帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 主を失った部屋に、静寂が戻る。
 志野は一人、冷え切った空気の中で立ち尽くしていた。
 朔夜から与えられた温もりが、嘘のように消えていく。

「――おや。兄上は、もうお出かけになられましたか」

 不意に聞こえた声に、志野は肩を震わせて振り返った。
 去ったはずの鏡夜が、いつの間にか部屋の入り口に立っていたのだ。

「……鏡夜様。まだ、いらしたのですか」

「貴女とお話ししたくてね。……志野さん。貴女、自分が兄上の何を(・・)救っているつもりですか?」

 鏡夜は音もなく歩み寄り、志野の目の前で立ち止まった。
 瞳は、慈悲のかけらもなく志野を見透かしている。

「私は、ただ……朔夜様の苦しみが、少しでも和らげばと……」

「和らぐ? ふふ、笑わせないでいただきたい。……そうですね、ついてきなさい。貴女に、鳴神の血がもたらす『真実』を見せてあげましょう」

 逆らう術もなく、志野は鏡夜に導かれるまま、庭の奥深くへと歩かされた。
 朔夜が、見るものなど無い、として志野を遠ざけていた、荒れ果てた一角だった。

 眼前には、天を呪うように無惨に裂け、真っ黒に炭化した巨大な老木の骸が寂し気にそびえている。

「これは……」

「初代鳴神の当主である晴嵐が、最愛の妻のために植えたとされる桜です」

 鏡夜は、黒ずんだ幹を細い指先でなぞった。

「かつては美しく咲き誇ったそうですが……今の姿をごらんなさい。鳴神の当主が愛を囁くたび、その荒ぶる雷(いのう)がこの木を焼き、内側から炭化させた。鵺の力は『破壊』そのもの。愛でるものさえ、知らずのうちに焼き殺し、喰らい尽くす」

 志野は息を呑んだ。
 炭化した枝の先は、まるで苦悶に震える指先のようにも見える。

「貴女が兄上のそばにいるということは、この桜と同じ運命を辿るということですよ。兄上の飢えが満たされるたび、貴女の魂は削られ、最後には何も残らない。……貴女は救いなどではない。兄上が『化け物』であることを証明するための、哀れな生贄に過ぎないのです」

 鏡夜の言葉が、志野の胸に冷たい泥のように沈み込む。
 自分が、最強の鵺である朔夜の隣にいることの危うさ。

「……それでも、私は」

「おやおや、まだそんな顔ができるのですか。……せいぜい、焼き尽くされるその時まで、夢を見ていなさい」

 鏡夜は志野を一人、死んだ桜の前に残して去っていった。
 冷たい風が吹き抜け、志野の右腕の庇護紋が、警告するように、ちりと痛んだ。