帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 帝都を切り裂く雷鳴は、鳴神家の主室にまでは届かない。
 厚い遮光カーテンの向こう側で、朔夜は志野の細い腰を抱き寄せ、その首筋に深く、深く顔を埋めていた。

「……行きたくないな」

 軍服の硬い襟が志野の肌を微かに擦る度に、志野の身体が小さく揺れる。
 指先から伝わる感覚に、朔夜は満足するように口元を緩める。

「あの……朔夜様、お、仕事は……」

 冷徹な長官の姿はそこにはない。
 ただ一人の、愛しい獲物に執着する男の吐息が、志野の鎖骨をなぞる。
 
「……、み、皆様が、貴方を、お待ち……かと」

「無論、判っている。だが、お前を一人にしておくのは、片時も耐え難い」

 朔夜は志野の右腕を取り、白金の庇護紋を誇示するように唇で触れ、軽く歯をたてた。
 無論、喰うつもりはない。

「――っ」

「声を殺すな。――我が妻殿は学習能力が無いな」

「でも、さ、くや様……難しい、です」
 
 発端は、朝食の後に、志野が朔夜の着替えを手伝った事だった。
 袖のボタンの一つが少しだけ緩んでいた。
 指摘された朔夜は、志野を抱え上げると、膝に乗せ、そのままボタンを留めるように命じた。

 不慣れな体勢での針仕事で、ひと刺し、志野は自分の指先をうっかり突いてしまったのだ。

 途端に滲み始めた自分の血に慌てている間に、朔夜は志野の指先を口の中に含んだ。
 熱く柔らかな舌先が、指の輪郭をなぞり、ちゅ、と音を立てて吸われたのを、呆然としたまま見つめていた。
 朔夜は、角度を変え、志野に見せ付けるように、指先を捕らえる。
 
 最近、帝都では凶喰の暴走が頻発し、右近や左近のみならず、最強の異能を誇る朔夜自身も、討伐に駆り出されていた。
 長としては、狂った憐れな同胞たちを裁かねばならない。

「大人しく待っていろ。誰にも、お前を触れさせるなよ」

 志野の顎を掬い上げ、彼は深い口づけを落とした。
 それは約束という名の、重い枷。

 傍から見れば蜜月の時間。
 それを無残に切り裂くように、誰何の声も無く扉が開かれた。

「お取込み中のところ、失礼いたしますよ。兄上」

 冷気を連れて現れたのは、朔夜によく似た、けれど一切の熱を持たぬ冷笑を湛えた男――従弟の鳴神鏡夜(なるがみきょうや)だった。
 彼は朔夜の膝の上に座る志野を不浄な異物として一瞥すると、厭そうに視線を逸らす。

「……鏡夜。俺の私室に断りもなく踏み込むとは、礼節を忘れたか」

「礼節を欠いているのは、どちらでしょうか……『半分人間の異能モドキ』にうつつを抜かし、審問を遅らせるなど。純血を重んじる我が一族への、これ以上の冒涜は許されませんよ」

 鏡夜の言葉は、志野の胸に冷たい棘となって突き刺さる。
 反射的に朔夜の膝から降りようとしたが、腰を抱く彼の腕にさらに強固な力が込められた。

「鏡夜、失せろ。これ以上、俺と志野を侮辱するなら、今ここで焼き潰してやる」

 朔夜の瞳が深紫色に濁る。
 鏡夜は肩をすくめるも動じることなく続けた。

「おやおや、怖い。……ですが兄上、その女が貴方を『癒やしている』と思い込むのは、いささか滑稽ではありませんか? 鵺の血の本質を、貴方が一番知っているはずだ。せいぜい、その獲物を可愛がっておくことですな」

 鏡夜は嵐の前の静寂を残して部屋を去った。
 朔夜は忌々しげに舌打ちをし、志野を一度強く抱きしめると「あいつが本家に顔を出しに来るとはな……志野、お前は今日、離れに居た方が良い」と言い残し、出ていった。