夜会を数時間後に控え、鳴神の主室には、絹が擦れる密やかな音と、高価な香油の香りが満ちていた。
志野は、大きな姿見の前に立ち、己の変貌ぶりに眩暈を覚える。
職人たちの手によって、心血を注いで仕立てられた紫紺の衣は、最近の流行も取り入れ、薄絹が幾重にも重ねられている。
彼女が動くたびに、夜の海のように揺らめいてかそけき風をつくりだした。
「……動くなと言ったはずだ」
背後から響いたのは、いつになく低い、熱を孕んだ声。
志野の首筋を飾る、細工が施された首飾り――。
それを留めようとする朔夜の指先が、志野のうなじに微かに触れた。
彼の指先は、志野を焼き尽くさんばかりに熱い。
「申し訳ありません……。あまりに、その。このお召し物が、私には勿体なくて」
「……この色を選んだのは俺だ。お前に相応しくないはずがない」
朔夜の視線が、鏡越しに志野を射抜く。
彼は志野の背後から包み込むように手を伸ばすと、衣の袖口からわずか覗く白金の庇護紋を、その長い指でなぞった。
「だいぶ馴染んだな。紋が暴れることはないか」
「はい。あの……朔夜様が、守ってくださっているのだと、感じます」
志野が振り返り、潤んだ瞳で彼を見上げると、朔夜の喉仏が大きく上下した。
彼は志野の腰を片腕で強引に引き寄せると、その細い肩に顔を埋める。
彼女の髪の香りを、そしてその肌から立ち上る甘い気配を。
誰にも奪わせたくない。
「……志野。今夜は、一刻も俺の側を離れるな。……本当ならば誰にも、お前を見せたくないんだがな」
彼は志野の耳朶に軽く歯を立てると、彼女が驚きで身を強張らせるのを愉しむように、低く喉を鳴らした。
それは甘美を通り越し、もはや捕食の予行演習に近しい、危険な慈しみ。
鏡の中に映る二人は、狂王と、その心臓を捧げた供物のようであった。
帝都の社交界は、かつてない熱狂に包まれていた。
七仙家の筆頭、鳴神家の新しい当主が正式な『奥方』をお披露目するという。
しかも相手は、水無月家のお荷物である庶子。
好奇と侮蔑、そして一縷の期待を抱いた、この日本或国の政治や経済を担う権力者たちが、洋灯の煌めく大広間へと集っていた。
「……顔を上げて前を向け。俺の傍から離れるな」
隣を歩く朔夜から発せられるのは、命令する事に慣れている声だ。
会場の入り口に、その二人が姿を現した瞬間、喧騒は一瞬にして静寂へと塗り替えられた。
帝都の人々が息を呑む。そこにいたのは、憐れな庶子の娘ではない。
志野が身に纏っているのは、鳴神当主のみに許された『当主の色』
深淵のような紫紺の衣。
金糸の刺繍が施されたその装いは、彼女の白磁の肌をこの世のものとは思えぬほど鮮やかに引き立てている。
最強の鵺に選ばれ、その色に染め上げられた、儚くも美しい姫君であった。
志野は、大きな姿見の前に立ち、己の変貌ぶりに眩暈を覚える。
職人たちの手によって、心血を注いで仕立てられた紫紺の衣は、最近の流行も取り入れ、薄絹が幾重にも重ねられている。
彼女が動くたびに、夜の海のように揺らめいてかそけき風をつくりだした。
「……動くなと言ったはずだ」
背後から響いたのは、いつになく低い、熱を孕んだ声。
志野の首筋を飾る、細工が施された首飾り――。
それを留めようとする朔夜の指先が、志野のうなじに微かに触れた。
彼の指先は、志野を焼き尽くさんばかりに熱い。
「申し訳ありません……。あまりに、その。このお召し物が、私には勿体なくて」
「……この色を選んだのは俺だ。お前に相応しくないはずがない」
朔夜の視線が、鏡越しに志野を射抜く。
彼は志野の背後から包み込むように手を伸ばすと、衣の袖口からわずか覗く白金の庇護紋を、その長い指でなぞった。
「だいぶ馴染んだな。紋が暴れることはないか」
「はい。あの……朔夜様が、守ってくださっているのだと、感じます」
志野が振り返り、潤んだ瞳で彼を見上げると、朔夜の喉仏が大きく上下した。
彼は志野の腰を片腕で強引に引き寄せると、その細い肩に顔を埋める。
彼女の髪の香りを、そしてその肌から立ち上る甘い気配を。
誰にも奪わせたくない。
「……志野。今夜は、一刻も俺の側を離れるな。……本当ならば誰にも、お前を見せたくないんだがな」
彼は志野の耳朶に軽く歯を立てると、彼女が驚きで身を強張らせるのを愉しむように、低く喉を鳴らした。
それは甘美を通り越し、もはや捕食の予行演習に近しい、危険な慈しみ。
鏡の中に映る二人は、狂王と、その心臓を捧げた供物のようであった。
帝都の社交界は、かつてない熱狂に包まれていた。
七仙家の筆頭、鳴神家の新しい当主が正式な『奥方』をお披露目するという。
しかも相手は、水無月家のお荷物である庶子。
好奇と侮蔑、そして一縷の期待を抱いた、この日本或国の政治や経済を担う権力者たちが、洋灯の煌めく大広間へと集っていた。
「……顔を上げて前を向け。俺の傍から離れるな」
隣を歩く朔夜から発せられるのは、命令する事に慣れている声だ。
会場の入り口に、その二人が姿を現した瞬間、喧騒は一瞬にして静寂へと塗り替えられた。
帝都の人々が息を呑む。そこにいたのは、憐れな庶子の娘ではない。
志野が身に纏っているのは、鳴神当主のみに許された『当主の色』
深淵のような紫紺の衣。
金糸の刺繍が施されたその装いは、彼女の白磁の肌をこの世のものとは思えぬほど鮮やかに引き立てている。
最強の鵺に選ばれ、その色に染め上げられた、儚くも美しい姫君であった。



