帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁


「……狂う?」

 少女が首を傾げた拍子に、彼女から漂うやわらかな香りが、魚油の悪臭を僅かに塗り替えた。

「おかあさま、おしごと。おせわのかかりって」

 その言葉が、少年の思考を氷結させた。
 世話係。
 つまり、この少女の母親は今、理性を失い「凶喰」へと堕ち、この神社の奥に隔離された自分の祖父を——化け物を、宥めるためにあそこにいるというのか。

(あの中には、理性を失い飢えた獣がいるんだぞ)

 少年は焦燥に突き動かされ、少女の存在を意識の外へ弾き出した。

「どけ!」

 乱暴な足取りで、彼は少女を突き飛ばし、神社へと続く石段を駆け上がろうとした。

「……あ」

 短い悲鳴と共に、少女が硬い石畳の上に転がる音がした。
 だが、今の少年には振り返る余裕などない。
 一段、また一段と、闇の深い奥へと足を進める。

 その時だった。

 背後から、不自然なほど甘い、心臓を直接鷲掴みにするような香りが立ち上った。
 すべてを一瞬で無に帰す、抗いがたい誘惑。
 
 彼は吸い寄せられるように、足を止め、振り返る。

 石段の底で、少女が膝を抱えて蹲っている。
 白磁の膝には、痛々しいほど鮮やかな赤が滲んでいた。
 擦りむいた傷口から、一滴、また一滴と零れ落ちる紅。
 滲む紅は、黄昏の空よりも鮮烈に少年の視神経を灼いた。

 心臓が、肋骨の檻を突き破らんばかりに暴れる。
 魚油の悪臭も、古びた神社の黴臭さも消えた。
 喉の奥が、焼けるように乾いた。
 今の彼を支配しているのは、少女の膝から立ち上る、完熟した果実よりも甘く、それでいて鉄を含んだ峻烈な生の香り。
 目の前の小さな生き物が流した、この世の何よりも甘美で絶望的な。

 少年は、吸い寄せられるように、泥に汚れるのも厭わずその場に膝を突いた。
 驚きに丸くされた少女の瞳が、至近距離で自分を映している。

「……っ」

 理性が、喉の奥で悲鳴を上げた。
 高貴なる鳴神の血が、こんな、どこの馬の骨とも知れぬ人間の小娘の、泥の混じった血を欲するなど、あってはならない。
 断じて。

 けれど。
 少年の震える指先が、彼女の小さな膝を、壊れ物を扱うように掴んでいた。
 
 溢れ出し、白磁の肌を伝い落ちようとする一滴。
 それが地に落ちて汚れる前に。
 少年は、祈るように目を閉じ、その熱を舌先で掬い取った。

 湿り気を帯びた熱い粘膜が、傷口を優しくなぞる。
 脳内が、雷光に打たれたように真っ白に染まった。
 痺れるような甘美。
 全身の血液が沸騰し、魂の奥底に棲まう鵺が、歓喜の咆哮を上げる。
 これだ。俺は、この味を知るために生まれてきたのだ。

「……え」

 少女の、ひきつったような、か細い吐息が耳朶を打つ。

我に返った少年の視界に飛び込んできたのは、驚愕に目を見開き、信じられないものを見るような目で自分を見つめる少女の顔だった。
 その瞳に映る自分は、誇り高い死神などではない。
 ただの、飢えた、卑しい、獣の形をしていた。

「あ……」

 少年の顔から、血の気が一気に失せる。
 
(何を、した。自分は、今)

 舌先に残る、生々しい鉄の味と、陶酔するような甘み。
 それが、己が犯した禁忌の証左となって彼を責め立てる。
 
 少年は弾かれたように立ち上がると、少女の返事も待たず、石段を一気に駆け上がる。

「……っ、はァ、はァっ……!」

 背後で、少女の「まって」という声がしたような気がしたが、振り返る勇気など微塵もなかった。

 闇の深まる境内を、少年は一心不乱に走り抜ける。
 胸を焦がすのは、自分自身の本能への底知れぬ恐怖と、一滴の血に魂を売ってしまったという絶望的なまでの後悔。

 ――あの日。
 
 鳴神朔夜は、自らを檻に閉じ込めることを決めた。
 いつか、あの甘美な呪いに、自分自身が喰い尽くされてしまわぬように。
 
 それなのに。
 逃げても、逃げても。
 舌先に残ったあの紅い記憶だけは、夜毎、彼の理性を蝕み続けていった。