帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 月光の降り注ぐテラスは年頃の男女の出会いの場でもある。
 人混みを離れたその場所で、昭人は思いがけない人物と出会う。

 九尾の姫。

 冷たい月光が石造りの欄干を白く照らす中、苛立ちを隠しきれない鷹司雅の姿があった。
 今宵の主役は自分だった筈だ。
 それなのに、あのような出来損ないによって傷つけられた誇りから染み出る怒りは、もはや殺意に近い。

「おや……酷いお顔ですね、雅様」

 静寂を破ったのは、低く、湿り気を帯びた男の声。
 振り返れば、そこには眼鏡の奥で冷徹な光を宿した、水無月昭人が立っていた。
 彼は優雅に一礼するが、その動作には相手を敬う心など微塵も感じられない。

「お前は……! あの女の……! 私を嘲笑いに来たの?」

「ご冗談を……貴女をその辱めから救い、あの『紛い物』を檻の中へ引き戻すための、ご提案に参ったのです」

 昭人は雅の傍らに歩み寄り、その耳元で毒を流し込むように囁いた。
 懐から取り出されたのは一本の香。
 禁忌の術によって「凶喰」を呼び寄せる招魂香。

「無礼な口ぶりね。……私に何をしろと言うの」

 九尾の姫君を顎で使うような昭人の態度に、雅は不快感を露わにする。
 しかし、その反論を遮るように、バルコニーの暗がりから、もう一つの足音が響いた。

「彼一人の力では、兄上(・・)の目を盗むことなど到底不可能ですからね。私が盤面を整えましょう」

 突如闇の中から現れたのは、一切の熱を持たぬ冷笑を浮かべた男――鳴神鏡夜(なるがみきょうや)だった。
 鳴神朔夜よりか幾分か年下の、鳴神一族筆頭分家の長子だ。
 面立ちがよく似ている。

 雅は驚きに目を見張ったが、すぐに扇子で口元を隠し、鋭く彼を睨みつけた。

鏡夜(きょうや)……貴方まで、こんな下賤な男と組んで私をコケにするおつもり?」

「滅相もない。鳴神の血を不当に汚すあの『異能モドキ』を排除したいと願う気持ちは、貴女と同じです」

 鏡夜は昭人と視線を交わし、極寒の笑みを深めた。
 つまりは、志野を排除したいという一点において、この三者の歪な利害は完璧に一致していたのだ。

「簡単なことです、雅様。兄上は、私が長老衆を使って政務と会議に縛り付けましょう。目障りな側近の右近と左近も、帝都の端に凶喰の偽報を出して遠ざけます」

 鏡夜の淀みない計画に、雅がわずかに息を呑む。

「屋敷の奥には、長老衆から送り込んだ私の手駒である女中がおります。彼女が上手く、あの女に『水無月の母の形見』という餌をちらつかせ、屋敷の外へ誘導する手はずを整えましょう」

「なるほど……それで?」

「そこから先は、貴女の出番です」

 昭人が引き継ぐように一歩前に出た。
 彼の瞳には、狂気と実利を兼ね備えた欲望が滲んでいる。

「雅様は、その誇り高き九尾の幻術で、あの愚かな義妹を絶望の底へ誘い込んでいただきたい。難しい事ではありません。アレを『凶喰』の群れの中へ放り込めばいいのです。その後は、私がこの香でさらに凶喰を呼び寄せ、混乱に乗じて連れ去ります」

 朔夜が助けに来る前に、自分が志野を連れ去り、その瑞々しい血肉を髄まで吸い尽くして成り上がる。
 たとえそれが志野を廃人にする結果になろうとも、昭人にとってはどうでもいいことだった。

 鏡夜にとっても、志野が水無月の元へ回収されさえすれば、鳴神の純血は保たれる。

 雅は、その悍ましい計画に一瞬顔を顰めたが、志野への憎悪が倫理を容易に上回った。
 朔夜の隣で幸せそうに微笑んでいたあの小娘が、絶望に顔を歪める姿を想像し、彼女の唇に冷酷な弧が描かれる。

「……わかったわ。その代わり、鳴神の屋敷に私の痕跡が残らぬよう、後始末は貴方たちが完璧にやりなさい」

「ええ、もちろん。……あいつは私の獲物ですから」

 昭人は雅の手の甲に、恭しく、されど支配を誇示するように唇を寄せた。
 それは姫君を敬う儀礼などではない。
 己の野望のために、高貴な九尾の力を使い潰すという歪な契約の証であった。

 鏡夜は、己の欲望に溺れるその二人を、汚いものでも見るかのように冷ややかに見下ろしている。
 月光の下で交わされた、密約。
 それは、朔夜と志野の束の間の平穏を無惨に引き裂く、完璧な絶望の脚本だった。