩く。

 誰かが怒っているような。
 誰かが、苦しんでいるような。

 帝都を襲う嵐の予兆をぼんやりと見つめながら、志野は静かに目を伏せた。