桜の花びらが舞い散る四月の朝、水無月志野は、生家の門を静かに出た。
振り返ることはしなかった。
振り返ったところで、見送りに出てくる者などいないことは分かっていたから。
「志野様、お寒くありませんか」
付き添いの女中が、気遣わしげに声をかけてくれる。
彼女は志野が嫁ぐ先である、鳴神家から派遣されてきた者だ。
生家の使用人たちよりも、よほど彼女に優しい。
「大丈夫です。ありがとう」
微笑んで答えると、女中は安堵したように頷いた。
仙家のひとつである水無月家の庶子として生まれた志野には、異能が無い。
母の記憶は、彼女にとってあまりにも禍々しいもので、断片的にしか覚えていない。
正妻が産んだ兄はそれなりに優秀だったため、異能を揮う家の中で、彼女の居場所はどこにもなかった。
逃げるように隠れた、社の緋色。
彼岸花の向こう側。
冷たく身体を切り刻むように吹き付ける風。
水無月の屋敷には、彼女の記憶と符合する景色は無いのにもかかわらず、過去の思い出に触れようとすると、そのような光景が過ぎる。
鳴神家との縁談話が進んでいる事を告げた父親は、安堵したような顔をしていた。
水無月の家にとってお荷物でしかない不出来な娘を、世間的には『玉の輿』という形でうまく厄介払い出来るからだろうか。
「相手は鳴神財閥の御曹司だ。お前のような娘には過ぎた縁だ。感謝しろ」
父のその言葉に、志野は何も答えられなかった。
志野には何かを選ぶ権利も、願う権利も無い。
鳴神朔夜――政財界にも深い人脈を築いていた財閥の跡取り息子。
そして雷を操る鵺の力を揮う、日本或国仙家筆頭の異能者。
志野にとって、天上人に近い存在。
一生関わる機会がないような存在が、力もない庶子である自分を何故?
疑問に思ったところで、聞く相手もいない。
黒塗りの四輪駆動車が、帝都の中心部へと走る。
窓の外に流れる景色は、次第に華やかになっていく。
レンガ造りのモダンな建物が立ち並び、行き交う人々の装いも洗練されている。
つい先日かろうじて通わせてもらえていた女学校を卒業したばかりの志野は、嫁ぎ先の候補も無く、ただただ家で無為な時間を過ごしていた。
やがて車は、高い塀に囲まれた広大な屋敷の前で止まった。
「到着いたしました」
運転手が扉を開けてくれる。
重厚な門をくぐると、そこには想像以上に広大な日本庭園が広がっていた。
大きな池、丁寧に手入れされた松、石橋。
水無月の庭も、庭師たちが丹精をこめていたが、規模が違う。
格が違うとはこういう感じなのだと、あまりにも現実離れした現状に、志野は心のうちで静かに笑ってしまった。
母屋の玄関には、数人の使用人が並んでおり、皆が同じ姿勢でまるで置物のように微動だにしない。
「志野様、ようこそおいでくださいました」
家令らしき初老の男性が深々と頭を下げる。
「本日の婚儀でございますが――」
男性が言いよどんだ。
「朔夜様は、急な商用のため代理の者を立てられることになりました。大変申し訳ございません」
途端に、心臓が、冷たい水に沈むような感覚がした。
婚姻の式に、花婿が来ない。
代理を立てる。
これ以上ない、屈辱的な扱いだ。
とうの昔に、願う事を手放していた志野は、淡々と答える。
「承知いたしました」
式は、淡々と執り行われた。
白無垢を纏い、神前に座る。
隣には花婿の代理として、若い男性が座っていた。
右近と名乗ったその人は、申し訳なさそうに志野を見た。
形式通り、盃を交わし、夫婦となる誓いの言葉を述べる。
すべてが形だけのものだった。
式が終わると、志野は『奥方様のお部屋』へと案内された。
母屋からは少し離れた離れにある、洋風な建物だ。
清浄な水の流れる音が、幽かに聞こえてくるが、小さな池でもあるのだろうか。
窓の向こうは、鬱蒼と茂る緑の木々の隙間に、母屋へと通じる砂利道が、白く浮き上がっていた。
「こちらでお過ごしくださいませ。朔夜様のお部屋は、母屋の二階でございます」
つまり、夫婦は別々に暮らすということだ。
白い結婚。
最初から、そういう約束だったのかもしれない。
部屋に一人残された志野は、窓から外を眺めた。
庭の向こうに、母屋が見える。
その二階のどこかに、彼女の夫がいる。
まだ一度も、顔を見たことのない夫が。
空を見上げると、さっきまで晴れていた空が、みるみる黒い雲に覆われていく。
風が強くなり、乱暴に窓を叩く。
まるで、誰かが怒っているような。
誰かが、苦しんでいるような。
帝都を襲う嵐の予兆をぼんやりと見つめながら、志野は静かに目を伏せた。
振り返ることはしなかった。
振り返ったところで、見送りに出てくる者などいないことは分かっていたから。
「志野様、お寒くありませんか」
付き添いの女中が、気遣わしげに声をかけてくれる。
彼女は志野が嫁ぐ先である、鳴神家から派遣されてきた者だ。
生家の使用人たちよりも、よほど彼女に優しい。
「大丈夫です。ありがとう」
微笑んで答えると、女中は安堵したように頷いた。
仙家のひとつである水無月家の庶子として生まれた志野には、異能が無い。
母の記憶は、彼女にとってあまりにも禍々しいもので、断片的にしか覚えていない。
正妻が産んだ兄はそれなりに優秀だったため、異能を揮う家の中で、彼女の居場所はどこにもなかった。
逃げるように隠れた、社の緋色。
彼岸花の向こう側。
冷たく身体を切り刻むように吹き付ける風。
水無月の屋敷には、彼女の記憶と符合する景色は無いのにもかかわらず、過去の思い出に触れようとすると、そのような光景が過ぎる。
鳴神家との縁談話が進んでいる事を告げた父親は、安堵したような顔をしていた。
水無月の家にとってお荷物でしかない不出来な娘を、世間的には『玉の輿』という形でうまく厄介払い出来るからだろうか。
「相手は鳴神財閥の御曹司だ。お前のような娘には過ぎた縁だ。感謝しろ」
父のその言葉に、志野は何も答えられなかった。
志野には何かを選ぶ権利も、願う権利も無い。
鳴神朔夜――政財界にも深い人脈を築いていた財閥の跡取り息子。
そして雷を操る鵺の力を揮う、日本或国仙家筆頭の異能者。
志野にとって、天上人に近い存在。
一生関わる機会がないような存在が、力もない庶子である自分を何故?
疑問に思ったところで、聞く相手もいない。
黒塗りの四輪駆動車が、帝都の中心部へと走る。
窓の外に流れる景色は、次第に華やかになっていく。
レンガ造りのモダンな建物が立ち並び、行き交う人々の装いも洗練されている。
つい先日かろうじて通わせてもらえていた女学校を卒業したばかりの志野は、嫁ぎ先の候補も無く、ただただ家で無為な時間を過ごしていた。
やがて車は、高い塀に囲まれた広大な屋敷の前で止まった。
「到着いたしました」
運転手が扉を開けてくれる。
重厚な門をくぐると、そこには想像以上に広大な日本庭園が広がっていた。
大きな池、丁寧に手入れされた松、石橋。
水無月の庭も、庭師たちが丹精をこめていたが、規模が違う。
格が違うとはこういう感じなのだと、あまりにも現実離れした現状に、志野は心のうちで静かに笑ってしまった。
母屋の玄関には、数人の使用人が並んでおり、皆が同じ姿勢でまるで置物のように微動だにしない。
「志野様、ようこそおいでくださいました」
家令らしき初老の男性が深々と頭を下げる。
「本日の婚儀でございますが――」
男性が言いよどんだ。
「朔夜様は、急な商用のため代理の者を立てられることになりました。大変申し訳ございません」
途端に、心臓が、冷たい水に沈むような感覚がした。
婚姻の式に、花婿が来ない。
代理を立てる。
これ以上ない、屈辱的な扱いだ。
とうの昔に、願う事を手放していた志野は、淡々と答える。
「承知いたしました」
式は、淡々と執り行われた。
白無垢を纏い、神前に座る。
隣には花婿の代理として、若い男性が座っていた。
右近と名乗ったその人は、申し訳なさそうに志野を見た。
形式通り、盃を交わし、夫婦となる誓いの言葉を述べる。
すべてが形だけのものだった。
式が終わると、志野は『奥方様のお部屋』へと案内された。
母屋からは少し離れた離れにある、洋風な建物だ。
清浄な水の流れる音が、幽かに聞こえてくるが、小さな池でもあるのだろうか。
窓の向こうは、鬱蒼と茂る緑の木々の隙間に、母屋へと通じる砂利道が、白く浮き上がっていた。
「こちらでお過ごしくださいませ。朔夜様のお部屋は、母屋の二階でございます」
つまり、夫婦は別々に暮らすということだ。
白い結婚。
最初から、そういう約束だったのかもしれない。
部屋に一人残された志野は、窓から外を眺めた。
庭の向こうに、母屋が見える。
その二階のどこかに、彼女の夫がいる。
まだ一度も、顔を見たことのない夫が。
空を見上げると、さっきまで晴れていた空が、みるみる黒い雲に覆われていく。
風が強くなり、乱暴に窓を叩く。
まるで、誰かが怒っているような。
誰かが、苦しんでいるような。
帝都を襲う嵐の予兆をぼんやりと見つめながら、志野は静かに目を伏せた。



