霧は、墨を流したように重く、湿っている。
タネが手配してくれていた人力車は、裏通りをひたひたと進んでいた。
袖をきつく握りしめる指先が、わずかに冷えて震えている。
朔夜から受けた熱がまだ肌の奥底に残っているというのに、一人で歩いているという事実が、志野の胸をチクリと刺す。
外に出るな、という朔夜の言いつけを破ってしまった罪悪感と、母の形見を失うことへの恐怖。
志野の心の中で、感情が振り子のように激しくせめぎ合う。
門仲町の外れ、人通りの途絶えた路地裏で、人力車が静かに停車した。
茶屋『夕凪』は、行灯の火さえも心細げに揺れていた。
志野は、羽織をきつく合わせ、冷たい空気を肺に吸い込んだ。
右腕の庇護紋が、先ほどからチリチリと皮膚を焼くように痛む。
けれど、彼女の足は止まらなかった。
木戸をそっと開けると、甘い沈香の香りと、どこか酸いような生臭い気配が入り混じる。
煤けた暖簾を潜ると、店内には客の姿はなく、ただ奥の卓に、見覚えのある背中が一つあった。
眼鏡の奥で冷徹な光を湛えた、義兄の昭人だ。
横顔に、冷ややかな陰影を落としている。
彼は卓の上に置かれた古びた箱を細長い指でなぞりながら、志野の気配を察して口角を歪めた。
「お義兄さま」
昭人は顔を上げず、ただ低く、氷のような声を放った。
「鳴神の寵姫ともあろう者が、共も連れず、随分と無用心なことだ」
志野は彼の視線の先にある小箱を見つめる。
それは確かに、幼い頃に母の部屋で見たことのある、色褪せた友禅の小箱だ。
昭人は無造作に箱の蓋を開け、志野に見せ付けるようにして卓の上を滑らせた。
紅い珊瑚の櫛。
生前の母の記憶を呼び起こし、志野の瞳がわずかに揺れる。
「お前にしか価値のない、下らぬガラクタだがな。何も言わずに捨てるのも忍びない」
志野が震える手を伸ばし、櫛に触れた刹那。
鼻腔を突いたのは、懐かしい母の香りではない。
鼻の奥を刺すような、どろりと甘く、腐った花のような沈香の臭気。
気づいた時には、すでに遅かった。
箱の中から溢れ出した黒い霧が、蛇のように志野の腕に絡みつく。
同時に、店内の壁が、天井が、まるで溶け出すように歪み始めた。
「あらあ、本当にお間抜けな子なのねえ」
静寂を裂いたのは、鈴を転がすような、されど峻烈な笑い声。
昭人の隣に、虚空から染み出すようにして鷹司雅が姿を現した。
彼女の背後では、幻影の尾が九つ、怒れる獣のようにうねっている。
「……っ、お義兄様、雅様、これは……」
「言ったはずだ、志野。お前は熟した瞬間に捥がれる果実だと。……鳴神の庇護など、所詮は肌の上に塗られた薄い被膜に過ぎない」
昭人が立ち上がり、志野の喉元へ手を伸ばす。
その瞳には、半分血を分けた妹への慈悲など微塵もなく、目の前にある贄を独占しようとする捕食者の狂気だけが宿っていた。



