帝都鵺恋綺譚――軛の花嫁

「ここは帝都でも珍しい、最上級の豆を挽いてくれる珈琲店です、さあ、志野様」

 右近が軽やかにステンドグラスのはめこまれた扉を押し開けると、カランと涼やかな真鍮製の鈴音が響いた。
 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、志野の身体をふわりと包み込んだのは、深く焙煎された珈琲豆の芳醇な香りと、微かに鼻腔をくすぐる焼き菓子の甘い匂いだった。
 それは、朔夜の書斎に漂う静謐で張り詰めた空気や、水無月の家で嗅ぎ続けてきた埃の匂いとは全く違う。
 華やかで、どこか退廃的で、知性と文明の香りがした。

 店内には、舶来の蓄音機から静かな管弦楽の調べが流れている。
 洋灯の柔らかな琥珀色の光が、磨き抜かれた木肌の美しいテーブルや、真紅のベルベットが張られた椅子を上品に照らし出していた。

 客層も、仕立ての良い背広を着た紳士や、豪奢な帽子を被った令嬢ばかりで、誰もが静かにそれぞれの午後を愉しんでいる。
 志野は、左近に促されるようにして、店の奥まった、外からの視線を遮れる円卓へとおずおずと腰を下ろした。

「寿町まで歩く前に、少し喉を潤しましょう。身分の確かな者しか出入りを許されない場所ですから、ご安心を」

 左近は周囲の客層に鋭い視線を巡らせ、怪しい気配がないことを確認した後、ようやく腰の軍刀の柄から手を離した。
 やがて、純白のフリル付きのエプロンを身につけた給仕の娘が、恭しく盆を運んでくる。
 ことり、と置かれたのは、繊細な金の縁取りが施された白い磁器のカップ。
 漆黒の液体が、やわらかな湯気を立てている。
 横には、志野がこれまで見たこともないような、美しい菓子が添えられていた。

「右近さんが、頼んでくださったのですか?」

「ええ。珈琲には、甘いものが合いますからね。本日のおすすめメニュウ『舶来酒漬け果実のタルト』だそうです。志野様にぜひ召し上がっていただきたくて」

 宝石のように艶やかな苺や木苺が、琥珀色の飴を纏ってサクサクとした生地の上に飾られている。
 志野は銀の小さな(フォーク)を手に取り、躊躇いながらも一口、その果実を口に運んだ。
 途端に、爽やかな酸味と、クリームの濃厚な甘さが舌の上でとろけ、志野の目を丸くさせた。

「……美味しい」

 思わず、と零れ落ちた感嘆の声に、右近と左近が嬉しそうに目を見合わせる。
 続いて、志野がおずおずとカップを口に運ぶ。
 芯のある苦味の後に、先ほどのタルトの甘さと混じり合い、仄かな甘みが鼻腔を抜けていった。

「……すごく苦いのに、どこか凛としたお味で。甘いお菓子と、とてもよく合います」

 水無月の檻の中で、ただ息を潜めて生きてきた日々。
 それが嘘のように、今、自分は帝都の華やかな場所で、温かい飲み物と甘いお菓子を味わっている。
 朔夜という絶対的な庇護者の存在が、志野にこの初めての経験(・・・・・・)を与えてくれていた。

「それは良かったです。志野様のその笑顔を見られただけで、お連れした甲斐が――」

 右近が満足げに頷いた、その時。
 入り口の鈴が再び鳴り、店内の温度が不自然に数度下がったような錯覚に、志野は肌を粟立たせた。

 先ほどまで美味しく感じていた珈琲の余韻が、一瞬にして口の中で泥のような苦味へと変質する。
 蓄音機の音楽が、ひどく遠く、歪んで聞こえた。

 コツ、コツ、と。
 磨かれた床を叩く、革靴の冷たい足音。
 銀縁の眼鏡が、洋灯の光を冷たく撥ね退ける。
 洗練された三つ揃えの背広を完璧に着こなした男が、音もなく歩み寄ってきた。

「——おや。これは珍しいところで、我が家の『出来損ない』と再会したものだ」

 粘りつくような、厭蛇の這いずるような声音。
 志野の指先が凍りつき、手にしたカップが、ソーサーの上で微かに震える。

「……お、義兄様」

 水無月昭人(みなづきあきひと)
 志野を消費財(・・・)と看做し、鳴神家への売り渡しを画策していた張本人が、唇の端を歪めて志野を見下ろしていた。
 表向きは帝都のインテリ層を装う紳士。
 しかしその背後には、彼の異能の影響か、影が数匹の蛇のように不気味に蠢き、揺らめいている。
 彼の纏う陰湿な霊圧のせいで、周囲の客たちは無意識のうちに恐怖を感じ、そそくさと視線を逸らしていた。


 即座に、右近と左近が椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。

「水無月昭人殿。禁衛府の任務中につき、無用な接触は控えていただきたい」

 左近の声には、先ほどまでの穏やかさは微塵もない。
 腰の軍刀の鯉口がカチャリと切られ、彼の全身から鋭い刃のような霊圧が放たれる。
 右近もまた、笑顔を完全に消し去り、志野を背中で庇うように立ち塞がった。
 しかし昭人は、その脅しを柳に風と受け流し、執拗な視線を志野の右腕へと注いだ。

「鳴神の庇護、か。……よほど上手くあの大将を誑かしたらしいな。無能の分際で、その色はひどく分不相応だとは思わないか?」

 昭人が一歩、志野へと踏み出す。
 右近が前に出ようとしたが、昭人の足元から伸びた影の蛇が、牽制するように威嚇の鎌首をもたげた。
 昭人は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、志野の青ざめた頬をなぞるように視線を這わせた。

「お前はまだ、自分が何のためにそこに居るのか理解していないようだ。……あのお方が、何の目的もなくお前のような無能を甘やかすはずがないだろう?」

「……っ」

「いいか、志野。熟した果実は、最も美味しい瞬間に捥がれるものだよ。お前が今味わっているその甘い夢も、すべては最後の一滴までお前を喰らうための下準備に過ぎない」

「黙れッ! 志野様に指一本でも触れてみろ。ここが帝都の真ん中であることを後悔させてやる」

 右近が怒声を上げ、ついに軍刀を半ばまで引き抜いた。
 右近と左近の異能は、水無月家の次期当主である昭人と比べても互角か、それ以上だ。
 二人が揃っている今は、間違いなく双子の護衛に分がある。
 ここで事を構えれば、ただでは済まない。

 その力関係を計算し尽くしている昭人は、興ざめしたように鼻で笑うと、一歩だけ後退りした。

 昭人は興ざめしたように鼻で笑うと、志野の耳元で密やかに囁いた。

「次の夜会が楽しみだ、志野。お前がその紫紺の鳥籠の中で、どんな無様な鳴き声を上げるのか……。せいぜい、賞味期限を違えないことだな」

 それだけ吐き捨てると、昭人は悠然と踵を返し、鳴り響く鈴の音とともに店を去っていった。
 扉が閉まると同時に、彼が持ち込んでいた陰湿な霊圧も霧散する。
 残された店内に漂う珈琲と甘い菓子の香りは、志野にとって、もはや虚しいだけのものに変わっていた。

「志野様……大丈夫ですか?」

 右近が心配そうに肩に手を置こうとして、躊躇い、拳を握りしめた。
 志野は、自分の腕を強く抱きしめる。
 肌に刻まれた白金の紋章が、先ほどよりも一層激しく、熱を持って脈打っていた。
 まるで、離れた場所にいる朔夜が、彼女の危機を察知して怒りに震えているかのように。

「……はい。大丈夫、です」

 震える声でそう答えたものの、志野の胸には、昭人が残した毒のような予感が深く深く突き刺さっていた。

 昭人が残した『お前を喰らう』という言葉。
 先ほどまで感じていた初めての自由の甘さは、過去の凄惨な記憶という暗闇に、あっけなく飲み込まれてしまったのだった。