帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

 鳴神当主と、その秘められた奥方の入場を見守っていた群衆の一角に、水無月家の当主と、その長男である昭人が立っていた。

 昭人は眼鏡を押し上げ、不快そうに周囲の喧騒を眺める。
 彼の脳裏には、数年前、水無月邸に母に連れられて現れた、幼い志野の姿が焼き付いている。

(……あの時、枯れ枝のようだったあいつが)

 泥にまみれた着物を着て、怯えた目をした小さな志野。
 水無月の家にとって、異能を継がぬ彼女は家族ですらなかった。
 父が彼女を手元に置いたのは、いつか自分たちが「凶喰」へと堕ちそうになった時、その飢えを癒やすための『非常食』としてだ。
 昭人にとっても、志野はいつか自分が食らい尽くすべき、庭の果実と同じ存在。

 それが今、帝都の頂点に立つ鳴神の庇護を受け、誰もが傅く美姫として現れる。
 
「……ああ、志野。上手くやっているようで安心したよ」

 入場した志野に歩み寄った父の声は、卑俗な打算に満ちていた。
 志野は小さく頭を下げたが、隣に立つ昭人の視線が自分に触れた瞬間、心臓を冷たい蛇に撫でられたような戦慄を覚える。

(……俺の獲物……その血も、肉も、魂も。鳴神にくれてやるには、惜しすぎる)

 昭人の瞳の奥で、誘惑が鎌首をもたげる。
 彼は、かつて妹に向けていた徹底的な無関心を、今や剥き出しの所有欲へと書き換えていた。
 自分よりも格上の、圧倒的な力を持つ朔夜への畏怖を、志野という器への執着が上回ろうとしていた。

 兄から向けられる視線の圧に困惑し、志野はおもわず朔夜の袖に縋った。

「……何を見ている、水無月。俺の妻をこれ以上その眼で汚すなら、二度と光を見られぬよう焼き潰してやろうか」

 朔夜が志野の肩を抱き寄せ、冷酷に宣告する。
 昭人は反射的に頭を下げたが、その口元には、毒蛇のような歪な笑みが張り付いていた。



 帝都迎賓館の大広間に満ちる、眩いばかりの洋灯の輝き。
 それは、帝都懲罰省長官として秩序を統べる鳴神朔夜が、自身の庇護を公に宣言するための舞台であった。
 紫紺の正装を纏った朔夜の傍らで、志野は当主の色に染め上げられた己の姿に、今なお夢見心地のまま、けれどその重圧に身を竦めていた。

「少しの間、ここを動くな。……禁衛府の者たちを周囲に配してある」

 朔夜が、政府高官との儀礼的な挨拶のために数歩離れた。
 その去り際、彼は志野の指先を名残惜しげに、けれど強く握りしめた。
 彼が背を向けた刹那、張り詰めていた空気が僅かに緩む。
 その隙間を縫うようにして、一人の男が志野の背後に音もなく忍び寄った。

「……泥の中にいた雑草がここまで見違えるとは」

 眼鏡の奥で細められた、不気味なほどに凪いだ瞳。
 志野の義兄――昭人であった。
 彼は周囲から見れば、妹の門出を祝う慈愛に満ちた兄のように振る舞いながら、その実、志野の耳元に顔を寄せ、密やかな、けれど峻烈な毒を孕んだ声を滑り込ませた。

「お前、自分が『奥方』として愛されているとでも思っているのか? 志野、忘れたわけではあるまい。……あの日、お前の母が、愛する夫にどう喰われたかを」

 心臓が、氷の楔を打ち込まれたように凍りつく。
 視界が、不自然なほど鮮烈な赤に染まり始める。
 記憶の水底に沈めようとしていた、あの夜の湿り気と、錆びた血の匂いが蘇る。

「……やめてください……お兄様」

「お前の母は、最期まで笑っていたな。自分が喰われることで、父上の理性が保たれるのなら本望だと。……お前も同じだ。仙家とは、血の呪いに抗えぬ獣の群れ。朔夜様が、秩序を司る懲罰省の長官としてどれほど高潔に振る舞おうと、その本質は母上を喰らった父上となんら変わりはしない」

 昭人の手が、志野の細い肩を撫でる。
 その指先には、妹を愛しむ情などは微塵もなく、熟した果実の皮を剥くような下卑た執着だけが宿っていた。

「お前は、あの方の飢えを癒やすための贄だよ。あの方は今、お前を甘やかしているのではない。……最も美味な瞬間に、その喉元に喰らいつくために、大切に育てているだけなのだよ。……いいか、志野。お前の真の居場所は、鳴神の腕の中ではない。俺の……水無月の檻の中だ」

 昭人の歪んだ欲望が、言葉となって志野の魂を蹂躙する。
 無能と蔑んできたはずの志野が、最強の鵺に愛でられ、その血の輝きを増していく。
 それが昭人には、耐え難い屈辱であり、同時に奪い返すべき資産の輝きに見えていた。