帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁


 立ち尽くす志野に、忍び寄る影がひとつ。

「奥方様、よろしいでしょうか」

 現れたのは、女中のタネだった。
 彼女は恭しく膝を突いたが、その瞳の奥には、志野を憐れむふりをした醜い愉悦が揺れている。

 タネは鳴神一族の長老派——鏡夜を次期当主に推す純血派から送り込まれた監視役だ。
 同時に、彼女はかつての婚約者である鷹司雅とも密かに通じていた。

「あ、タネさん……私に何かお手伝いできること、ありますか?」

 鳴神の家へと嫁いでひと月半。
 志野の仕事に家事は含まれておらず、相変わらず手持無沙汰のまま。
 何か手伝おうと声を掛けると、女中たちの殆どは蜂の子を散らすように言ってしまう。
 女主人としての采配を期待されていないのは判り切ったことなのだが、少しでも鳴神の家にとって、朔夜にとって、役立つことをしたい。

 そんな気持ちが、日に日に高まっているのも事実だった。

 唯一、このタネだけが、なにかと積極的に声を掛けてくれる。
 その眼の奥にある冷たさには、無論、気が付いている。
 厨房や裏の野菜園などに出向く理由を、持ってきてくれるので、志野としては感謝しかない。

 朔夜は志野を宣言通り、閉じ込めることを好んでおり、彼の居ない日中の時間帯は、どこか胡乱だった。

「実は、貴女様のご生家……水無月のお屋敷より、お使いの者が参っております。なんでも……志野様の亡き生母様の『形見』を整理していたところ、奥方様にぜひお渡ししたいものが見つかった、と」

 形見。
 その言葉が、志野の心臓を不意に掴んだ。

「……形見、ですか?」

「はい。本来ならば水無月ご当主が持参されるべきところですが、今は鳴神様との間にお気まずいことがおありとかで……。門仲町の茶屋にて、お預けしているとのこと。今日を逃せば、水無月の当主様がすべて焼き捨てると仰っているそうです」

「そんな……」

 タネの言葉は、志野の最も柔らかな場所へ、巧妙に針を刺していく。
 
 朔夜は「大人しく待っていろ」と言った。
 右近も左近も討伐で不在。

 けれど、行かなければ、母の生きた証が、灰になってしまうかもしれない——。

「……裏門からなら、誰にも気づかれぬよう家からお出しする事も出来ます。鏡夜様には、私からうまく伝えておきますから」

 鏡夜の名を出され、志野は焦燥にも背を押された。
 それが鏡夜と雅、そして昭人が仕組んだ、巨大な蜘蛛の巣の入り口だとも知らずに。

 声を潜めたタネに、志野は逡巡しながらも首肯した。

 屋敷の門を出る志野の背中を見送りながら、タネが口元を歪ませ、懐から小さな鏡を取り出した。
 その鏡面には、幻術を操る九尾の姫、鷹司雅の瞳が、狂喜に満ちて映し出されていた。
 熟しきった果実が、自ら枝を離れるのを待つ捕食者のように。

 帝都の霧の向こう側では、九尾の幻術が確実に志野を誘い出そうと網を広げていた。